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災害と大風呂敷(2011)

災害の前の大風呂敷
Saven Satow
Jul. 07, 2011

「人は日本の歴史に50ページ書いてもらうより、 世界の歴史に1ページ書いてもらうことを心掛けねばならぬ」。
後藤新平

 震災が発生してから早4ヶ月が経とうというのに、被災地の復旧・復興は遅々として進まない。この間、しばしば後藤新平のことが語られている。この岩手県出身の人物は、1923年9月1日に起きた関東大震災の直後、第二次山本権兵衛内閣の内務大臣兼帝都復興院総裁として壮大な「帝都復興計画」を打ち出す。この総額30億円のプロジェクトのため、世間は彼を「大風呂敷」と揶揄するが、総裁は内堀通りや靖国通り、昭和通りを整備、広範囲に亘って区画整理を断行する。先見性に溢れ、魅力的だったものの、地主を始めとする既得権益を守ろうとするものたちの抵抗に遭い、未完で終わっている。

 後藤新平は、震災があったからこの計画を構想したのではない。東京市長時代に、総予算8億円に及ぶ東京の都市計画を公にしている。当時の東京の年間予算は1億円、国の年間予算が15億円である。途方もない夢物語としてまともにとり上げられなかったが、震災後、これがヴァージョン・アップして復活する。都市は長い年月を経て形成される。災害はそれを一瞬のうちに破壊するが、その復旧・復興はできる限り短期間で行わなければならない。起きる前から将来ヴィジョンを用意していなければ、とても間に合わない。帝都復興計画が即座に動き出せたのは、その原型がすでに考案されていたからである。

 明治維新を担ったのは下級武士たちである。庭園もこさえたことのない彼らには、都市計画など思いもよらぬ事業である。江戸から東京へと名称を変えただけで、計画的都市開発をせず、ただなすがままに任せている。

 徳川幕府は、埋め立てを始めとする江戸の都市開発を繰り返し、各地域から労働者が集まってきている。「火事と喧嘩は江戸の花」と言うが、これはこうした社会環境と関係がある。急速に増加する人口に追いつけず、燃えやすい材料の住宅がひしめき合うように林立しては、大規模な火災の危険性が恒常的に存在する。また、男気と腕っ節がものを言う世界の連中が集まれば、喧嘩が頻発してもおかしくない。

 歌舞伎には、助六を代表に「荒事」を行う主人公が登場する。彼らは、言わば、野性味溢れるタフガイで、こうした荒くれ者が多い江戸の民衆が求めた英雄である。荒々しい乱暴狼藉が神話的な領域にまで高められ、それによって彼らは荒人神と認められる。しばしば神事との関連で語られる大相撲もこの文脈上で捉えられる。

 この江戸の都市課題を放置したまま、東京は無計画に近代化される。アナーキーに開発される東京への危惧は、ロンドンやパリを見た官僚や学者、知識人たちの間で年々高まっている。

 後藤新平は、維新以来初めて本格的な都市計画を立案した人物である。彼は諸課題に対処療法で臨んだわけではない。文明の利益という視座に基づき、総合的・体系的・有機的に都市のヴィジョンを構想している。こうした認識が後藤新平を近代日本が生み出した最高の万能人たらしめる。彼は驚くほど広範囲の領域にかかわり、しかもそのすべてで歴史的な意義を残している。都市計画のみならず、公衆衛生・産業政策・外交・鉄道事業・発電事業・放送通信事業・教育事業など枚挙に暇ない。世界を見回しても、これほどの多様性を持っていた人物は思い当たらない。

 とは言うものの、東京の都市計画を一から十まで後藤新平自身が考えたわけではない。彼にはチャールズ・オースティン・ビアード(Charles Austin Beard)というブレーンがいる。後藤市長は、震災の前年、ニューヨーク市政調査会専務理事だったビアードを招聘し、アドバイスを受け、それを踏まえて立案したのが最初のプランである。震災が起きると、このアメリカ人は直ちに来日し、将来のモータリゼーション時代に備えた幹線道路の建設を始めとする帝都復興計画を後藤総裁と共に作成している。

 ビアードの『東京市政論(The Administration and Politics of Tokyo)』(1923)を愛読していたのが昭和天皇である。史上初の東京生まれの東京育ちの天皇は、この著作を生涯において最も影響を受けた本の一つに挙げている。

 この東京っ子天皇は、1983年の記者会見で、後藤新平のプロジェクトが未完に終わったことを次のように残念がっている。

 この復興に当たって後藤新平が非常に膨大な復興計画を立てたが、いろいろの事情でそれが実行されなかったことは非常に残念に思っています。もし、それが実行されていたらば、おそらくこの戦災がもう少し軽く、東京あたりは戦災は非常に軽かったんじゃないかと思って、今さら後藤新平のあのときの計画が実行されないことを非常に残念に思っています。

 重要なのは後藤新平が大風呂敷を広げたことよりも、それを用意したことである。関東大震災から為政者が学ばなければならなかったのはこの点である。けれども、後藤新平以降、思いつきや思いこみをぶち上げる石原慎太郎のような興行師まがいはいても、将来ヴィジョンに則り、防災を組み入れた総合的・体系的・有機的な都市計画を用意した政治家は皆無である。

 言うまでもなく、今は都市計画も市民とのコンセンサスに基づいて進められていく時代である。市民の側も将来を想定して建設的に議論に参加することが求められる。

 防災・減災を優先させて、都市計画を考えることは本末転倒である。都市は、まず、暮らしを営む場所である。そこから生まれてくる諸課題を見据えた上で、いかなる都市を目指すのかという将来ヴィジョンを打ち立て、防災・減災はそのために用意されなければならない。災害はその都市の諸課題を凝縮して顕在化させる。従来からの問題点が強烈に確認される。最も苦しむ被災者は社会的弱者であり、次いで経済的弱者、政治的弱者と続く。復旧・復興の際に、これは如実に現われる。災害の前から都市の諸課題を直視して、それを克服し、よりよい社会を目指す将来のヴィジョンを用意しておく。防災・減災はそれを実現するための手段である。今回の東日本大震災の被災地域も、十分にそれを準備していなかったことは否めない。

 徳川時代、先に述べたように、江戸は火事が多い。そこで、庶民は布団の下に風呂敷を置いて、火事が起きた際、それに家財を入れて逃げられるように準備している。風呂敷は、確かに、災害の備えである。後藤新平はまさに正しい。災害に襲われる前に大風呂敷を用意しておく。これが東日本大震災から改めて学ぶべき教訓の一つである。
〈了〉
参照文献
天川晃他、『日本政治外交史』、放送大学教育振興会、2007年

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