拾う神
えてして不幸な女というのは落ちやすく、こんな俺でもその領域を専門にしていれば女に不自由するということはないのだが、もちろんそれはそれで面倒なことも多い。
不幸、といってもそれは種々様々だが、俺が言う不幸な女というのは世間のそれとは少々違っている。虐待を受けた生い立ちや、食事もままならないほどの貧しい生活環境や、身心の自由を奪われるほどの大病や怪我、といったような、誰もがそう認める、歴然とした記号的事実に基づく事象のことではなく、それがどのような事態にせよ、そこにいかなる現実があるにせよ、自分だけが、ただ己のみがこの世界に取り残された不幸者だと思い込んでいる女のことで、そしてその原因というのが絶対的なまでに自分以外にあると信じ込んでいる女のことである。
そういう女は嫌な奴が多く、俺の言う不幸というのは、それはつまり嫌われている女のことである。
これでもかと、性格の悪い女のことである。
嫌われている女というのはもちろんその周囲に人が集まらないので競争が少ない。競争が少なければこちらがモノにする確率というのは格段に上がる。嫌われている女から好かれるのは実に簡単なことで、それは相手を徹底的に肯定していればいいだけのこと、ただひたすらじっと相手の目を見つめてその話を聞いては、ゆっくりと大きく頷いていればいいのであって、そうしていればおのずと相手は大抵こちらに好意を示す。喜怒哀楽を全て相手に合わせ、女の敵を己の敵とし、一緒に地団駄を踏んでは世界を罵倒すればいいのである。
もちろん話半分、どころか、基本的には全て演技である。彼女達は自らに関わる周囲の人間を無差別に攻撃しては、いかに自分という存在が恵まれていないか、この世界におけるどれだけの不運を背負っているかということを蕩々と語っているだけなので、同じ話に幾度も耳を傾ける必要はない。
あまねく嫌われている女というのは同じ話をする。年齢も育った環境も仕事も違うが、主張していることは一つである。悪いのは全て「自分以外」。それだけである。しかし何がどう悪いのか、どうすれば良くなるのかということは一切話さない。そんなものに答えはないからである。
嫌われている女から好かれることに抵抗がなければ問題はないのだが、世の多くの男は周囲が嫌う女を自分も嫌う。それは、男は自分が好いた女が周りからも好かれていないと不安になるからで、あいつ、あんな女とくっつきやがった、あんな女のどこがいいんだよといった嘲笑を恐れるからである。根本には、男というのは女を自らの所有物と考える傾向があるように思われる。自らが所有しているモノを悪く言われるのは自分が悪く言われるのと同義である。自分の女を悪く言われるのは自分のセンスを否定されることであり、男はそれを極端に嫌う。
幸いなことに俺はその辺の感覚を持ち合わせていない。女を自分の所有物などとは考えないし、女の評判が自らのそれと一致しているなどとは毛頭も思わない。そういった意味で俺は男女平等主義者である。それを俺は、人とは違う、などと言うつもりはない。自分だけが特別なセンスを持ち合わせている、斬新な感覚を有した希有な存在だとしたり顔をするつもりはない。それでは嫌な女と一緒だが、だからといって彼女達とは違うと言うつもりもない。
単に自分はそうしかできないからである。俺は嫌われ者市場でしか勝負できない。誰もが認める、容姿も性格も抜群の一軍の女性を相手にすることは俺にはできないし、そもそも相手にされない。相手にされないのを受け容れている。俺が狙うのは一軍から滑り落ちた、容姿が抜群の性格破綻者であり、誰もが敬遠する嫌われ者達である。
ビッチと呼ばれるような女でも、自分がヤレさえすれば問題ないのである。あんな女のどこがいいんだよ、あんなのに引っ掛かってんじゃねえよと、そんな忠告を真に受けていては俺は一歩も前に進めないのである。俺は敢えてそうした女に挑んでいるのであり、そうすることで現実の世界でリアルな便益を手に入れる。こうして言葉にして説明するとまさに俺も性格破綻者だが、それを悪いことだとは思っていない。捨てる神があればなんとかで、モテない俺はニッチを狙ったまで、誰かがやらなければ他の誰かがやるのであって、その誰かが俺だけだっただけである。よって俺はこの手法について批判も非難も受け付けない。俺は男女平等主義者であり、女をモノとして扱うことは一切しない、拾う神なのである。