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改革の罠(2014)

改革の罠
Saven Satow
Jun. 24, 2014

「クリントンさんや細川さんが、どうした気分かまではわからぬが、時代の風を感じて、そしてその風に乗りながらも、しかも大国の夢からは醒めていなければならぬ、そんな微妙なスタンスのような気がする」。
森毅『改革の風に乗りながらも』

 『週刊朝日』2014年6月27日号は「安倍首相の改革症候群」と題する記事を掲載している。教育・安保・税制・医療・労働などありとあらゆる分野に変更を迫る改革のアニマル・スピリットぶりを糾弾している。

 有機体は、既得権益を守り、手段が自己目的化してしまうので、自主的に変革しようとしない。それを放置しておくと、環境との不適用や制度疲労を始めとする弊害が生じる。トップがリーダーシップを発揮して改革に取り組まねばならぬ。改革が必要だとされる根拠はこうした発想に基づいている。

 日本社会は。90年代を迎えてから、改革熱に囚われ、その実施が正しいと信じられている。中央・地方を問わず、無数の政治的改革者が登場している。それは現状の元凶を提示してくれるので、直観的に納得しやすい。世論も改革者を支持する。

 しかし、改革が現状を打開するというのは素朴な信念でしかない。改革論者の主張はすべてが非現実であるわけではない。断片的な妥当性を持っている。彼らはそれを全体に拡大する。盗人の三分の理に納得させられる。改革はその分野の基礎体力を奪い、その繰り返しはわずかな変化にさえ耐えきれなくなる。安倍首相の改革症候群は日本社会を脆弱にしている。

 改革は急進的な変革である。それには権限が要るので、トップ主導で進められる。環境が大きく変化しているのだから、それに適応するために、改革が必要だ。トップは環境変化を理由に改革の必要性を説く。それは理論的根拠が示されることが稀で、思いこみや思いつきに基づき、変えることが手段ではなく、目的化している場合も少なくない。中には、環境変化を口実に自身の復古主義を実現しようとする狂信さえある。しかし、実際に日々業務を担っているのは現場、すなわちボトムである。

 しかも、環境の変化は個々の有機体によって具体的影響が異なる。東西冷戦終結は世界の大きな枠組みを変えている。けれども、中央・地方政府や企業のそれぞれにその影響がどのように及ぼすのかは決して同一ではない。それは実際に業務に携わる現場を通じて認知される。トップの認識する環境変化は抽象的で、必ずしも一般論を超えたものではない。

 改革に対してボトムは現場を知らないと反発し、抵抗する。ただ、有機体内にも人事や予算、路線をめぐる摩擦はあるものだ。そうした思惑が改革運動に絡み、内部対立が激しくなる。抗争もあって改革の行方が見通せないので、様子見に入る者も多い。有機体の持つエネルギーは抗争に費やされる。この間、自発的な改善は起きる余地が奪われるので、停滞の状態に陥る。

 改革が決まったとしよう。これまでの蓄積があるので、有機体内外での調整や慣れが要る。日々の業務の中で思いもよらぬ不具合が見つかることもある。改革が実施されても、停滞からは脱することができない。有機体はこれらにエネルギーを使わざるを得ない。有機体の基礎体力は改革の過程で低下する。

 加えて、改革はトップが進めるので、統制強化や権限集中など集権的傾向が強い。ボトムの自主性は抑圧され、現場の力が低下する。それは有機体からしなやかさやしたたかさを奪う。

 環境変化はすでに起きたことや予想できるものばかりではない。思いがけない不確実なこともある。しかも、複数が立て続けに発生する場合もある。基礎体力があれば、有機体は不確実な変化にも耐えられる。しかし、落ちていると、それに持ちこたえられない危険性がある。

 このような事態に直面しても、改革を進めたトップはそれが不十分だからだと考える。環境変化に適応するために改革を進めたのに不適応になったのは改革が未だ達成されていないからだ。そこでまた改革が繰り返される。有機体の基礎体力はさらに低下し、わずかな変化にさえ耐えきれなくなってしまう。

 政治に関する改革の場合、その動きが出た時からメディアが取り上げる。優先順位が高いとは言えなくても、大きい話題であるので、そうせざるを得ない。報道のエネルギーもそちらに割かれ、他の課題の扱いは小さくなる。すると、世論の関心も改革に注がれ、それ以外のトピックを考えるエネルギーがとられてしまう。

 この悪循環は「改革の罠」と呼べよう。90年代以降の日本社会はこれに陥ったと言える。改革が繰り返されるが、思ったような効果が上がらない。それは不十分だからではなく、やり過ぎたからと考えられる。

 トップがリーダーシップを発揮して改革を断行すべきだという発想自体が観念的である。ボトムの情報を持たないトップが改革を主導する。有機体が大きくなるほど、トップとボトムの間が遠ざかるので、ミドルの重要性が増す。ミドルに情報が集まり、その調整能力が求められる。上中下が融合しているのが優れた有機体である。それがうまくいっていない有機体は建設的な意思疎通がよくないと見るべきだ。変革が必要なのはこの点である。

 急進的な改革よりも漸進的な改善の方が効果的だろう。有機体に改革が必要とされるのは現場の自発性が汲みとられていないからである。それをリーダーシップによって変革するというのは矛盾している。現場の自発性が促されるように制度を設計し、日々の業務の中で環境変化に即応する。これは集合知である。トップは制度調整の責任を負う。改善のもたらす変化は小さいので、認知されにくい。しかし、積み重ねると、大きな変化に達する。日々の改善を通じて有機体の基礎体力は強化されていく。この典型がトヨタである。

 すべての改革が不必要だというわけではない。しかし、個々の是非以前に、改革には基礎体力の低下を伴うので、頻繁に行うこと自体混乱をもたらし、有機体を変化に弱くしてしまう。基礎体力があれば改革にも耐えられるのであって、それが落ちた状態ですべきでない。改革症候群に囚われたアニマル・スピリットは有機体を弱体化させるのであり、それをリーダーにするのは危険である。自分の狂信を満足させるための口実を探しているだけだ。
〈了〉
参照文献
森毅、『世紀末のながめ』、毎日新聞社、1994年

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