藍坊主を久しぶりに聞いた。
最近、藍坊主のハローグッバイをよく聞いている。
ロックが好きな30代の大定番曲であり、どアンセム。今の子達に刺さるかは分からないけど、当時10代だった私にはぶっ刺さって毎日聞いていた。
木枯らしは木枯らしで
アリはアリで 猫は猫
でも僕は未だに僕になれない
アイデンティティぐらぐらで、色んな物に流されて何に価値を置いていいのか分からないまま過ごした10代。
今で言う『台風はいいよな。進路が決まってて』っていうどこかで見かけるコピペを、ドラえもんのきこりの泉に落としたら、きっとこの位綺麗な言葉になって出てくるに違いない。
00年代の中でも特に歌詞が洗礼されている印象があるのが藍坊主である。
音楽好きな人がいて、藍坊主が来たら個人的に熱いし、この世界に何度でも感謝する。
その中でも、光ってる一節として
ドーナツの穴ぼこは
存在か空白か
という問いかけがある。
現代版『鶏が先か、卵が先か』問題である。
一旦、お手元のディグダのドーナツはおしまい頂いて、オールドファッションに目を向けて欲しい。
エンジェルクリームも箱に戻せ。
形を保ったドーナツの穴にとって、確かに穴は『存在』だと言いえるが、1口ずっと食べ進めていくと、穴ぼこは形を失い『空白』になっていく。
だからなんだって話だけど、こういう小さい所をピンポイントで見つけて、疑問として落とし込んだ歌詞をとても美しいと思う。
しかし、思ってみればこの、ドーナツ穴ぼこ問題に近いものは身の回りに溢れている。
例えば、最近酒を飲んだ後にお茶漬けを食べた。
鮭である。
白いご飯の上に、解した鮭の身。
それに注がれるお茶。
しかし、あることに気がつく。
お茶を漬けてるのは私だから、お茶漬けって言葉は私に向けられる言葉ではないのか。
米視点から見たら『お茶漬け』ではなく『お茶漬かれ』であり、お茶視点で見ると『米漬け』だということに。
真にお茶漬けをしてるのは、米にお茶を注いでいる人間側の行為そのもの。つまり、お茶漬けは『名詞』ではなく『動詞』と言い換えることが出来る。
我々が食べているのは、『お茶漬け』ではなく『お茶漬かれ』であり、お茶漬かれを用意しているその時には既に、お茶漬けという行為は完遂している。
ジョジョでも似たようなこと言ってたし、多分これは世界の真理なんだと思う。
自転車は『自分!転がれます!転がらせてください!』みたいな名前しときながら、自分ではスタンドに頼らないと自立すらしないし、その点においてアクセルを踏めば勝手にころがっていく車こそ『自転車』という言葉がふさわしいように感じる。
そうでしょ?
つけ麺は『つかれ麺』だし、整い椅子は『整われ椅子』だし、抱き枕は『抱かれ枕』じゃん。
甘エビは人間が食べた時に『甘い』から甘エビっていうネーミングだし、冷蔵庫は『れえぞうこ』で変換されないし、北方領土は返還されないし、私は小林歌穂さんが好き。
日本語が乱れてる現在。
美しく正しい日本語ってなんなんだろう。
生活の中に根付き、未来で見返した時にその当時の人の生活が見えてくる言葉が、美しく未来の人に映りますように。
↑夜勤明けの電車の中でここまで書いて下書きに入ってた
休みの日に後日続きを読み返してみた今↓
何言ってんの、この人怖いんだけど。