ベネター教授 楽観主義バイアスについて & 視聴者からの質問に答える
今回は、Youtubeの音声動画でソースが分からないのですが、ベネター教授が「The Human Predicament」(2017年6月)出版後に出演したと思われるラジオ番組の音声を紹介します。
記事も4回目になり内容もかなり重なってきたので、まだカバーしていないかサクっとしか触れていなかった論点のみを訳してみました。
また後半は視聴者からの電話コーナーになっていまして、英語/キリスト教圏の人のアンチナタリズムへの反応が聞けてとても面白いのですが、残念なことに回線が悪くベネター教授に質問が聞こえていないようなのと、最後には突然回線が切れるという事故が起こってしまいます。
いつも通り、人生がいかに悪いものであるか、人生には宇宙的な意味はないが地上的な意味があるという話をします。
過去の記事でポリアンナ効果に関する議論を訳しましたが、ここでは楽観主義バイアスについてもう少し詳しく話しているのでその辺から始めたいと思います。
人生を悲観的に見る人もいれば楽観的に見る人もいます。一般的には悲観的に見る人が人生の評価を間違っていてセラピーなどを必要とする存在として見られがちだが、ベネター教授は実際には人生を間違って楽観的に見ていることが多いと主張します。(楽観主義バイアス)
18:50
ホスト:「世の中には楽観主義バイアスが蔓延しているが、曇りのない目で冷淡に見れば、人生とはかなり悪いものであるということですね」というコメントに対して、、、
デイヴィッド: その通りです。「The Human Predicament」では楽観主義バイアスの存在を示す議論を提示しましたが、その上で私たちの人生を客観的に観察し、そして人生をより良くする要素とより悪くする要素とは何かという3つの概念について検討しました。ここで私が示しているのは、これらの3つの概念のどれを選ぶべきかということではなく、どの概念を基準にしても人生はかなり悪いものであるということです。
1つ目の概念は人生における苦痛と快楽で、この観点から見ると、私は人生には快楽よりも多くの苦痛があると思います。その証拠の一つとして、苦痛の悪さは快楽の良さを上回る傾向が見られます。最も激しい苦痛の度合いは最も素晴らしい快楽の度合いを上回ります。継続する長さにおいても、苦痛は快楽より長く続きます。慢性的な苦痛はありますが慢性的な快楽というものはありません。慢性的に満足している状態はあるかも知れませんがそれは慢性的な不満足に対応するものであり、慢性的苦痛に対応するものではありません。
また、人生には苦痛の方が快楽より多いことを示すためのテストもあります。欲求について考えて見ましょう。これは2つ目の概念で、私たちの欲求がどれだけ満たされているかによって人生の質を評価するというものですが、私は欲求というものは往々にして阻まれるもので、満たされることは少ないと考えます。私たちの欲求はほとんどの場合満たされることはなく、もし満たされたとしてもそれは一時的なものです。なぜなら新しい欲求が現れるからです。
また、欲求に関する大きな問題は、私たちの欲求というものは実際のところ、それが満たされると合理的に期待できる範囲に限定される点です。例えば、あなたが200年生きたいと思ってもそれは叶わないことが分かっていますね。ですから分別のある人は欲求を現実的な範囲に制限するのです。
3つ目の概念は、客観的リストと呼ばれるもので、客観的に「良いもの」と「悪いもの」を使って人生を評価するものです。私の考えでは、この場合も結果はひどいものになります。
例えば「長生き」を良いものだとしましょう。それなりの質を伴った長生きという条件付きです。その上で、1〜2秒だけ生きるのと、数百年、数千年または永久に生きることを比べると、私たちの人生は1〜2秒にずっと近いといえます。
また「知識」が良いものだとして、一人の人間がまったく何も知らないか、すべて知っているかというと、何も知らない方にとても近いでしょう。全知とは反対方向です。
このように、私たちが客観的に良いとすることを基準にしても人生は悪いものだと言わざるを得ません。
ホスト: このトピックをもう少し掘り下げてみましょう。楽観主義バイアスが人々の自然な傾向であり、人々は人生の良し悪しを曇りのない目で観察することを避けようとするのであれば、もっとその証拠を確認することが有意義だと思います。楽観主義バイアスは複数の層からなっているように思えます。個人レベルで考えると自分の人生は結構良いものだと思う人はいるでしょう。しかしそれは楽観主義バイアスが働いているのかも知れません。一方、地球全体を見渡すと苦しみに満ちているのが観察できますね。世間に蔓延している楽観主義バイアスというものに対抗するには、このことをしっかり認識する必要があると思います。
デイヴィッド: 曇りのない目で現実を見ることは、さまざまな面で耐え難いことだと思います。人生の質がどれだけ悪いのかを直視することは耐えがたいので、多くの人は楽観主義バイアスを利用して、悪いことをシャットアウトします。
しかし時には他人の人生の苦境を見て、そのような酷い状況でどうやって生き続けることができるのかと不思議に思ったりもするのですが、自分の人生となると悪いことを否定し人生は辛いものだという考えを抑制しようとする膨大な力が働くのです。
このことは、進化論によってうまく説明することができます。なぜなら、どのような特徴を持つ存在がより生を持続し生殖を行うかと考えれば、それは楽観主義バイアスを備え、人生が辛いものだという考えを追い払うことができる存在です。
人生が辛いものであると見る人は、生殖を行って新たな人間を作り出したいと思う可能性は低くなりますし、人によって自殺してしまうこともあります。ここではっきり言っておきたいのは、私は決して行動指針として自殺を勧めているわけではありません。
ホスト: 曇りのない目で見ると人間誰にとっても人生は悪いもので、人生には良いことよりも悪いことの方が多いということですね。今後良くなる見込みもないのでしょうか。
デイヴィッド: ないと思います。多くの人々は楽観的に、人類は素晴らしい科学的発展を遂げて、それによって人間の苦しみのほとんどが取り除かれると思うでしょうが、私はそのような楽観的な考えは持っていません。まったく改善されることがないとは言いませんが、新しい人間を作り出す価値があると考えるのに十分な改善がなされることはないと思います。また、今からその改善がなされるまでの時間差も問題です。その間にも多大な苦しみが発生するわけで、いつか状況が改善するだろうという希望的観測によって生殖を続けることには不道徳を感じます。
例えば、2000年前に誰かが (当時は麻酔という言葉もありませんが)「今は痛みを和らげるものは何もなく、完全に意識がある状態でアルコールを少し飲むだけで足を切断するしかないが、人類はいつか眠った状態で手術を受けられるように麻酔というものを発明するだろう」と主張していたと想像してみてください。しかし、それから麻酔発明までの1800年間に人々が経験した苦しみを、将来の発明の恩恵を理由に正当化できるでしょうか。
私は、現在から将来の間に発生する苦しみについても同じことを言いたいと思います。
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ホストによるここまでの内容のまとめ
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死についての話題。これは過去の記事でカバーしているので割愛
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視聴者の電話を受け付ける
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31:32
視聴者: おはようございます。ケンブリッジ大学の心理学部長がレポートを出しましたが、これによると鬱、不幸感、絶望感といったものは精神疾患ではなく、炎症によって引き起こされる身体的疾患であり、抗炎症薬を服用することによって治療が可能です。これは、ワクチン医療現場では知られていたにも関わらず説明がつかないとされていたことで、このレポートは革命的です。これについてどう思いますか?
デイヴィッド: よく聞こえなかったのですが、うつ病が身体的現象であるということに関する質問ですね。この質問の内容を評価することはできませんが、うつ病とは何かということに関する私の考えは、楽観主義バイアスが蔓延する我々の社会では、単に人生に含まれる苦しみの度合いを正しく捉えて憂鬱な気分になっている人に「鬱」というラベルを貼る傾向があると思います。もちろん、正当化できない程の過剰に暗い世界観を持ち、希望を失い鬱状態にある人はいるでしょう。しかし、非常に暗い世界観を持っていてもそれは単に世界を正しく見ているだけという人も一定数いて、非常に快活な人々が実は、妄想を患っているということはあると思います。この場合もちろん本人は苦しんではいませんが、世界を正しく見ていないということです。
私は、憂鬱な気分になっているすべての人を安易に「病気」であるとラベル付けすることに懸念を持っています。一部の鬱状態が病気であると同時に、一部の楽観状態もある種の病気であると考えます。不快な感情に苦しむ気分の病気ではなく、正しくない世界観を持っているという意味でです。
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次の視聴者の質問「Why bother?」は何をbotherするのか質問者の意図がよくわからず結局地上的な生きる意味の話になるので割愛
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39:00
ホスト: 次の質問に行きましょう。
視聴者: 言いたいことは2点あります。一つは、進化によって私たちの脳はドーパミンなどの特定の反応が起こるようになっています。それによって私たちは生存するために何からの行動を取ったり、それによって快感を得たりします。それがあなたの言うところの地上的な生きる意味でしょうか。
もう一つは、自殺をしてはいけない理由はないかもしれませんが、私には自殺をする理由もないように思えます。
デイヴィッド: 地上における生きる意味や目的は、私たちの周りの人や動物にポジティブな影響を与えることであって、視聴者の方が言っている脳内の化学物質はむしろ人の気分、つまり人生に対してどう反応するかということに関係があると思います。なぜ私たちの脳にそのような化学物質があり、それを持つ人々がよりポジティブな気分でいられるのかついては科学的な説明があります。
質問の後半の方が聞こえなかったのですが、、。
ホスト: ノートを取ろうとしたのですが自分の字が読めません(笑)
進化に関して視聴者が聴きたかったのは、脳内の化学反応に限らず、今我々が置かれている状況はすべて進化の結果であって、人間が生きる意味を求めることもその結果の一つではないかということだと思いますがどうでしょうか?
デイヴィッド: 確かにその通りですが、私たちはすべての進化の力に従うわけではありません。しばしば私たちは一歩引いて本能を批判的に評価します。例えば攻撃性は人類が進化の過程で獲得した特性ですが、私たちは攻撃的な衝動にただ身を任せることはせず、それがある場合において適切な行動であるかどうかをチェックします。楽観性などのその他の特性についても同様のことが言えると思います。
ホスト: あなたと視聴者とのやりとり聞いていて、あなたの考えがより明確に理解できたような気がします。あなたは人生を真の苦しみであると見ているのですね。私たちはどうしようもない苦境に置かれており、多分最初から存在しない方が良かったし、生殖を行ってこの苦境を継続させることはしない方が良い。しかし、すでにここにいる私たちは最善を尽くして生きる意味を見つけたり人生の質を高めようとした方が良いということですね。
デイヴィッド: まったくその通りです。
ホスト: オーケー。次の質問にいきましょう。
視聴者: 今「すでにここにいる私たちは最善を尽くすべき」を言われましたがそれを聞いて安心しました。なぜなら、それを聞くまで私は「社会全体の力学を無視したなんて個人主義的で自分のことしか考えない思想なのだろう」と思っていたからです。しかし、すでにこの世にいる私たちは社会を改善する必要があります。時間はかかるかも知れませんが、それはすでに進行中ですし、そう努力することで私たちは気分が良くなったり生き甲斐を感じたりするのです。
※ここでホストの声が入り、視聴者と教授が同時に話してしまうアクシデント
視聴者つづき: 好むと好まざるに関わらず、私たちは家父長制の支配下で進化をしてきました。それは死の文化であり、一人の男性がトップに立ち、残りの人間はすべてその男性のために何かを犠牲にするような文化で、階級のない平等な社会とは大違いです。いつか人々が素晴らしい自由と平等を手に入れれば、良い気分になり、良いことをするようになり、生きたいと思うようになるでしょう。
デイビッド: なせこの方が私の見解を個人主義的だと思ったのか理解できません。私はこの会話の最初から、地上的意味とは個人、コミュニティー、あるいは人類全体であろうがとにかく他者との関係において成り立つもので、他者にポジティブな影響を与えることによって意味が生まれるのだということを一貫して主張してきました。まさに他の人々との関係が重要なのです。
また、平等な社会についてですが、確かに過度な階級社会というものには問題がありますが、それは沢山ある人間社会の問題の一つであり、より平等な社会の実現によって問題が解決されるとは思いません。もし階級社会的なものが解消され、より平等なシステムになったとしても、人々はさらなる平等を求めてさまざまな緊張関係が生まれるでしょう。人々が互いに「同志」と呼び合うような社会は非常に圧迫感のある社会になりがちです。もし、それは理想的な平等社会でないというなら、(実際はあり得ませんが)理想的な平等社会が実現したと想像してみましょう。その場合でも、病気や階級社会だけが原因ではない人間が制御の及ばないさまざまな苦しみが残ることになります。
ホスト: 次の質問に行きましょう。
視聴者: 私たちが存在しない方が良いという認識に驚いています。馬鹿げた考えだとしか言いようがありません。
デイヴィッド: 多くの人は最初に彼のような反応をします。これは進化論的な力によるものかも知れませんが、すでに生きている人に自分が「存在しない」という可能性を想像するように促すと、彼らは自分が消えること、つまり自分の死を想像するのです。しかし、注意深く想像して欲しいのは、私たちが最初から一度もまったく存在しないという状況です。そうすれば、この考えは馬鹿げたものではないとわかると思います。当然ですが、この世には生まれ得たかも知れないけれど実際には生まれなかった人間は数え切れないほどいます。私たちはこのような非存在について嘆き悲しんでいるでしょうか。生まれたかも知れないのに生まれなかっただなんて、なんて奇妙で馬鹿げたことなんだとは言わないでしょう。私は、これらの生まれなかった人々はアンラッキーな人ではなくラッキーな人だと思います。
ホスト: 次の質問です。
視聴者: 先日、アースデー(earth day)の20周年記念日があり、地球は救う価値があるのか、地球を修復するにはいくらかかるのか、などに関する計算が発表されました。その結果は、地球は救う価値がないというものでした。私は喜びました。なぜなら、彼らの計算が間違っていることを示せば良いからです。計算の仕方が間違っているのです。この会話も同じことです。思考の枠組みやプロセスが間違っているのです。この会話のすべてが間違っています。いいですか、意味=価値ではないのです。人生には価値があります。これは神のいない会話です。これは神の不在という病気です。
彼の人生に意味がないのなら、多分ないのでしょうが、なぜここにいるのですか? Don't let the ozone layer slap you in the butt on your way out, thank you good bye! (訳注:訳しませんが捨て台詞です)
デイヴィッド: 今耳にした視聴者のある種の攻撃性は、私の考えへの反応としてよく見られるものです。この方ははっきりと私に自殺すべきだと言わなかっただけ比較的礼儀正しい方ですが、私はこれよりずっと酷いコメントを沢山受けてきましたし、たくさんの人から自殺をするように言われました。残念ながら多く人は聞く耳を持たないか、この議論を理解できようです。私の議論は自殺を示唆するものではないし、一般の人々に自殺を勧めるものでもありません。 話を聞く気がない人や注意深く議論する気がない人に何と言えば良いか分かりません。
※ここでホストが視聴者が「意味と価値は同じではない」と言ったことについて掘り下げようと質問をしますが、ベネター教授が話し始めたところで電話が切れてしまい、そのまま教授は戻ることなくホストが内容をまとめて番組は終わってしまいました。