ベネター教授、人生の意味について
以前に「生きる意味とアンチナタリズム」というタイトルで、ベネター教授が自国南アフリカ共和国のポッドキャスト「Brain in a Vat」に出たときの音声の紹介しました。そこでは会話の後半の一部を訳しましたが、この度前半の人生に意味はあるのかについてのディスカッション部分を訳してみたのでご紹介します。
ポッドキャストのホストは、Mark Oppenheimer 氏と Jason Werbeloff 氏。
彼らが忌憚なく疑問反論をぶつけていて面白いです。
最初の挨拶後、思考実験に入る0:35秒あたりから。
音声を聞きながら読めるように所々にタイムスタンプを入れました。
**********************************************************************************
00:35
マーク: では思考実験を始めていただけますか?
デイヴィッド: ありがとう。これは私が考えた思考実験ではありませんが、生きる意味に関係するものです。視聴者の皆さんの中にはシーシュポスの神話を知っている方も多いかも知れません。シーシュポスは神々から罰を受け、石を転がして丘を登るという運命を課せられます。丘の頂上に着くと石は転がり落ちシーシュポスはこれをまた頂上まで転がさなければなりません。これを永遠に続ける運命を課せられます。
この神話は生きる意味に関する現代哲学の研究、リチャード・テイラーの論文で扱われることになるのですが、その論文の最後の方でテイラーはこの神話にひねりを入れます。つまりオリジナルにおいてはシーシュポスの人生は完全に無意味に見えますね。彼の運命は永遠に石を転がして丘を登るという無意味さに運命付けられているように見えるのですが、テイラーは神々がシーシュポスに「永遠に石を転がしたい」という衝動的な、あるいは普通のレベルの願望を植え付けることでシーシュポスの状況をいくらか緩和させるというシナリオを想像させます。
問題はこのシナリオはシーシュポスの苦悩にどのような影響を及ぼすのかということです。彼は苦悩から完全に解放されるのか、それとも少しだけ苦悩が緩和されるのでしょうか。
この問いが今回の議論の手始めとして良いのではないでしょうか。
ジェイソン: その願望によって意味が生まれるのかということですね。主観的に石を転がして丘を登りたいと思うようになったシーシュポスは今や自分の人生には意味があると思っているわけですから。つまり問題は、自分の人生の主観的な評価がプラスであればその人の人生には意味があると言えるのかということですね。
デイヴィッド: そうですね、何をもって生きる意味とするのかについては意見が別れていて、主観主義者もいれば客観主義者もいます。主観主義者は本人が自分の人生に意味があると感じていれば意味があると考えます。より客観性を重んじる客観主義者はある人の人生に意味があるとするにはいくつかの客観的な条件を満たす必要があると考えます。
もちろん客観主義者でも、「主観的に人生に意味があると感じている」ことを考慮することはあります。つまり「主観的にはその人の人生には意味があると感じていて、客観的条件も満たしている」「主観的にはその人の人生には意味があると感じているが、客観的条件は満たしていない」「主観的に人生の意味を感じていないが、客観的条件は満たしている」というパターンもあるわけです。
03:11
マーク: サディアス・メッツは、生きる意味に関する著書で、「自分が自分の人生には意味があると思ってさえいれば意味はある、自分がどう感じているかが重要なのだ」という多くの人が採用していると思われる主観主義的な考え方を容赦なく批判しています。
その章の最初で彼は、自分は有意義な活動をしているという人の振る舞いをリストしています。例えば特定の本数の髪の毛をキープしている、衝動的に行列に並ぶ、草の葉を数える、自分の排泄物を食べる、「バフィー〜恋する十字架〜」を繰り返し何度も見るといったものです。
そしてメッツは、ある人がそのアクティビティを楽しんでいてそれが自分にとって意味があるのだと言ったからといって実際に意味があることにはならない、これらのアクティビティを実際に意味がある何かに変えることはできない、と主張しています。
デイヴィッド: そのような例を挙げて、誰かがそれに従事することで自分の人生には意味があると言ってもそれは完全に非直感的であり、彼らの人生が実際に意味のあるものになるわけでないと指摘するのはこの議論においてよく使われる手法です。つまり主観主義に反論する議論であり、私もこの主張に共感します。私は、人生の意味ということについて人々は勘違いをしている可能性があると思っています。人間は多くのことを間違えます。すべてのことではありません、例えば自分が存在しているかどうか、自分が痛みを感じているかといったことについて勘違いをすることはできないと思いますが、自分の人生に意味があるかどうかについては勘違いをしている可能性があるのではないかと思います。
この手の議論を進める別の方法は、相手に「人生に意味があるかどうか」とは実際のところどういう意味なのか尋ねることです。この質問には多くの異なる意見があります。例えば、ある人の人生に意味があるとするに必要な条件を指定しようとする人もいますが、個人的にはこのような方法では上手くいくとは思えません。この方法では細かい事柄に気を取られ、重要な主題から離れてしまうからです。
とにかく、人々が自分の人生には意味があるのかと問うとき、私たちはそれが何を意味しているのか大体のことはわかっていると思います。彼らが知りたいのは、人生には何らかの要点があるのか?目的はあるのか?私の人生には何らかの意義のようなものはあるのだろうか?ということです。これらはまったく同じものではありませんが、ルートを同じくする似た考えです。私は、人々が自分の人生に意味があるかと聞くときにはこういったことを問うていると思います。
ジェイソン: 難しい質問ですがスバリその答えを聞いてもいいですか? 人の生には意味があると思いますか?
06:02
デイヴィッド: まずはその質問がどのような視点からなされているかもっと詳しく知る必要があると思います。イエス、人生には意味がある、あるいは意味を持たせることができるでしょう。実際ほとんどの人の人生に何らかの意味があると思いますが、それ以外のとても重要な大きな意味がある人生というものはないと思います。
それについて詳しく説明させてください。意味というものを意義や目的や要点と捉えるなら、さまざまな形でそれらを人生に付加することはできます。例えば、あなたはあなたの家族にとって意味のある存在かも知れません。あなたが存在すること自体が彼らにとって重要なことかも知れません。あなたの行動、あなたの願望、これらが彼らにとって意味があり、彼らに良い影響と与えることも悪い影響を与えることもあるわけです。その場合、あなたの人生は言ってみればあなたの家族という視点から意味があると言えるでしょう。
私はほとんどの人が、(悲しいことに世界中のすべての人とは言えませんが)、この視点からの意味を持っていると思います。しかし、ここからより大きな視点に切り替えることができます。家族からより大きなコミュニティーに広げた場合、この場合でもより大きな共同体という視点で意味を持つ人は沢山いるでしょう。つまり家族より大きなコミュニティーに対する影響力、重要性を持っている人たちです。
さらに視点を広げ人類全体で見ると、その視点からの意味を持つ人生はずっと少なくなります。多くの人は、人類全体に対する意味のある影響を及ぼすことなく一生を終えることになります。しかし、そうでない人も極少数ですがいます。例えば、Covid-19のワクチンを発明した人です。この人は人類に対して影響を与えたと言えるでしょう。この人の人生は人類レベルで意味のある人生です。このように人類レベルで見た場合でも意味にある人生を送ることになる人はいると思います。しかし、それよりさらに大きな視点、しばしば宇宙的視点と言われるものがあります。問題は、我々の生はこの視点からの意味を持つことができるか、ということですが、これについて私の見解は非常に悲観的です。
人生には宇宙的視点の意味はないと思います。私の考えに同意しない人もいます。彼らがなぜ同意しないのか、彼らは宇宙的視点をどのようなものと理解しているのかお話しすることもできます。しかし、私は宇宙的視点に必要十分な条件は満たせないと思います。宇宙的視点は「究極の意味」とも言えるので、これが得られないということは多少なりとも残念なことだと思います。あるいは、大きな失望を感じる人も多くいるかも知れません。
08:51
ジェイソン:しかし、なぜ宇宙的視点の生きる意味が、あなたが言うところの「究極の意味」だと思うのですか? なぜそれが最も重要なのでしょう。個人レベルや共同体レベルの意味がより重要ではないのはなぜでしょうか。視点が広ければより重要になるのはなぜでしょうか。
デイヴィッド: 一般的に、ある1つの軸においては視点がより広くなるほど意味がより大きくなるものだと思います。ある1つの軸においてという意味で、すべての軸でという意味ではありません。つまりそもそもなぜこのような問いが生まれるのかを考えれば、視点が広くなるほど意味が大きくなるという軸があるはずです。想像してみてください。朝起きて、朝食を食べてシャワーを浴びて仕事に行く準備をします。これは、コロナ渦ではなく普通の世界での話ですが。そして職場に着き、仕事にまつわるフラストレーションに耐え賃金を稼ぎます。なぜそうするのかというと食べ物を買うためであり、それは生き続けるためであり、生き続けて仕事をするためです。そのうち人々は一歩引いてこう思うでしょう。「これに何の意味があるのか」と。そしてその過程で経験したさまざまな苦しみを思い返したとき「これは何なんだ。この苦しみに何の意味があるのだ」と自問するのはもっともで自然な普通のことだと思います。
その答えが「私があなたに意味を与え、あなたは私に意味を与える」だけであれば、それは閉鎖された中で循環されている意味のように見えますね。それにもある程度の価値はありますが、すべての苦難、努力や苦闘、そして最終的な死を正当化するに十分ではないでしょう。
マーク: 二つの異なる点が挙げられました。ひとつは私たちの人生には僅かな意味しかなく、私たちの多くはシーシュポスのような果てしない無駄なタスクに従事しているということです。我々が従事しているのは本当に意味のあることではなく、とても反復的でさらにそこにはさまざまな惨めな経験が含まれていて、人生から得られる少しの意味では人生の悪さを相殺はできないと。
もうひとつは視点の問題です。何世代にもわたって人々に影響を与えているマーティン・ルーサー・キング牧師のような人や、何世紀にわたり影響を与えるジュリアス・シーザーのような偉大な人間もいるが、宇宙的な視点にズームアウトして、その時間と空間に思いを馳せながら人類の歴史を考えると、まったく些細なものにしか見えないということ。それでも何かしらの意味はあるという人がいるかも知れませんが、ミクロレベルでの意味しかありません。さらにズームアウトすればそのミクロレベルですらなく完全に取るに足らない意味のないものに過ぎません。
デイヴィッド: 二人の子供が砂場でケンカしているところを想像してみください。ケンカの原因が何であれ、彼らの視点からすればそれはとても重要なことでしょう。最後には叩き合いになる程の大事なことかも知れません。しかし、数十メートル離れてみればそれほど重要なことには見えないかも知れないし、さらに世界規模で見ればその砂場で起こっている喧嘩はまったく些細なものに見えるでしょう。
ジェイソン: 先ほど私が挙げた反論がまさに、その砂場でケンカをしている子供たちが感じた個人的な視点がなぜ宇宙的な視点に比べ重要性が低くなるのか、という点です。
また別の反論として、すでに少し触れましたが、我々には宇宙的な意味があるのではないかというものがあります。その例として私が考えているのは次のようなケースです。何か美しいものを生み出すこと、アートの創作はどうでしょうか? このような活動は、時間や特定の場所というものを超えた何かに寄与しているとは言えませんか? 美しいコンセプト、例えばゴージャスな数学的証明は、誰が作ったとかどこで作られたかということに関係なく広範な重要性を持つのではないでしょうか。
デイヴィッド: なぜそう思うのですか?
ジェイソン: 人が何かを発見したり作るとき -ここでは作ることに絞りましょう-、 人が何か触れることのできないアイデアを生み出したり、または触れることのできるアート作品でもいいのですが、その作品は、1つの物理的な作品という以上の価値を持つのではないかと思います。例えば、素晴らしい彫刻作品には、その材料となる粘土以上の価値があると思います。私には、世界に何か新しいものが生み出されると、その作品によって宇宙に存在する美しさ、または新しい概念の場合はその概念の知的ゴージャスさが増すように思えます。そしてそれは地上のある特定の場所においてのみ増すと考える必要はなく、宇宙全体において増すと考えられると思います。
14:30
デイヴィッド:そうでしょうか。「Beauty is in the eye of the beholder(美は見る人の目の中にある)」という諺がありますね。これは通常「美しさの基準は見る人によって異なる」ことを表すものですが、ここでは別のことを説明する目的で使いたいと思います。もし感覚を持つ存在がいなくなれば、そしてその時はいつか来るわけですが、誰かによって作られたアート作品の価値もその時点でなくなります。つまりその価値は作品を見てそこに何らかのポジティブな意味を見出す人にとっての価値ということになります。それが粘土の塊の中にのみあるわけではないことには同意しますよ。しかし、その価値はそれを見る人の目の中にあるのです。
ジェイソン: あなたは美の価値に限らず、あらゆる価値についてそのような見解を持っているのですか? すべてのものは特定の知性に知覚されたり考察されたりすることによってのみ価値を持つと。それを知覚する知性の外側においても価値を持つことはできないのでしょうか。
デイヴィッド: 今の質問には少し曖昧なところがありますね。誰が何かを価値があると知覚する必要があるのか、と解釈することもできますし、何かが価値を持つためにはそれを知覚する何者かが必要なのか、という解釈もできます。
ジェイソン: 後者で行きましょう。
デイヴィッド: 後者の方がよいですね。なぜなら、人々は何かに価値があるかどうかについて判断を誤る可能性が十分にあるからです。パラセタモールという単純な痛み止めについて考えてみましょう。この薬の価値は、比較的マイルドな痛みを取り除くというものですが、その価値が誰かに認識すらされないという場合があります。例えば気づかないうちに誰かがあなたに投与して、その結果あなたが痛みから解放されるということがあるかも知れません。その場合、あなたに認識されなくてもその薬にはポジティブな価値があったことになりますね。しかし、感覚のある動物が存在せず誰も痛みを感じなければ、パラセタモールは価値を持たなくなります。
ジェイソン: なるほど。今の例が道理にかなうのはパラセタモールには特定の機能があるからですよね。その機能は痛みを軽減するというものですが、痛みに苦しむ人がいない宇宙というものがあったら、その機能は決して発揮されず、そのため価値もありません。しかし、機能以外の価値を持つ別のものも存在するのではないですか?
例えば、美術品に機能面での価値を見出すのは難しく、機能以上の何かがあるように思えます。
ところで、私はこのような議論を展開していますが実はアートの存在すら信じていないのです(笑) 自分は信じていないのですが、信じる人の多くはこのような議論をするだろうと想像しているのです(笑)。
17:18
デイヴィッド: その場合でも機能の面から説明することはできるかも知れません。鎮痛剤に適用される機能的メリットとは異なる、ある作品が人に与える美的メリットのようなものです。あなたの後ろにアート作品がありますね。その作品の価値はそれを見るあなたという知覚者にとっての価値と言えるかも知れません。そういった意味での機能がありますが、感覚のある動物がすべていなくなり、その作品だけが壁に掛かっているとき、私にはその作品に価値があるのか解りません。
ジェイソン: マーク、この意見に同意する?? 君は違う見解を持っていると思うけど?
マーク: 価値を知覚するためにはそれを知覚する者がいなければならないのか、というジェイソンの反論の仕方では別の問題への道を開けてしまうと思います。先ほど私たちは宇宙を視点と捉え、宇宙の時間と空間の大きさを考えると、あるものの価値が取るに足らないものになるという話をしました。しかし、宇宙それ自体は知覚者ではありません。もし、価値について判断するために知覚者が必要だと言うのなら、宇宙の視点を持ち出すのは間違っているかも知れません。
デイヴィッド: 宇宙自体は視点を持っていないという点はまったく正しいと思いますね。しかし、こんなシナリオも想像できます。宇宙の人口密度が非常に高い、いや、そんなに高くなくても良くてとにかく地球以外にも感覚を持つ生物がいるシナリオです。ある地球人の人生が他の地球人たちにとって意味がある場合と同じように、ある地球人の人生が遠い宇宙のどこかの生物にとって意味があるシナリオを想像してみましょう。このシナリオでは地上の視点と同様にある程度の宇宙的視点からもその人の人生には意味があると言えます。もちろん、さまざまな程度があります。地上の視点でも程度の差があるように、宇宙の視点にも程度の差はありますから「ある程度の宇宙的視点から」という言い方になると思いますが。
しかし、もし地球以外に生物がいないか、いてもそれら対して影響を及ぼすことがないのなら、私たちの人生にはそう言った種類の意味はないということだと思います。
マーク: ではこうも言えますね。人類が絶滅した後、人類が生み出したさまざまなことを記録したものをエイリアンが発見したとします。彼らはそれらに価値があると判断してそれらを宇宙に向かって配信し、宇宙のエイリアンたちもかつて存在した地球人が作ったものを楽しんだり、そこから啓発されたりしたとしたら、私たちの生は絶滅後でも宇宙の視点からより意味を持つようになったと言えるわけですね。その記録は宇宙的な役割を果たし大きな影響を与えているわけですから。
20:37
デイヴィッド: そうですね。もちろん、その影響の性質にもよりますよ。それに関する思考実験があります。ロバート・ノージックは我々の人生の目的は銀河間旅行者の食べ物になることである、というシナリオを考えました。つまり、我々は銀河間旅行者が食べ物に困らないようにするために生み出されたというものです。さて、これも宇宙的な目的と言えるかも知れませんが、正しい宇宙的目的、満足の得られる目的とは感じられないのではないでしょうか。人々が自分の人生の目的を問うときに求めている答えではないと思います。人生のさまざまな苦難を乗り越え、日々の雑用をこなし、それらが辛くなって「人生に何の意味があるのだ」と問う時に「銀河間旅行者の食べ物になるんだよ」と言われたら「オーケー、それは何より!気分が楽になりました!」と言いますか?
そのような反応はしませんよね。ですから人類が何を後に残したのか、エイリアンたちにどんな影響を与えたのかについてもっと詳しく知る必要があります。そしてそれが正しい種類のものであれば、答えはイエス、私たちの人生は絶滅後に宇宙的な意味を得たということができるでしょう。
ジェイソン: それで思い出しました。作者の名前は忘れてしまいましたがあるSF小説で、人類が1900年代にラジオ波の放送を始め、その後テレビやミュージックビデオもどんどん遠い宇宙に流されるようになり、とうとう近隣の星系に達しそこの住人たちにエンターテインメントを提供することになるのですが、地球人はそのことを知らないと言う設定です。しかしある日、地球のプログラムが変わり近隣のエイリアンたちは動揺します。このような場合、先ほどおっしゃったようにエンターテインメントに意味があるとしてそれが宇宙の他の星系に届いたら私たちのエンターテインメントは宇宙的な目的または意味を持つわけですね?
あなたは、私たちの活動が宇宙の視点から意味を持つと言うには、その活動が宇宙空間を貫通するように影響を及ぼす必要があると言いましたね。私はその主張について疑問があります。
まずあなたは最初に、人類しか存在していない世界を想像しようと言いましたね。しかしその後に地球以外にも沢山の生物が存在する宇宙を想像し、その場合私たちの生に意味を持たすためには宇宙の片隅まで多くの存在に影響を与える必要があると言いました。
それではもう一度最初の人類しかいないシナリオに戻りましょう。この場合、地球以外の広大な誰もいない宇宙の彼方を、地球という特定の場所以上に重要だと考える必要があるのでしょうか?
あなたが言う通り生の意味には知覚者が必要だと仮定して、しかし地球以外の宇宙では何も知覚される事はありません。知性が存在しないからです。それにも関わらずなぜ、私たちの生にどれだけ意味があるかについて遠い宇宙の隅っこの視点まで考慮する必要があるのでしょうか。
24:20
デイヴィッド: その質問にはすでに1つの答えを出していると思いますが、もう一度別の角度で答えてみたいと思います。あなたが提示した反論あるいは疑問は、簡単に言うと、では何をもって宇宙的意味と言うのか、ですね。
もちろん、色々なシナリオがあり、宇宙には地球以外にも住民がいるシナリオ、地球にしか住民がいないシナリオなど異なるシナリオを想像することができます。
今あなたは地球にしかいないシナリオを想像したわけですが、そうであれば私が聞きたいのは、地球より大きな視点から意味を得られないのならなぜそのことを心配するのかということです。あなた自身が何を持ってより広大な意味とするのかを言うことができないのなら、なぜそのことを気に病むのでしょうか。ではまず、何を持ってより大きな意味とするか言いましょう。まずそこに生物がいることが条件の一つです。しかし、この答えから慰めを得る必要があるのか私にはわかりません。
シーシュポスの例に戻りましょう。シーシュポスが石を転がして丘を登ったり降りたりしています。これは石を転がしたい願望を植え付けられたシナリオではなくオリジナルのシーシュポス神話です。丘を登り切ると石が落ちるのを繰り返し、シーシュポス自身もそれを見ている人々もまったく意味がないと感じているシナリオです。そしてシーシュポスは「こんなのまったく無意味だ。私の人生は何なんだ」と言うと、誰かが「石を転がすことにどんな意味があって欲しいんだ?君は永遠に石を転がすこの行為にどんな意味が”あり得る”と思っているのか?」と聞きます。シーシュポスがこの問いに答えることができなければ、彼がこの行為にどんな価値があり得るのか答えることができなければ、その答えが彼の慰めになる事はないのです。その時点で彼は、そうか、これらすべてに何の意味があり得るのか分からないのならもうそれについて気を揉む必要ないのだ、と思うべきなのです。
26:17
ジェイソン:しかし、シーシュポスのケースと私たちが今話しているケースには違いがあるのではないかと思います。なぜなら、テイラーの修正バージョンではないオリジナルのシーシュポスは自分の人生に意味がないと思っています。主観的に意味があるとは思っていません。一方、私たちの多くはそれが正しいか間違っているかは別として(あなたは間違ってと主張するでしょうが)自分の人生に意味があると思っているわけです。つまり、それぞれに視点は異なるにしても少なくとも何らかの意味があると思っています。この違いは重要ではありませんか?
デイヴィッド: それは単に願望を植え付けられたシーシュポスと植え付けられていないシーシュポスとの違いでしょう。
ジェイソン: なるほど。それがテイラーの修正バージョンの重要性なのですね。
デイヴィッド:そう思います。このバージョンによって明らかにされていることの一つです。
ジェイソン: このバージョンは、私たちの生により近いものになっていますね。
デイヴィッド: そうですね。一部の人たちの生により近いものになっていると言えますね。一部と言ったのは、自分の生に意味がない、あるいは十分な意味がないことを心配することに多くの時間を割いている人もいるからです。
27:28
マーク: 私たちが生の意味を判断するという場合、それは抽象的に行うのではなく、相対的に行っているのではないでしょうか。例えばある人が「私は意味のある人生を送っている」と言う場合、その人は近しい友人グループや家族などを見渡して彼らと比べて自分は上手くやっていると思っているのです。しかしズームアウトして自分が属すコミュニティーを見渡すと、自分が持つ影響力はこのコミュニティーのリーダー達と比べてかなり小さいと思うわけです。そしてさらに人類規模で考えると、発明や美しい作品などを通して多くの人々の命を救った偉人たちと比べると、自分の貢献はさらに些細なものに思えるでしょう。
そこで問題となるのは、このように宇宙に視点を広げるとすべてが小さくなることです。 先ほどジェイソンが指摘しようとしていましたが、地球以外に知的生物がいない場合を想定した上で、宇宙にズームアウトして我々を小さく見せるのはアンフェアじゃないかと言うことです。そこには何もない巨大な空間しかないのですから。それならその空間はなかったことにして地上に比較対象を絞れば、少なくとも私たちの相対的な意味はより分かりやすくより大きなものになるのではないでしょうか。
デイヴィッド: その指摘についてはいくつか応答すべきことがありますね。一つは、そのような状況に対して我々はどう反応すべきかということです。何らかの地上的な意味を得ることができても宇宙的な意味は得ることができないという事実にどう反応するか。1つの反応はその事実に対して永遠にやる気を失い、落ち込んでしまうことです。世の中には宇宙的な目的がないからと言って自らの命を絶ってしまう人もいます。私はそのような反応が正しいとは思いません。
つまり私は、私たちの生が持つことのできる意味を無視すべきだとか、その意味を今よりも大きくする方法を無視すべきであると言っているのではありません。ただ、私たちの生が持つことが可能な意味が実際より大きなものだと自分を騙すべきではないと言っているのです。人間の生が持つことのできる意味はどれくらいなのかについてしっかり認識することが重要です。
あなたの指摘についてもう一つ言いたいのは、人生の意味とは「栄誉」とかあなたの行動が他者に認識されることであると思ってほしくないのです。ある人の行いがその人のアイデンティティーに結びついていることもありますが、必ずしもそうではありません。この世には多くの人々に影響を及ぼす良いことを沢山したにも関わらずそのことが決して世間に知られないという人たちがいます。そのことによってその人の生の意味の大きさを損なわれるとは思いません。他者による認識が損なわれるということはできるかも知れませんが、その人の生の意味の実際の大きさは損なわれません。
30:33
マーク: 興味深い点を挙げていただきました。私たちの生は自分が望むより小さな意味しかなく、その生には存在に付きもののさまざまな困難、日々の困難から死の恐怖まで計り知れない苦しみがあります。このような人間の苦境を前に私たちはどうすれば良いのでしょうか。
デイヴィッド: これ以上人間を生み出さないことです。これがまず一番大事なことです。なぜなら人生のすべてが究極的には意味がなくそして生には多くの困難や苦しみがあり、あなたの生は身近な人々に利益をもたらすかも知れませんが究極的には無意味なわけです。これらのことを認識すれば「こんなことを続けるのはやめよう」となるでしょう。これ以上「人生の意味の探究者」やさまざまな苦難に直面する存在を生み出すのは馬鹿げています。このことが一つ。
そうなると次には、すでに存在している私はどうすればいいのかという問いが出てくるでしょう。その問いには、できる限り良い人生を送ってくださいとお答えします。良い人生とは道徳的に良いというだけではなく、あなた自身の人生の質を今より良くすることでもあり、身近な人やもう少し距離のある人々も含めた周りの人々の生にポジティブな影響を与えることでもあります。それによって、あなたの人生の質と意味の両方の観点からより良いものにすることができるでしょう。
ジェイソン: ではそれに対し、次のように返すことはできないでしょうか。「オーケー、人生には意味がないか、あっても私たちが得ることのできる意味は最初に思ってたより非常に少ないということが分かりました。私たちが経験的に(概念的ではなく)生み出すことができる意味の大きさには限界があり、自分が思っているような種類の意味を生み出すことはほとんど不可能なんですよね。それについては納得しました。でも人生には追求するに値する他の価値がありますよね。私はそれを追求して完璧を目指したいのです。例えば、美を追求したり、概念的アイデアを探求したり。。。」
あなたの見解は、人生の意味以外の他の価値にも及ぶのですか?今挙げたような他の価値についてもほんのわずかしか達成できないとお考えですか?
デイヴィッド:その点についても私は悲観的な見解を持っています。
マーク&ジェイソン:(笑)
デイヴィッド:例えば、知識について考えてみましょう。知識が良いものであるとして、「何も知らない」から「全て知っている」までのスペクトラムを考えた場合、私たちは「何も知らない」スペクトラムにずっと近いですね。これは個人の場合に特にそうですし、人類全体の知識を積み重ねてみても(個々の人間がそれら積み重ねた知識すべてにアクセスできないのは当然として)、「何も知らない」にとても近いでしょう。
しかしここでは個人の知識にフォーカスしましょう。流暢に話せたかもしれないのに話せないあらゆる言語、知ることができたかもしれないのに知らない宇宙に関する知識、知ることができたかもしれないのに考えたこともない専門外の知識、さらには専門分野であるのに知らないあらゆる知識について考えてみてください。私たちはほとんど何も知りません。
ジェイソン:「私たちはほとんど何も知らない」という主張を評価するには2つの方法があると思います。ひとつは、あなたが挙げたような知ることが可能なすべての命題について考えれば確かに私たちはほとんど何も知らないと言えるでしょう。しかし、別の考え方をすれば私たちは多くのことを知っていると言えるかも知れません。まず、個人から人類全体にズームアウトしましょう。少しチートになりますが人類全体の知識を合わせれば、そこには他の知識を導き出す基礎となる知識がすでにあり、私たちはかなりの進展を遂げているのではないでしょうか。人類は万物の理論を見つけようと必死に努力しています。万物の理論とはすべての物質が初期状態からどのように派生したのかを理解するための科学的理論で、ある状態から未来の状態への移行そしてそこから初期状態つまりビッグバンに戻る様、そしてその後に起こることを説明する一連の法則ですが、そのような万物の理論を見つけることができれば、重要な意味で我々は多くを知っていると言えないでしょうか?
35:50
デイヴィッド: 私たちは人間の能力を過大評価していると思いますね。その理由のひとつは人間より優秀な種が周りにいないからでしょう。もう一つ私が気になるのは個人の業績を人類の業績にしてしまうことです。ある天才科学者がさまざまな素晴らしい発見を成し遂げると私たちも誇りに思うわけですが、これは間違っていて私たちはその発見には何も貢献していません。
また、これら各自の専門分野で優秀な人々もそれ以外の面でさまざまな欠点があることでしょう。例えば、宇宙の最期について探究するような偉大な脳を持ってしても隣にいる人の考えていることを知ることはできませんし、自分の振る舞いが隣にいる人にどう映っているか見ることもできません。
しかしここでは種ではなく個人にフォーカスすべきだと思います。私たちが今話しているのは種のレベルに適用できる部分もあるとは言え、主に個々の人間の苦境についてです。私たちはほとんど何も知らないし、わずかな能力しかありません。これは知識や命題に限った話ではありません。知恵はどうでしょう?知恵は知識・命題とは違います。人よりも多く知恵を持っている人もいればそうでない人もいます。いずれにしても、私たちが持ち得た知恵と比べると誰もほとんど持っていないのです。
******************************************************************************
冒頭に書いた通り、つづきは「生きる意味とアンチナタリズム」 でどうぞ。