自己紹介Final(Part4)過去を振り返りながら
読者の皆様こんにちは^^
第二子の妊娠が正期産を迎え、もういつ生まれてきてもよい段階へとなりました☆彡
予定日はホワイトデーの3月14日なのでまだ少し先ではありますが、もう今からわくわくドキドキでいっぱいです!!
出産が終わったら是非、こちらのノートにて出産レポも共有したいと思いますのでご興味がある方は読んでみてください^^
さて、本日の投稿内容は、前回までの自己紹介の続きから始まりついに現在の様子までたどり着きたいと思います。
前回は、鑑別所への収容→少年院送致→本退院をするまでのお話をしました。今回は本退院をしてから今に至るまでのお話になります。
それでは本文へ入らせていただきたいと思います。
生い立ちから現在へ至るまでFinal(Part4)
~少年院出院後から現在~
・少年院への在園期間は17歳1月終わりから18歳3月終わりの約1年2ヶ月。
・仮退院として出院当時、私はまだ18歳で未成年だったため、成人(20歳)の誕生日を迎える前日まで保護観察を受けることが命じられた。
(平成30年度時点の日本の成人基準年齢は20歳)
・仮退院する際、少年には個人個人で*遵守事項というものが定められている。
・私の場合は、「親権者の元での生活」「禁酒・禁煙」「反社会的暴力団員との関わりの根絶」の三つだった。
・仮退院した少年はまず、この遵守事項を守りながら指定された保護司の元へ定期的に面接へ通い保護観察を受ける。
・遵守事項の違反や仮退院中の生活態度が著しく悪かった場合(再犯等)には、保護司や親族からの情報を元に保護観察官の判断により最悪、*戻し収容といい再び少年院へ収容され、指導を受け直さなければならないこともある。
・私は仮退院をして実家に帰るとまず、元同居人である男性Bに「ただいま」と連絡を入れた。
・既読がついた。まさか一年以上もの間状況がわからないまま音信不通状態が続いたのに連絡先を残しておいてくれてるとは思わなかった。
・彼はとても喜んで私の帰りを迎えてくれた。
・少年院へいる間私は、鑑別所で完全に恋に落ちてしまった彼のことを考えて辛い時期を乗り越えていた。
・正直在園中は、もしかしたら頭がおかしいと思われていたかも知れない。
・担任の法務教官との面接で出院後に関する話題が出たときは決まって「実家には帰らない」「私は彼と結婚する。彼を探し出して彼のところに帰る。」と、彼の気持ちも知らずに訳のわからない勝手なことを言って教官を困らせていた。
・しばらく彼とは何気ない会話が続いたが、私の方から回りくどくはあるが恋人や思いを寄せている人の有無を尋ねた。
・彼はいないと言った。思わず喜んでしまった。
・動揺して挙動不審になってしまった私は、思いがバレたと思い、話の流れで少年院にいた時ずっと抱えていた思いを「告白」と言う形で伝えることになった。
・彼は、突然の告白に動揺はしつつも喜んでくれ、YESの答えをもらった。
・私は ”結婚前提でのお付き合い" を改めて申し込んだ。
・埼玉県と神奈川県で離れていた彼は、電話越しで泣いて喜んでくれた。
・こうして仮退院を経てわずか三日で私と彼の結婚前提の交際がスタートした。
・数日後、担当の保護司が決まり初めての面接があった。
・保護観察の基本的な形とし、少年自ら保護司の自宅を訪ねる決まりがあったので、頂いた住所と連絡先を頼りに保護司の家へ向かった。
・挨拶と簡単な自己紹介を済ませ、次回面接日時を決め、その日の面接は終わった。
・祖母と変わらない歳の、明るく優しい印象のマダムだった。
・面接の日が来て、手土産を持って保護司の家へ行った。
・面接では「近況報告」とし、
いつ・どこで・どこの・誰(年齢、性別、何繋がりか)と・何をし・お金(お金の出所含む)をいくら使い・何時に家を出てから何時まで
事細かく聞かれた。
・あまりの細かさに何も隠すことはないとは言えど多少抵抗を感じた私は、何をどこまで答えなければならない義務があるのかを尋ねた。
・保護司曰く、保護観察所からの依頼により聞かなければならない事項を聞いているだけであり、私には答えたくないことに関しては答えなくてもいい黙秘権があるという。
・ただ、虚偽申告や黙秘が多くあまりにも近況情報が得られない場合は保護観察官にその旨を報告しなければならないため、今後の処遇に影響する場合もあるとのこと。
・まるで監視されているかのような細かさの情報提供量に窮屈さを感じたが、これも自分の招いた結果だと思い、私が黙秘権を使うことはなく応じることにした。
・面接から次の面接時までにあった出来事を、雑談を交えながら話し約1時間がたった頃面接は終わった。
・面接は、予め一回につき約30分~1時間程度だと説明を受けていたため今後もそのような感じで面接をしていくと思っていた。
・保護司はあくまでボランティアのため、日中は普通に仕事をしている人もいる。私の担当保護司もそうだった。
・3回目の面接は17:00~との約束だったため、五分前に保護司の元を尋ねた。母親には、18:00頃には終わり18:30には家へ着くと説明をして家を出たが、面接が終わったのは19:00
・面接中は失礼に値するためケータイをいじらなかった為、保護司の家を出てすぐに母へ電話をし面接が長引き今から帰るとの報告。
・当然、疑われた。30分~1時間程度の面接のはずが2時間もかかり、ましてや夕食時にそんなに家にいさせるのも家に帰さないのもおかしいのではないかと私が文句を言われた。
・そして、次の面接でも同じ事が起きた。
・また、母に怒られた。ただでさえ慣れないお宅でまだ心も開けていない相手と長い時間、緊張状態のまま自分の生活状況を人間関係からお金の支出まで事細かく話して疲れているのに。
・正直しんどかった。
・それ以降、面接の時間について母からは文句を言われ、遊びに行っているんではないかと疑われ、それでも指定された日時に真面目に通わなければならない事が苦痛になっていった。
・ストレスから、遵守事項になっている「禁酒・禁煙」を守れず、煙草を吸うようになった。
・親にバレ、怒られたけどやめることはできず、保護司にも正直にその事実を話していた。
・一週間のうち2日間、彼は埼玉県から私のいる神奈川まで仕事の休みの日を使って会いに来てくれていた。
・一度だけ、彼が会いに来れるのは1日のみだったが、母も父も仕事で8歳年の離れた妹が一人なので夕方からは家にいろと父に命じられていたが、その日しか会えないため彼に少しでもいいから長く一緒にいたくて、妹に「父と母には内緒にしてくれ」と頼み込み、近所のコンビニエンスストアまで約30分ほど家を空けた。
・コンビニエンスストアから自宅に帰る途中で父から電話があった。
・「てめぇやってくれたなあ。今から速攻で帰るから家に帰ったら覚えとけよ。マジでぶっ飛ばすからな。」と、音が割れるほどの怒鳴り声だった。
・恐怖に震えながら家へすぐ戻ると、「パパから電話あって、ねえねは家にいるか聞かれたからコンビニ行ったって伝えておいたよ」と妹から言われた。
・純粋に聞かれたことを答えただけの妹を責めることは流石にできなかった。
・だが、電話越しに伝わってきた父の怒り具合に相当な恐怖を感じた私は彼に「何が起こるかわからない。怖い。また暴力を振られるかも知れないから、何かあったときすぐ会える様、家のそばでバレないように待機してて欲しい。」と連絡を入れた。
・父は、身構えてはいたがやはり怒鳴り声を上げて帰ってきた。階段に数回頭を打ち付けられた。
・とにかく謝罪をし、なんとか、自室から出るなという約束のもと自分の部屋へ行くことを命じられた。
・彼にはいろいろあったが無事だと言うことを報告した。
・そんな事もありながら仮退院してから約2ヶ月が経とうとしていたある日、私は母と喧嘩をした。
・次の日、久々に私は地元の友人と勝手に遊びに行きそのまま家へ帰らなかった。
・ケータイの契約は少年院にいる間に解約されていたため個人的な外出の際はWi-Fiが無いと使えなかった。そのため外に出歩いている間は、彼とも連絡を取れなかった。(彼と会う時の連絡は母から家族共有のケータイを預けてもらっていた。)
・やっとWi-Fiがあるところでケータイを接続すると、母と彼から大量の連絡が来ていた。
・彼には正直に謝ったが、母の連絡はとりあえず無視をした。
・彼に母から「娘がそちらに来ていないか。昨夜から娘が帰ってこないので連絡が取れたら教えて欲しい。まだ、そちらにいるのならいいが・・・」と連絡が来ていたそうだ。
・彼からはしっかりと怒られた。それでも私が「家には帰らない」というと彼は「今所持金はいくらあるか。その身一つでいいからとりあえず今持ってるお金で俺のところに来い。」と言い、ケータイが使えない私のために彼のいる埼玉県までの電車の乗り換え案内を送ってくれた。
・彼のところへ行き、約3日滞在した。
・その間、彼が母に「ひとまず自分のところで保護した」と連絡をしてくれていた。
・彼の家に滞在中に、保護観察所へ自ら連絡をし出来事と家に帰るのが怖いという事実を伝えた。
・保護観察所の担当保護観察官の審議結果、親権者である親の元で生活することが困難・危険であり、更生にむけてふさわしくないと判断されたため、結婚が前提でのお付き合いであり、両親が交際を認めているという点も含め、すでに成人している彼を事実上の親権者及び身元引き受取人として手続きをすることになった。
・後日彼と一緒に神奈川県にある保護観察所まで行き、彼の就労状況・収入・住まいの環境などを詳しく聞かれた上で審議の結果、彼を身元引き受け取り人としての許可が下り、手続きをして、その日から私の住まいは彼の家となり、同棲生活が始まった。
・住まいが変わっても保護観察は継続されるため、彼の家がある地域の管轄の担当保護司との面接をすることになった。
・今度は、おじさんだった。
・突然の保護司側からの自宅訪問から始まり、次回面接時からは当日の午後に急に数時間後面接を行うという連絡や、玄関先ではあるが話す際の距離の近さ、大きな被害を受けたことのある男性との被る年代と言うこともあり、印象も良くなく、面接を行うことが苦痛だった。
・保護観察官に理由を述べ担当保護司変更を申し出て、許可が下りた。
・次に担当になったのは、祖母と同じくらいの年代の女性だった。
・初めて会う際、保護司の家まで時間通り行くために、距離にして約10分程度ではあったものの極度の方向音痴の私は彼にも協力してもらいマップを見ながら一時間以上も早く自転車で家を出て向かい始めた。
・中々家が見つからず、たどり着けなかった。
・約束の時間になる前に、マップを見ても住所にたどり着けず、時間に遅れてしまうかも知れないとの連絡を保護司にした。
・すると保護司は「あなた来る気ないんでしょ。そんな遠くないはずよ。私は待っているのよ。」と叱られた。
・初めは申し訳ありませんと謝罪し、現在向かっていること、また知らない土地のため迷うことを想定して早くに家を出ている事実も伝えたが、「言い訳にしかならない。時間に遅れるならこっちはせっかく準備して待っていたのにもういいです。今日は来ないでください。」と言われた。
・その時はまだ、約束の時間前だった。
・行く気は十分にある。準備もしてきた。彼にまで協力してもらって家へ向かっている。何度伝えても「どうせ来る気が無い。初めからそんなんじゃ今後もどうせ来ないだろう。」こんなことを言われ続け私は我慢が切れた。
・「人の話もまともに聞かず決めつけてくるようなあなたとは会う気も話す気も今なくなった。このことは保護観察所へ連絡させて頂きます。」と伝えた。
・すると、「あなたのような人は面倒を見る気になれません!!何なんですかその態度は!!」と言い返されたので思わず「お前みたいなババアはこっちからも願い下げだ!」と言い放ち電話を切った。
・努力まで粉々に踏みにじられ、高ぶった気持ちが中々収まらない私は気付いたら自分の乗っていた自転車を蹴り飛ばしていた。
・彼に慰め落ち着かせてもらい、家に帰って後日保護監察官に出来事と保護司の変更を訴えた。
・どうやら保護司側からも連絡が入っていたようで、内容としては「態度が悪い。お手上げだ。」との申し出だったそうだ。
・呆れた。こんなやつが保護司をしているなんて・・・
・確かに最後は私の言い方が悪かったのは認める。だけどまるで全て私が悪いかのような申し出には流石に腹が立った。
・でも監察官は話を聞き、理解してくれた。
・そこからは監察官が直接保護司として見てくれることになった。
・本来、観察所まで出向かなければならないが私はパニックをもっており一人で電車に乗ることが困難であった。
・そしてちょうどその頃新型コロナウイルスが流行し始めたのもあり、監察官は自宅の最寄り駅まで来てくれて、面接をしてくれた。
・二回ほどの最寄り駅付近での面接の後、コロナウイルスの危険から近況報告を自らするとの約束をして次回以降は週一回電話での面接をすることになった。
・誕生日の約1週間前の面接は直接ということで最寄りの駅に来てもらい、最後の面接をした。
・問題なしと判断がおり、無事誕生日の前日をもって保護観察は終了。
晴れて本退院をすることができた。
・20歳の誕生日を迎えたと同時に私は、彼と付き合い始めて1年半を迎えた。
・そして、少しずつ相談しながら彼と話し合いで決めていた予定通り、私の20歳の誕生日に婚姻届を出しに行き、私と彼は正式に夫婦関係、家族となった。
こうした期間を経て、結婚をし半年が経ち、私たち夫婦の間には第一子となる命が宿った。
第一子の妊娠・出産に関しましては以下URLにより過去の私のアカウントにて掲載しておりますのでこちらの記事からお読み頂けると嬉しいです。
いかがでしたでしょうか。
これまで私の歩んできた人生を自己紹介とし全4回に分けてお話しさせて頂きました。
これらの経験から得た知識や学びから、今を、これからを生きる全ての人へ向けて、社会に向けて私の声を発信していきたいと思います。
過去に私と同じような経験をした人、今現在苦闘している人、実はたくさんいると思います。
そんな方への少しでも苦悩の乗り越え方だったり、
"こんな考え方もあったんだ"
”自分だけじゃない”
”こんな私・僕でも幸せはつかめるかも知れない”
こんな風に前に進むほんの小さな一歩のきっかけにでも慣れたら嬉しいなと思います。
私は綺麗事やありきたりな言葉が大嫌いです。
今後もしかしたら私の投稿内容によっては賛否両論だったり、時に厳しい言葉に感じる事もあるかも知れません。
だけど、あくまでも私個人の経験から得たことが元となる発信なので全てに共感をし無くていいんです。人生十人十色。それぞれの考え方、感じ方があって当然なのです。
もし、自分とは異なる意見だなあ、共感できないなあ、そう思うことがあっても「私・僕は子は思わないけど、こういう考えの人もいるんだな~」程度に思ってもらえたら嬉しいです。
自己紹介を終え、初めの発信
私は確かに辛い環境の中生きてきました。
だけど、それを盾にしたくはありません。
自分の人生は自分で生きていかないといけないんです。
「救いを求めることと甘えることは全くの別物」
いま、うまくいかない理由を”辛い過去があったから”と言ってはなりません。確かに要因の一つであることは間違いないでしょう。
しかし、その言葉を発している限り、きっとあなたは前に進むことができないでしょう。
過去にしがみついていては、そりゃ足枷となるだけです。
”だからできない” ではなく ”だから頑張る” ”だから変われた” へと気持ちが変わればきっとそれは前へ一歩前進した証なのではないでしょうか。
自分の境遇や経験から世に知識・理解を広める発信はとても良いことです。
でもその発信が、「こんなに辛かったのは社会のせいだ」「だから社会をまず変えなければならない」こんな伝え方では、ただ攻撃的であり、時には「だから私は何も悪くない」という風にも捉えられるかも知れません。
では何がどうであればよかったのか、どう変わるべき(変えるべき)なのか具体性がありませんね。
辛いかも知れないけれど、本当全てが社会制度の落ち度が原因だったのでしょうか、ほかに要因はなかったのか、自分自身に問題は本当になかったのか、そこに焦点を当ててみてまず自身と向き合ってから発信することで、本当に世に伝えたいことがより具体的に発信できると私は考えます。
だから私は。
一見、当時自分は何も悪くないように見えたことでも自分自身に問題は無かったか。辛い環境にいたとき、本当に辛かったのは自分だけだったのか。認めたくなくても考えるようにしています。
例えば虐待。何を言っても虐待をしていい理由にはなりません。心の傷も消えないし、どんな理由があろうとも許すことはできません。
でも・・・
「虐待したのは親だから親(だけ)が悪い」
そう思いたいけど、何故親は虐待をしたのだろう?快楽のためだけの暴力だったのかな?何か虐待に繋がるきっかけの中には親の経験した苦しみが関係あるのかな?虐待の背景はされた側だけでなく、した側にもあるのです。だからこそ、下側の背景にも焦点を当てて考えてみることでもしかしたら自分の辛い虐待経験を別視点から見て許すことはできなくとも、傷が消えることはなくとも、乗り越えるきっかけ・気持ちを切り替えるきっかけに繋がる事もある
とこの身を持って経験しました。
今回はここまでにしたいと思います。
またまた長くなってしまった~!!
読むの疲れますよね・・・(汗)
やっとのこと、初めの発信まで漕ぎ着けました。
自己紹介、ずいぶんと長かったですが私(しちゃ。)がどんな人生を歩んできたかは伝わったかと思います。
そして、これらの経験から学んだことはたくさんあっただろうなぁ~くらいには思ってもらえたのではないでしょうか(….そうであってほしい)
こーんな感じでちょこっと?いやかなり?変わった人生を経験してきた私が、今後何を発信していくのか、そしてその発信はちゃんと自己紹介の中でお話しした経験と本当に関係があるのか、そんなところに注目しながら日々の更新を待っていてくれたら嬉しいです^^
コメント欄にて、質問を受け付けますのでもし何か聞きたいことがあれば是非コメントください!
※取材依頼等はTwitterのDMにて受け付けておりますので、
「ノートの記事を見た」と申し出の上、ご連絡頂けると助かります。
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しちゃ。のつぶやき (@maternity_note) / Twitter
本日も最後までお読み頂きありがとうございました。
次回投稿からは自己紹介ではなく、自己紹介でお話しした経験から社会への発信となります。
それでは皆様、本日もしっかり生きていきましょう~!!
2023.02.22 しちゃ。