自主ゼミへ伸びる導火線
複数人で自主ゼミを始めた。まだ始めたばかりで、これから続けていけるのか、あるいは価値のある記録にできるのか、など様々なハードルが見えている中で、開始直後だからこそ生々しさを書けると信じて、この記事を書く。
「なぜ自主ゼミに至ったのか?」という経緯を発端となった人間が残そうと思う。
好奇心が死んでいないか?
社会人というものを数年、あるいは数十年やってきた人で、自分に余裕があると思える人はどのくらいいるのだろうか?
経済的な自立できた
会社での地位もそれなりにある
仕事もまあ満足している
しかし、心の余裕はない、という人が多いのではないか。私自身がそうで、それに気づいたのは2023年から2024年にかけて実家に帰省しているときだった。
責務と好奇心の不協和
あなたが何らかの仕事をしていたとして、仕事するにあたって何らかの責務が発生するのはおそらく間違いない。そして、その責務は次から次へと降りかかってくるだろう。
仕事柄、まあとにかく多方面の諸々をやる。ITエンジニアだからといって、コードを書くなりインフラを作るなりだけではなく、それら以外のITとは何ら関係のないような何事かをたくさんする必要があるし、周囲からも求められる。
私はそういう「〜する必要がある」タイプの責務を優先してやらないといけない、余った時間で自分の好奇心を満たそう、と思っているタイプなので、責務を優先した。
そして仕事では何らかの問題を「今ある知識や経験で早急にどうにかする」という場面が多く、新しい何か・未知の何かを敬遠する癖がつく(なぜなら予測可能で確実な成果が必要だと思っているから)。上記の自分の気質はどんどん強化されていった。
これがエスカレートすると、学習 = 辛くリスクのあることという認識に至る。事実誤認の類だが、私はこの誤認をやらかしていた。
このとき犠牲になったのは好奇心というやつだ。
何かに興味を持っても、それを打ち切って「やる必要がある」責務を優先させる。やる"べき"ことは次から次へ降りかかってくるので、時間が余ることなどない。
そういう働き方・生き方をしていたら、何かを面白がれる自分が死にかけていて、降ってきた責務を淡々とこなすだけの自分が残っていた。
面白がるフォン・ノイマン
実家に帰省したとき、手に取ったのはノーマン・マクレイの「フォン・ノイマンの生涯」という本だった。学生時代に買った本で、その頃はまだ文庫で出ておらず選書しかなかった(当時は絶版で、中古で手に入れた)。
ノイマンの熱烈なファンである著者が、事細かく調べたフォン・ノイマンの生涯を(だいぶ贔屓目に)述べるという内容だ。恥ずかしい話だが、勢い勇んで買ったはいいものの、積読になり、そのまま実家に放置した状態で10年近く経ってしまっていた。
要約すると「フォン・ノイマンはすごい!」という内容で、実際その通りである。年末年始の静かな時間に、いつになくゆっくり本を読んだ。
このとき自分は、彼の特徴を次のようにまとめた。
考えることを楽しんでいる、未知を面白がっている
信じられないほど頭がいいけど、結構いい奴
興味の幅が広いから、そこかしこでとんでもない業績を残す
最後の頭の良さは真似できないにしても、彼の気質から学べることはないだろうか?
この人は結局、才能がどうこうの前に、何かを考えたり行動したりすることを楽しんでいるのだ。頭が火星人のようにいいから抜群な業績が残っただけで、それを駆動する性質は何よりも「考えることを楽しんでいる、未知を面白がっている」ところにあると私は感じた。
(余談だが、何かを為すには他人の力が必ず必要になる。フォン・ノイマンはいい奴だったからこそ、他人の力を随所で借りて色々な業績を残せたのだと思う。だから上記の気質以外にも良い人格というのは、事を為すには重要なのだろう)
面白がれない自分
翻って、(恐れ多くも)フォン・ノイマンを比較対象に自分を分析してみよう。
これは何が悪いのだろう? やるべきことをやる、というのは大切なことだ。それを否定する気は毛頭ない。
ただ、そういう気質がエスカレートして感じたのは、状況に対して限りなく受け身になることの危うさである。
「誰かに言われればやるけれども自分では何がしたいか分からない」というような感じだ。"何か"とは別に偉大な夢である必要はなく、ゲームがやりたいとか映画が見たいとか、そういうレベルのものである。
見るからに不健康ではないだろうか。仕事でそういうスタンスになるのは分からないでもない。しかし、それが日常生活にまで浸透してくると、それはもう自律的な判断を人生全般で投げ出してしまっている。
これがなぜ危ういのかと言えば、フラットに言うと「面白いと思えない」からで、それは自分の中に立脚点、あるいは価値基準がないことを示しているからだ。
学ぶのは本来面白いはずだ
本来、未知を既知に変えていく、学習という行為は面白いことだったと思う。それは自分ができることや思い及ぶことの範囲を広げることであり、もしかしたらできることが増えるかもしれないし、逆にできる・できないの境界がはっきりするようなことかもしれない。
好奇心、探究心とも言える、こういう感覚は小学生くらいまではわりと持っている人が多く、年齢と共に徐々に影を潜めていくような気がする。理由はそれぞれで、仕事、人間関係、経済的な制約、時間など、その人の置かれている状況によるのだろう。
「それって面白いね!」という、素直な感覚が消えるとどうなるか?
今以上に探索したり調べたり冒険したりすることがなくなるので、この世界の景色が広がらないのである。そんな窮屈な状態になりたくないと私は強く感じた。
人の持つ好奇心
自主ゼミではゲーム理論の学習をすることになった。では、なぜゲーム理論だったのだろうか?
実を言うと、別にゲーム理論でなくてもよかった。強いて言えば、下記のような理由による:
そのとき手に取っていた本がフォン・ノイマンの伝記だった
近くに経済学に並々ならぬ興味を抱いている者(日曜経済学者のこと)がいた
実家の近所のブックオフでゲームの理論と経済活動の1巻が売っていた
だから、大したきっかけはなく、フォン・ノイマンにあやかっただけだ。場面が場面だったら「丹沢山塊における地域伝承のフィールドワーク」とか「ペーパードライバー脱出計画」とか、何を選ぶ可能性があった。
「何でもよかった」というのは、以下のような仮説というか個人的な信条を持っていたからだ。
面白がる力は誰しも持っているのではないか
フォン・ノイマンにはなれずとも、何かを面白がって、できる範囲で考え抜くことはできるのではないか、と考えた。何故なら、子供というのは何にでも興味を示し、我々は例外なく子供であったからだ。
「偉大な業績を!」と考え始めると、そこには適性や才能の話を真剣に検討する必要があるだろう。しかし、その一歩手前で「これは面白いぞ!少なくともオレは面白いと思ったぞ!」と判断する感性は本来誰しもある、というのが個人的な考えだ。
そうであるとすれば、何を選んでも、結局それを面白がり始めるのではないか?
実は何だって面白いのではないか
フォン・ノイマンの業績は多岐に渡る。それは彼の興味の幅が広かったため、というのもひとつの考え方だ。だが、実は何だって面白さを含んでいて、手当たり次第に面白いことをやっていっただけ、という考え方もできる。
そうであるとすれば、何を選んでも、結局面白くなるのではないか?
ならば、題材はなんでもいいことになる。
きっかけがあるだけではないか
では、どうしてそれを選ぶのか?という話になる。これはロジックではなく、単にそういうきっかけの有無に過ぎないのではないか。この点はまさにセンスとか運と言っていいと思う。
上で書いたように、今回はたまたまゲーム理論に近しい状況が揃っていたところに、何か深く学びたい、という動機が明確にあったからゲーム理論になったに過ぎない。
散らそうぜ火花
上でつらつらと述べたことを、あまりまとまっていない形で仲間内で話してみると、似たような問題意識を抱えている人がいた。それがこのマガジンの3人である。
つまるところ、「学ぶって楽しい」という感覚を忘れてしまっていることへの危機感を持っていたのだ。この感覚があるのは自分だけかと思っていたが、意外と共通する悩みでもあったらしい。
このマガジンを公開する目的の1つは、潜在的にたくさんいるかもしれない、同じような悩みや感覚を持っている人に1つのアプローチを共有することでもある。
主題は上記の通りでゲーム理論に決まったが、じゃあ何を使ってゼミをしてみようか、という話になった。ここで日曜経済学者が持ち出してきたのが岡田のゲーム理論である。
門外漢3人が挑めるような教科書ではないと思った。自分だったら確実性を担保するために、もっと初心者向けの教科書から始めるのに……と思った。
だが、その想定は狭い自分の考えでしかなく、やはり今抱えている自分の課題というのを越えられないような気がしたので、そのまま承諾して今に至る。自分の課題を越えるには、時として他人の導きが必要なのだ。
(結果的に、自主ゼミという場所でこの教科書(というか難しい本)を採用したメリットはかなりあって、それは別の記事で書こうと思う)
こうして、枯れた好奇心に火をつけるために、我々の自主ゼミが始まったのだった。