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リノベーター正岡子規(4)(1993)

第4章 知性と生きることに対する貪婪な意欲
 こうした分類化や体系化は子規が学生時代に愛読していたハーバート・スペンサーの社会進化論に影響を受けたものだと思われる。子規は『筆まかせ』において「最簡単ノ文章ハ最良ノ文章ナリ」というスペンサーの文体論を紹介している部分があり、この文体論が子規の革新理論の中核をなすものと考えられている。しかし、スペンサーからの影響はそれだけではない。

 スペンサーは主著『総合哲学体系』(1860)全10巻を分類から始めている。それは第1巻「第一原理」、第2・3巻「生物学原理」、第4.5巻「心理学原理」、第6・7・8巻「社会学原理」、第9・10巻「倫理学原理」という構成になっている。こうした分類はもともと時間的であるが、それが空間的なものへと転換されている。スペンサーは、目的論的な進化論を斥け、種が環境に適応するように、個人が社会環境に適応することによって、個人に対する社会の圧力が減少し、やがて国家が解体に向かい、社会における個人の完全な自由が実現する無政府状態が現れた時、進化の最後の理想的段階であると主張する。「地球、地球上の生命、社会、政治、製造、貿易、言語、文学、科学、芸術、そのいずれの発展においても、単純なものが順次次の分化を経て複雑なものに至るこの同じ進化があまねく見られる」(スペンサー「進歩について」『総合哲学体系』所収)。

 スペンサーの影響を受けながらも、子規は文学ジャンルの分類化を音韻や字数、すなわち言語に焦点を合わせ、後のロシア・フォルマリズム的もしくはニュー・クリティシズム的である。批評家としての子規は言語を主要テーマとする20世紀の文芸批評・哲学をはるかに先取りしている。

 子規のそうした文芸批評家としての姿勢が具体的な作家に向けられた作品として『俳人蕪村』があげられる。子規は、芭蕉の句などと比較・検討しながら、蕪村の作品に対して綿密なアナトミーを試みている。

 子規は、『俳人蕪村』(1897)において、分析する際に、美を「積極的美」と「消極的美」や写実的な「客観的美」と直観的な「主観的美」、「天然的美」と「人事的美」、「作者の境遇」に関わる「実験的美」と「理想的美」、「外に広きもの」である「複雑的美」と「内に詳らかなるもの」である「精細的美」といった対比から蕪村の句をわけている。両者に必ずしも優劣はなく、それぞれ対立・止揚の弁証法的イデーとして把握されている。また、語彙は「漢語・古語・俗語」に三分している。さらに、「用語」や「言語の持続」である「句法」、「句調」や「動詞・助動詞・形容詞」といった「文法」、「材料」、「縁語及び譬喩」、「時代」、「履歴性行等」などの側面からそれぞれ分類・読解している。

 子規は、この批評において、作品を徹底的に細かく読んでいくことによって、その細部や微妙なニュアンスを把握する高度に洗練された技術を提示している。このように子規は蕪村をめぐって言語に対して焦点を合わせ、文法にまで拡大し、精読するという方法論を用いている。それは文体論ではなく、文章論で、日本語のリテラシーからの検討である。

 スペンサーは認識の相対性を主張し、すべての現象の背後に「不可知者」がいると考えている。これはカントの現象と物自体のヴァリエーションであり、ドイツ観念論の経験論化である。しかし、それは進化論に必ずしも好意的ではないアメリカで受容された一因でもある。社会進化論はアメリカにWASP支配を始め体制擁護の言説として多大な影響を及ぼしている。スペンサーは1860年代から1900年代までアメリカで莫大な数の著書が売れている。彼の「適者生存」といった発想が新興ブルジョワジーの正当化の哲学と受けとられたからである。それは、南北戦争に象徴される統一国家形成のプロセスがエマーソンやホーソーンといったアメリカ文学を生み出した時期である。

 日本でスペンサーが受容れた時期は、近代国家形成期である。スペンサーは明治期最も読まれた西洋の思想家で、自由民権運動にも影響するなどし、翻訳も多数出版されている。ただ、アメリカと受容されるポイントが違う。日本は優勝劣敗ではなく、環境への適応の思想と受け入れている。

 子規の年齢は明治の年号に1年加えたものである。明治が近代国家を確立しつつあった時期に子規はちょうど青年期を迎えている。昭和の年号と自らの年齢の一致する三島由紀夫は、その空気を吸い、昭和の人間として生きている。同様に、子規はその空気を吸って、司馬遼太郎の『坂の上の雲』で描かれているように、明治の人間として生きている。自由民権運動に影響され、政治家を志し、子規は、1883年(明治16年)、17歳で上京している。

 共立学校(現開成高校)に入学した子規は受験勉強に励んでいる。1884年、東大予備門(現東大教養学部)に入学、1890年(明治23年)、帝国大学(現東大)哲学科に進学したものの、翌年、国文科に転科する。

 子規は、6月15日付『墨汁一滴』において、学校での哲学の授業を次のように回想している。

 明治二十四年の春哲学の試験があるのでこの時も非常に脳を痛めた。ブッセ先生の哲学総論であったが余にはその哲学が少しもわからない。一例をいうとサブスタンスのレアレテーはあるかないかというようなことがいきなり書いてある。レアレテーが何のことだかわからぬにあるかないかわかるはずがない。哲学というものはこんなにわからぬものなら余は哲学なんかやりたくないと思うた。

 子規はこうしたドイツ観念論流の哲学科の講義がわからず、国文学科へ移っている。後の思想をたどると、子規は英米系の哲学傾向に近い。

 カール・ハインリヒ・アウグスト・ルートヴィヒ・ブッセ(Carl Heinrich August Ludwig Busse)は, 1887年~1892年、東京帝国大学で哲学講師を務めている。ヘルマン・ロッツェ派の立場をとる。ルドルフ・ヘルマン・ロッツェ(Rudolf Hermann Lotze)は新カント派に影響を与えた医学者兼哲学者である。ドイツ観念論の思弁哲学と実証的自然科学の機械論的自然観の調和を意図している。その薫陶を受けたブッセは一切の主観的な思考は必然的に客観的な実在でもあり、一切の事象は絶対的かつ神的な存在を究極の源泉とすると主張している。

 子規より3歳年下の西田幾多郎は、『明治二十四、五年頃の東京文科大学選科』において、ブッセについてつぎのように回想している。

 その頃の哲学科は、井上哲次郎先生も一両年前に帰られ、元良、中嶋両先生も漸く教授となられたので、日本人の教授が揃うたのだが、主としてルードヴィヒ・ブッセが哲学の講義をしていた。この人はその頃まだ三十そこらの年輩の人であった。ベルリンでロッチェの晩年の講義を聞いたとかいうので、全くロッチェ学派であった。哲学概論といっても、ロッチェ哲学の梗概に過ぎなかった。その頃ドイツ人でも英語で講義した。中々元気のよい講義をする人で、調子附いて来ると、いつの間にか、英語の発音がドイツ語的となって、ゲネラチョーン・アフタ・ゲネラチョーンなどとなった。

 ほぼ同時期でありながら、子規と西田のブッセ評の違いは興味深い。子規には訳が分からなかったロッセ哲学も、西田には物足りないようだ。子規は、西田と違い、思弁に関心がない。観念的な議論が正しいか否かなどどうでもいい。子規にとって哲学はそうした概念から始まる思弁ではなく、日常経験を対象とする思考である。観念によって現実を飛び越え、そこにある矛盾や葛藤、摩擦などを解消することなどできない。子規は抽象的な思考を理解できないのではない。子規の知性は抽象化において発揮される。分類は具体的な対象を抽象化し、その創意性に基づいてカテゴリー化することである。子規は英米系の経験論者であり、スペンサーを愛読したこともうなずける。

 ドナルド・キーンは、『子規と啄木』において、「子規にはその性格と彼の代表する明治中期という時代のために、何か我々を惹きつけて止まないもの」があると次のように述べている。

 子規の歌や句は今日でも文庫本その他で版を重ねているが、その随筆はあまり広くは読まれていない。しかし私としては、「墨汁一滴」や「病牀六尺」に、明治の文学ではそれ以外に啄木の日記にしか見出せない魅力を感じて、私小説では、その作者の生活がいかにこまかに描写されていても、その中心になるものが抜けているという印象を我々が受ける場合が多い。それを書いた人間が、不幸で一人ぼっちで、あるいは社会から締め出されているということはわかっても、その人間が他の同じように神経質な人間とどう違うかがはっきりしないのであるが、子規の知性と生きることに対する貪婪な意欲は、そういう私小説の作家の陰気な内省の記録には稀にしか見られない活力を、彼の随筆に与えている。

 ドナルド・キーンは子規に私小説家の持たない相対化の精神を認め、それがよく表われている随筆を評価している。子規は俳句を比較して分類し、体系化している。それは相対性の意識がなければできない。子規はその相対化を自身にも向ける。自身を相対化するメタ認知を論理化することが「知性」である。他方、私小説化は自己に没入してメタ認知を用意しない。相対化がないので、自分の気分や感情を発露しているだけだ。子規が知性主義者とするなら、私小説家は情緒主義者である。

 その「貪婪な意欲」は自分自身の世界に関する認識から生じており、子規は、『病牀六尺』(1902)において、それを次のように書いている。

 病牀六尺、これが我世界である。しかも此六尺の病牀が余には広過ぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚しい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪る果敢なさ、其れでも生きて居ればいいたい事はいいたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限って居れど、其れさえ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つ事、癪に触る事、たまには何もなく嬉しくて為に病苦を忘るる様な事が無いでもない。年が年中、しかも六年の間世間も知らずに寝て居た病人の感じは先ずこんなものですと前置きして……

 結核は子規の世界を「病牀六尺」にし、その結果、彼の社会的な対他関係や対人関係を狭くしてしまったかもしれない。結核にならなかったなら、彼の行動範囲はもっと広がり、さまざまなものや人と接触し、さらなる可能性が開けたかもしれない。
しかし、子規はルサンチマンを抱いていない。そのため、結核は、ロマン主義文学とは違って、神話作用を持たない。それは自分が見舞われた新しい現実である。子規は死に憧れることなく、いかにしてこの現実において最もよく生きられるかを模索する。

 私小説家は概してこうした状況にある時、ジ寸自身の気分や心理をめぐって語るだろう。ところが、子規は、長いので引用は割愛するけれども、7月20日付『病状六尺』において、自分の経験に基づきながら、よりよい看護の方法を提案している。満足のいく看護が受けられていないとしても、ただ不満を漏らすだけではなく、その改善案を提言する。これはまさに子規の「知性と生きることに対する貪婪な意欲」の現われたものである。1968年の日本の看護教育の発想の転換に子規のこの提案は影響を与える。それは新旧カリキュラムの保健師助産師看護師法指定期間の改正として示されている。看護の対象はもはや病人に限らない。人間が健康な生活を営むために必要とされることである。

 子規はその1902年9月19日に亡くなる。だが、高浜虚子や河東碧梧桐などの後継者たちは「子規の知性と生きることに対する貪婪な意欲」を受け継ぐことはない。虚子は、『柿二つ』における子規に関する記述が歪曲・誇張であるように、その企てを理解しようとしない。俳句の17モーラや季語の廃止が主張されていた時代に、虚子は形式や伝統に固執する。しかし、それは子規とはまったく別の理由によってである。

 山本健吉は、『高浜虚子』において、子規以後の虚子の役割について次のように述べている。

 碧梧桐が抱いた近代の詩人的決意を棄て、碧梧桐が棄て去った特殊文学としての俳句固有の方法論を追及し完成しようとした。言わば俳句が、近代の詩歌たらんとする誇りを棄て、大衆の深層との伝統的な繋りの糸をもう一度手ぐり寄せ、わが身に確保しようとしたところに、彼(=虚子)の成功の秘訣がある。加うるに、碧梧桐派の饒舌な理論闘争に対して、彼は無理論を以て拮抗した。そして大衆の支持を得るためには、この方がかえってよかったのである。

 子規の俳句や短歌は革新性と古典性の両面を持ち、トップからボトムまでの広い層から理解されている。子規にとって、同時代の俳句や短歌の真の主人公は近代社会である。それは自由で平等、自立した個人によって成り立っている。評価基準を近代社会に置くために、子規は写生文を始めとする理論を公表している。けれども、高浜虚子や河東碧梧桐は俳句を二極化する。前者は大衆化、後者は旧進化である。子規において両者は同居していたが、後継者はそれを分裂させ、その間に壁を作ってしまう。

 子規は、俳句や短歌を近代化する際、暗黙知を明示知に形式化する。理論は共通理解をもたらす。創作・鑑賞はこの理論に基づいて行われることで、恣意的な評価が避けられる。ところが、虚子は理論を軽視、暗黙知の世界に舞い戻らせてしまう。虚子が俳句の一般的な権威とした『ホトトギス』に載せた多くの句における文学的価値の水準にははなはだ問題がある。確かに、虚子の功績は俳句を大衆的な表現形式として保存した点にある。今日の新聞などに欠かせない俳句や短歌のあり方は虚子が用意したと言える。しかし、それは家元制度であって、前近代への回帰にすぎない。評価基準が社会を前提にしているかが不透明で、言語による論理的批評ではなしに、師匠の弟子へのアドバイスは感性的感想にとどまる。そうした指導の作品は類型化し、進化を忘れて衰退していく危険性がある。

 一方、河東碧梧桐は自然主義文学から影響を受けた自然主義的俳句や無中心論を唱え、理論闘争を展開している。碧梧桐の代表的な句の「工場の建ちひろがる音のけふも西風の晴れ」は季語がなく、口語自由律である。その流れは季題無用論の荻原井泉水や自由表現論の中塚一碧桜へと続き、尾崎放哉の「咳をしても一人」においてその頂点を迎える。しかし、理論闘争は必ずしも子規から隔たった姿勢ではないが、そのかたくなな排他主義は子規とはまったく反対である。こうした先鋭化はエリート主義であり、大衆に対する理解されないことを通じてアイデンティティを確認する。これは俳句の草の根が育つはずの土壌を痩せさせてしまう。

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