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『人形の家』と劇場型民主主義(2005)

『人形の家』と劇場型民主主義
Saven Satow
May, 24, 2006

「わたしたちの生活が本当の結婚生活になればね、さようなら」。
ヘンリック・イプセン『人形の家』

 「私はね、まず人間なのよ」。ノーラは夫のトルヴァルにそう告げ、「人形の家」を出て行きます。ヘンリック・イプセン(Henrik Johan Ibsen)による『人形の家(Et Dukkehjem)』(1879)のクライマックスです。

 ノーラは8年前にトルヴァル・ヘルメルと結婚し、3人の子どもを儲け、彼から「ベイビー」や「うちのリス」、「可愛いヒバリ」と呼ばれ、何不自由のない生活を送っています。けれども、以前、夫が病気になった時、彼女はイタリアへの転地療養の費用を亡き父親の署名を偽造して借り、今も夫に内緒で返済しているのです。

ところが、その金を貸したクログスタが不法行為を理由に銀行を辞めさせられそうになり、頭取のトルヴァルにとりなしてくれなければ、例の秘密をばらすと彼女を脅します。ノーラは夫がそれを知れば、すべてを捨てて自分をかばうと思います。彼女は彼を首にしないように夫へ頼みます。事情を知らない彼は妻の言葉に耳を貸さず、クログスタを解雇してしまいます。

 夫が秘密を知ることとなるのですが、かばうどころか、銀行の頭取としての自分の体面をどうしてくれるのかとノーラを激しく叱責します。そこへ後悔したクログスタから謝罪の手紙が届き、夫も冷静さを取り戻します。しかし、ノーラは夫の偽善さにしらけ、自分は彼から人形として扱われていただけと悟ります。夫との長い口論の後、すべてを清算するため、彼女は家を出るのです。

 『人形の家』は女性解放運動を推進し、カタルシスを拒み、リアリズムに基づく近代演劇の原型となった演劇史上の画期的な作品です。しかし、意義はそれにとどまりません。

 この作品は非常に演劇の特性を踏まえています。演劇において、真の主役は登場人物ではありません。舞台です。演劇では、暗転しない限り、その場所を動かすことができません。カメラのサイズとアングルで表現する映画やテレビと違い、出来事の連続によって物語を展開させることができないのです。その代わり、舞台への人の出入りを用いて物語を展開させます。場面設定は、ですから、完全に開かれても閉じられてもいない半開きの場所が好まれます。プロセニアム式額縁舞台に基づく西洋演劇でこの特徴は顕著です。

 ノーラの家は新しい社会を感じさせるモダンな集合住宅です。けれども、閉塞感が強く、物語の行き詰りが印象付けられます。そういう「人形の家」からノーラが出て行く結末は、劇場を後にする観客がこの続きを考えていくことにつながるのです。

 2000年くらいから、メディアで「劇場型民主主義」という用語がしばしば使われています。小泉純一郎内閣総理大臣はそれに長けていると言われています。

 「劇場型民主主義」は、元々は、ユルゲン・ハーバーマスが討議倫理に基づく以前の公共空間を言い表すために使っています。人民は統治に対して拍手や野次でその評価を示す形態の民主主義です、

 ただ、今の用法はそれと違っています。驚きでもって演者と観客の意識共有を狙うことからそう呼ばれているのでしょう。けれども、「サプライズ」という出来事を乱発する彼の手法は典型的なテレビ型であっても、劇場型ではありません。「小泉バラエティ」ならともかく、「小泉劇場」は奇妙です。「劇場型民主主義」を使うメディア関係者はあまり劇場に足を運んでいないに違いありません。

 近頃、批判的姿勢を欠き、カタルシスに溺れ、こうした言葉を安易に用いたメディアから先の選挙報道に関して自省の声が聞こえます。しかし、全国的に、特定勢力への迎合がまだまだ見られます。メディアは権力者の「人形」であることをやめ、真の劇場型民主主義に寄与すべきでしょう。
〈了〉
参照文献
イプセン、『人形の家』、原千代海訳、岩波文庫、1996年

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