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プロレス・ラブフォーエバー

2023年2月23日火曜日。東京ドーム。武藤敬司選手の引退試合。
当日の天気は、晴れ。
当職は、夕方から四谷でお仕事のため、ドームには行けず。
帰宅後、PPVにて観戦。

1 闘魂三銃士と当職


(1)昭和プロレス

 
当職は、小学生の頃、当時はたしか金曜16時から放送されていたワールド・プロレスリングで、プロレスを見始めた。その当時は、長州力選手がとにかく強かったという印象だけが残っている。あと、やたら凶器の使用や流血も多かった。

(2)闘魂三銃士


 その後、しばらくプロレスとは遠ざかったが、高校生のときNintendo64の新日本プロレスリング闘魂炎道2をやり始めたことがきっかけで、再びプロレスにはまり始める。その当時のスターは、闘魂三銃士。そう、当職らは、自分たちは闘魂三銃士世代だと思っている。
 最も印象に残っている試合は、2000年1月4日東京ドーム蝶野正洋選手vs武藤敬司選手の試合。nWoジャパンのトップ対決だった。激闘だった。結果は、クロス式STFで蝶野選手の勝利。敗れた武藤選手は、アメリカへと旅立った。
 そして、およそ1年後の2000年12月31日大阪ドーム。イノキ・ボンバイエで、武藤選手と再会する。武藤選手がリングイン後、深くかぶっていたフードをとると、スキンヘッドだった。めちゃくちゃ盛り上がった。
 翌年、飯塚選手との試合で、シャイニング・ウィザードが初登場した。そして、武藤選手は、全日本プロレスで活動し、三冠ヘビー級王者になった。この時代の入場テーマ曲が、outbreak。これがとにかくかっこよかった。i-modeで見ていた武藤選手の日記(たしか毎週水曜更新)を毎週楽しみにしていた。
 ただ、そのあと、2005年7月、橋本真也選手が亡くなった。闘魂三銃士のひとりがいなくなった。その年のG1クライマックスは、蝶野選手が優勝した。「見えない何かが俺の背中を後押ししている。」というセリフが記憶に残っている。ただ、闘魂三銃士はもうそろわなくなった。当職は、この時を境にまたプロレスから遠ざかるようになった。

(3)現在(武藤選手引退ロード)


 2022年になって、武藤選手の引退ロードのニュースを見た。ときどきテレビではお見かけしていたが、このニュースを見たときは、ハッとするものがあった。
 そして、2023年1月22日。横浜アリーナで、グレート・ムタの引退試合を2人の子と観戦した。子どもたちは初のプロレス観戦だったが、とても楽しかったようだ。ただ、久々に武藤選手の試合を観戦した当職には、両足がとにかくつらそうだったことが強く印象に残った。

2 引退試合


 引退試合の相手は、新日本プロレス内藤哲也選手。しばらくプロレスから遠ざかっていた当職は、大会前にyoutubeなどで、内藤哲也選手、オカダ・カズチカ選手についてキャッチアップした。
 武藤選手は、HOLD OUTで入場。試合前、両足の肉離れがつらいとのことだったが、花道を軽やかに歩いて入場する武藤選手の姿に少し安心した。
 試合では、フラッシング・エルボー、ドラゴン・スクリュー、足四の字固め、シャイニング・ウィザードと得意技が次々登場した。
 それだけでなく、橋本選手の袈裟切りチョップ、DDT、三沢選手のエメラルド・フロウジョンなど、盟友たちの技も繰り出された。ただ、ムーンサルト・プレスだけは見ることができなかった。そして、内藤選手の反撃から、28分58秒デスティーノ⇒片エビ固めで試合終了。

 しかし、試合終了後に、

「蝶野、俺と戦え!」。


 これはまさかのサプライズ。蝶野正洋選手と武藤敬司選手。レフェリーは、タイガー服部さん。実況は、辻仁成さん。その光景は、まさに当職の青春時代そのもの。涙が出そうになった。
 なお、内藤選手の試合やリング外の立ち回りを見て、とても惹かれるものがあった。今後は、内藤選手を応援したい。

4 結語


 武藤選手は、当職の高校生から大学生にかけての青春時代、まさにヒーローだった。心の中のどこかで、いつまでも現役でいてくれると思っていた武藤選手が引退した。その事実だけで本当にさみしい。でも、武藤選手には、人生の節目で、たくさんの勇気をもらったと思う。39年間おつかれさまでした。本当にありがとうございました。もし将来、蝶野選手の引退試合が開催されるなら、そのときは武藤敬司選手の一夜限りの復帰を切に願います!


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