「ルール」や「マナー」という言葉が嫌い(過剰タイトル)

齢25にして、こんなヤンキーみたいな言葉を吐くとは思っていなかった。
これは、ルールやマナーに「縛られる」のが嫌い。という話では無く、ルールはルール、マナーはマナーと言って思考停止で注意したりするのは如何なものか、という話だ。

「黙浴」という新マナーが温浴施設に導入された。これには当初、「コロナウイルスによる感染拡大を防止する」という明確な目的があった。それは分かりやすく、誰もが考えることができる「そのマナーがある理由」だった。しかし、今ではどうだろう。これに付随して「皆か心地よく過ごせるため」という理由ができているのではないだろうか。湯乃泉グループの黙浴ポスターには「その話、今じゃなきゃダメですか?」とある。この書き方が今は適切だと私は思う。

前者の理由に関しては、今も引き続き継続中である。それに関しては初めてその施設を利用する方にも理解は出来るだろう。しかし、後者の理由は初めての利用者には完全に理解する事は出来ないと思う。なぜなら、彼らはその施設の雰囲気やローカルルール諸々を知らないからである。

ここからが本題。

その施設の雰囲気、ルール等を知らない初めての利用者に、「黙浴はマナーだから」「これがここのルールだから」といって、説明無しに注意する。というのは果して「皆が心地よく過ごせる為」なのだろうか?

注意したことによってその人は心地よく過ごせるのだろうか?注意された側は「皆」に含まれないとでも言うのか?私は、「皆が心地よく過ごせる為」には、初めての人、分からない人にこそ、心地よく過ごしてもらいたい。楽しみ方を知ってもらいたい。

自分の大好きな場所は皆に知ってもらいたいじゃない。

注意された側を「皆」に含まず、それ以外を「皆」と捉える方もいるだろう。とても気持ちは分かる。こっちの方が単純だ。しかし、ここにも落とし穴がある。「皆が心地よく過ごせる」かどうかは単なる想像でしかない。注意する事で、言われた側はもちろん、それを見ていた人も緊張したりして心地よくなくなってしまうかもしれない。(これも単なる想像ですが)確かに、心地よく過ごせる人は増えるかもしれないけれど、「皆」ではない。であれば、自分の注意した理由は「皆が心地よく過ごせる為」ではなく「"自分"が心地よく過ごせる為」という自分勝手な理由になってしまっているのではないだろうか。

「皆」とは1人たりとも、残らず全て、という意味だ。

そんなことを考え出したら、自分すらも心地よくなくなってしまう。本末転倒だ。

生きている上で、こんなことは不可能かもしれないが、心得ておく分には問題ないだろう。

注意する際には、その人が気持ちよくなって欲しい、という真心を込めた言葉が必要だ。注意というよりは、自分の大好きな施設の事を教えてあげたらいい。マナーをマナーとしてしまう場合、黙浴だから言葉を発しにくい。しかし、湯乃泉のポスターにある「その話、今じゃなきゃダメですか?」を思い出して欲しい。「この話は今じゃなきゃダメだろう?」(ちゃんと口元をタオルで覆ってね)

それで1セットの心地良さくらい譲ってあげてもいいんじゃない?実はこっちの方がめちゃくちゃ気持ちいいよ。


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