新聞の消えた街(2016)
新聞の消えた街
Saven Satow
Jan. 27, 2016
“Were it left to me to decide whether we should have a government without newspapers, or newspapers without a government, I should not hesitate a moment to prefer the latter”.
Thoms Jefferson
デジタル技術の進展はアメリカの新聞記者を忙しくしている。取材をしたら、写真や動画を撮影する。ネットに速報を送って、新聞原稿を書く。これで終わりではない。記者ブログを更新し、フェイスブックに書き込み、ツイッターでつぶやく。こうした環境下、彼らは「ハムスター記者(Hamster Journalist; Hamsterized Journalist)」と自嘲している。
アメリカでは、インターネットの普及に伴う購読者数と広告収入の減少を主な理由として、休刊する新聞が相次いでいる。しかし、インターネットは新聞の代用品とはなり得ない。
アメリカでは、経営不振から休刊に追いこまれる新聞が激増している。今、新聞の消えた地域で公務員の腐敗や選挙候補者数の減少、投票率の低下が起きている。これらはまったく予想されていなかった事態である。記者の取材が消え、住民に政治的情報を得る機会が減ったからだ。
2011年10月29日付『朝日新聞』のオピニオン面「記者の消えた街」が示唆を与えてくれる。これは、『信仰の発見』で著名なスティーブン・ワルドマン(Steven Waldman)記者への山中季広ニューヨーク支局長によるインタビュー記事である。同記者は「連邦報道委員会(FCC: Federal Communication Committee)」から委託されて全米のニュース需給事情を調査し、報告書をまとめている。
なお、このインタビュー記事にはスペルが記されていない。「スティーブン」は英語圏の名前の中で同じ発音で複数のつづりがあることで知られている。一つは今回の”Steven”、もう一つは”Stephen”である。外国人をインタビュー記事で取り上げる場合、スペルは記しておくべきである。
付け加えると、キーワードは原文併記が望ましい。この点は日本の紙面では概しておろそかである。読者がその訳が適切であるかどうかは判断する材料を提供すべきだ。また、その記事を手がかりにさらに調べようと思ったときの助けにもなる。率直に言って、日本の新聞記事の翻訳はすべて信用できるわけではない。意図的と疑われる誤訳が多いという意味ではない。韻や典拠を無視押した翻訳や初歩的な誤訳が目につくからだ。
2000年代後半の5年間で新聞の広告収入は半減している。新聞経営はこれにより圧迫される。新聞社は紙面数を減らし、記者の賃金を下げ、人員も削減している。それでも、全米で212紙が休刊に追い込まれる。20年前に6万人いた記者も今では4万人を数える程度である。
ちなみに、日本の新聞は人員規模が大きい。メディアの中でも格段だ。記事の同時期の読売新聞社の従業員数は、いずれもおよそで、連結8600人、単独4300人である。一方、日本テレビのそれは前者が3200人、後者は1100人である。
アメリカのジャーナリストはアカデミズムでジャーナリズムを学んでいる。この教育歴がないと、記者になれない。タブロイド紙やゴシップ誌でも同様だ。
アメリカには全国紙はない。地方紙・地域紙が各地の報道を担っている。人員削減や相次ぐ休刊は報道されない地帯が全米中に出現する。こうした「取材空白域(White Spaces)」では立法や行政へのジャーナリズムによる監視がゆるい。そこでは不正や汚職がはびこり、公費が浪費される。
アメリカの地方紙の記者の初任給は、当時のレートの日本円で、約400万円である。記者一人が監視の目を光らせているだけで、巨額な税金の無駄遣いを防げる費用対効果は絶大である。それは、言うまでもなく、新聞記者でなくてもかまわない。ニュース供給を絶やさないことが肝心だ。
記者空白の地域では、現職の首長や議員の実績が報道されない。有権者には判断材料が乏しい。そのため、投票を棄権する人が増える。一方で、現職の支持者は投票所に足を運ぶ。この構図では勝ち目がないと思えば、新顔が立候補を控えるようになる。選挙は現職有利との結果が出る。記者のいない町では、選挙は儀式と化す。
ジャーナリストの活動が立候補や投票行動にも影響する。民主守護の制度が継続できるかもジャーナリズムにかかっている。民主主義はジャーナリズトの存在が前提で、それがないと、堕落する。
新聞が継続している都市部でも問題が生じている。司法や医療、環境、教育などの専門性の高い分野の記者が削られている。こうした領域を「ブロッコリー・ジャーナリズム(Broccoli Journalism)」と呼ぶ。ブロッコリーは栄養面で大切なのはわかるが、つい食べ残してしまう。それになぞらえた表現である。こういった分野の情報が希薄になっている。記者の空白が多くのブラック・ボックスの誕生を許している。
記者は、医師や弁護士、教師、警察官、消防士同様、地域に欠かせない専門職である。「 「調査でわかったのは、『今日はこの市の決算と議事録に不正がないか洗ってみよう』と思い立つ人というのは、世の中では記者くらいだということ。自治体の動きを監視し、住民に伝える仕事などだれも自費ではやれません。ニュース供給を絶やさないためには、地元に記者を置いておくことが欠かせない。人口や自治体数などから推定すると、その仕事には全米で5万人の人材が必要。現在は1万人足りません」。
近代を理論づけた社会契約論は市民社会からその利益のために統治を委任されていると説く。しかし、市民社会と政府会の間には情報の非対称性が存在する。政府が社会でなく、自分の利益のために活動している可能性がある。その監視を専門的に担っているのがジャーナリストだ。
「新聞の消えた」ことは権力監視の消えたことを意味する。新聞の空白地帯では、記者の代わりに住民が監視に取り組んでいる。しかし、なかなかその穴を埋められない。んえっとも期待ほどではない。
「残念ながら新聞の穴を埋めるには至っていません。今回の全米調査で実感したのは、ニュースの鉱石を地中から掘り出す作業をしているのは今日でももっぱら新聞だという現実です。テレビは、新聞の掘った原石を目立つように加工して周知させるのは巧みだが、自前ではあまり掘らない。ネットは、新聞やテレビが報じたニュースを高速ですくって世界へ広める力は抜群だが、坑内にもぐることはしない。新聞記者がコツコツと採掘する作業を止めたら、ニュースは埋もれたままで終わってしまうのです」。
この5年前の記事を今の日本で読み返すと、あまりに思い当たる節がある。新聞は消えていない。しかし、読売など政権に近いメディアはそれと癒着し、権力の監視という本来の役目を十分に果たしていない。財政赤字の膨張や年金損失、政策の恣意的優先順位、強権政治、与党議員の腐敗、投票率の低下などここで挙げられた事態に直面している。
政権にすれば、ジャーナリストとの会食は安いものである。それが税金でなら、共犯だ。ジャーナリズムが堕落すれば、政治も堕落する。日本は新聞の消えた国になりつつある。
〈了〉