喋る絵、語る手、鏡のあなた。
エビ中にハマっている。
時差ボケだ。
1年に1度だけ空港が飽き、1日だけビザが降りる国がある。それがぽーランドだ。
1年で1番楽しみにしているイベントだと言いきってしまってもいい、小林歌穂さんの生誕祭である。
今年もZepp Yokohamaにて誕生日会が行われ、ほんとにほんとにほんっとに楽しかった。
前日に個展にお邪魔して脳内を拝見した。
普段物静かな小林歌穂さんとは真逆で、作品はとてもおしゃべりで、『可愛いやろ?』と問いかけてきて、その一つ一つに『そうだねぇ』と心の中でお返事をしていく。
かと思えば、ドキッとするような作品があって心を奪われたりした。
美術館とかは割とすきだ。
静かに時間が流れて、作品と自分の思考だけの世界になるから。
しかし、今回は画廊の中で沢山言葉を交わしたような不思議な時間だった。(あと、スタッフさんに『こんにちは』と言われたので、『こんにちは』と返したら実はご本人だった。脳みその処理が落ちるかと思った。)
私は33歳にして初めて絵をお金を出して買うかもしれないが、それはまたいずれ(買ってる未来しか見えねえ!)
そういう、『小林歌穂さんさいっこーう!』の気持ちで会場に入り、客入れBGMで流れているチャットモンチーの世界が終わる夜にを聴きながら既に涙腺に来ていた。
過去にOPで泣いたことがあるが、客入れBGMで泣きそうになったので、危うく涙腺崩壊RTAの記録を更新するところだった。あっぶねー。
客電が時間通りに消え、会場のスクリーンにイラストが映し出される。去年もそうだったけど、ぽーランドの吟遊詩人大好き。ほんとに好き。
公式さんOPアップしてくれてありがとう。
歴代の髪型を実家りと表し、『あー、この頃からだな。好きになったのは』などと思いながら、10年、24歳の年月の長さを改めて感じる。(まだ2年しか推してないけど10年感じたの!時を越えるの!オタクは!)
私は口下手で〜
からの文字でもう心が穏やかではなくなり、その後ステージに立つ小林歌穂さんを見て、高校の頃Zepp名古屋で人生で初めて見たライブくらいワクワクして、ドキドキして胸がぎゅっとした。
※ほんとさぁ、こういうの書くならどういう構成で書くかくらい考えて書けよって感じなんですけど、本当にどうやって書き表したらいいのかわからないです。
自分目線で自分の感想だけだと読んでる人は面白くないかもしれないし、セトリの意味とかを曲目線で書くのはもっと上手い人がいるし、ご飯は美味しいし(夕飯食べながらここ書いてる)、小林歌穂さんは素敵だし(素敵)
だから、本当に覚えてることとか、感じたことを、当時の状況の断片を繋ぎ合わせて書いていきますね。
私の言葉だけでは全てを語れないので、これを読んだらみんなTwitterに戻って下さい。文章上手なオタク沢山いるから。
吟遊詩人から繋がる1曲目はぐらりぐら想いだった。
去年はサビにハマる大人の感じに見とれてしまって、かっこよかった記憶があるのだけど、今年はサビ以外の言葉がザクザク刺さっていった。
あなたの口ずけ
最近変わったわね
誰のためなのよ
誰の好みになったのよ
の部分が、なんというかさ。
こういう雰囲気がバチッとハマった瞬間の小林歌穂さんは、ほんとにかっこいい。
去年のスナック歌穂は『大人』をテーマにしていたからフォーカスされていたけど、去年の空気感を1曲目からパワーアップさせて持ってきたところに、1年の積み重ねが見えた。
愛した記憶
もう一度 騙されてあげる
の低音が響くパートは、力強くて高音パートが取り上げられることが多い歌声は、いつの間にか低音もめちゃくちゃクールで情熱的に紡がれていました。
その後、面皰でにっこにこで『いやぁぁぁん』ってちょけてる姿が愛おしかった。
ぐらりぐらから、面皰のこの振り幅。海外で出されるオリジナル寿司位の振り幅ですよ。アボガドロールだよ。
ステージをゆっくり歩きながら、会場にご挨拶をしている姿は、オタクと同じくらいこの日を楽しみにしていた気持ちが伝わってきて、嬉しくなりました。
その後のカバー曲、ウクレレコーナー、生写真のコーナー、と時間が進む事に、どんどん引き込まれていきました。
黒毛和牛680円をついにライブで聞けたこと。
ほんとに感動しました。
ウクレレコーナーの人魚。
丁寧に、丁寧に。
織物のように紡がれた言葉と音。
揺れる空間の美しさを、何度もまぶたの裏に写しています。
平凡人の準備、大変なツアー中にありがとうございました。
カバー曲沢山用意してくれて、ほんとにありがとうございました。
生写真のコーナー。
ほんとに楽しくて、深夜1時に落書きをして『傑作だ!』と喜んでいる小林歌穂さんを想像して、その瞬間自分は何をしていたんだろうと思っていました。(きっと寝ていたと思います。)
沢山準備をして、小物も作って、沢山時間をかけて、その時間を想像してほんとにダメでした。
ぽーランドは、絶対にフラットな気持ちで見ようと決めていたんです。
絶対に、小林歌穂さんから目を逸らさないで見ようって決めていたんです。
しかし、もう人魚辺りから冷静に見れていません。
どんどん、自分自身に意識が向いてしまい勝手に感情的になって行きました。
去年、ぽーランドを見た時は、個人的になかなかしんどい時でした。
あー、もうヤダー!ぽーランドしか喜びがねえー!
と思っていたので、救いのようなPLAYBACKでバカほど泣いていました。
ライブの記憶と連動するようにその時の悩み事ははよく覚えているのですが、1年経ってその事柄が解決しました。
ひとえに私の努力の賜物です。これは近年稀に見る個人的褒めポイントです。
人間とは贅沢なもので、新しい立ち位置に経つと新しい望みが出てきます。
あれが欲しい、これが欲しい、こうなって欲しい、あれが食いたい、あそこに行きたい。
ご多分にもれず、今の私にも願望があって褒めポイントなんか忘れて、しんどいなーの夜があります。
でも、ライブを見て、準備を勧められている小林歌穂さんを想像して、1年間のことを思い出して、自分にも同じように準備して、選別して、残して、いらないものは捨てて、確実に1年前より良くなっている私を自覚しました。
だから、
仄明るい未来でも
あなたの家族がいい
という、日記の歌詞も今まで着目してこなかった
仄明るい未来
という言葉で、目の前が開けたような気がしました。
自分の中に少しだけ、可能性を感じられるようになりました。
その言葉を、音源では可愛らしいのに、とても力強く『あなたの家族がいい』と歌う姿がとても眩しく感じました。
手嶌葵を歌って欲しい
という願望もかないました。
『これからも皆さんの背中に幸せの貼り紙を貼っていきたいです』
と披露された『幸せの張り紙はいつも背中に』はただただ『光』って感じでした。
張り紙、あんまり聞いてなかった曲で、去年のファミえんも(ふ〜ん)みたいな感じで見てた記憶があるんだけど、今回は刺さりまくりでしたね。えぇ。
希望の歌。
前向きな歌。
壊れたおもちゃの日々からの脱却。
MCで『ちゃんと気持ちを伝えることが苦手で、歌や絵を通してなら伝えられる』とちょっと泣きながら語ってくれていましたが、ほんとに小林歌穂さんの歌も絵もおしゃべりだと思います。
『これはね、』と一息置き、あなた自身の表現を細かく伝えてくれているように感じます。
『ここの歌詞は今、あなたに伝えているんだよ』と手で伝えてくれているように感じます。
『今私たちはここにいるからね』とその眼差しは静かに熱く語ります。
そして、その言葉達はは必ずこう締められるのです。
『で?あなたは?』
その問いかけに、小林歌穂さんの素晴らしいステージを見ながら、一体自分には何があるのだろうか。私はこの先、何かを残せるのだろうか。
そんな、あなたの放つ光で私の姿は日の元に晒され、あなたの姿を見て背中を押されている気分でいました。
楽しかったな、凄かったな。
ライブのあとの電車で思い返しながらいると、『少しも進んでないのでは』というミジンコのような感情が、一つ一つ燃えカスのようにこびりついき、意識に触れるようで、それを見て見ぬふりをしながら生きています。
それでも、実は自分でも気が付かない速度で進んでいて、『しんどいしんどい』と言いながら、ぽーランド8から、ぽーランド9までの1年間で1年前の私が欲しかったものを手に入れました。
私は私を褒めることが出来ました。
少しだけ、自分に優しくすることが出来ました。
私は小林歌穂さんのライブ中の手の動きがめちゃくちゃ好きです。
ライブ中に、手を通してたくさん私たちに語りかけてくれています。
先述した通り、個展の作品たちも沢山語りかけてくれていて、小林歌穂さんの新しい面を見るのと同じ数だけ、自分の中の新しい一面に出会える気がしてます。
Twitterに書いたこの文章が、その全てなのだと思います。
『人間味ダダ漏れで』
と映像でもMCでもいいながら、予想外の涙に戸惑いつつ、『寄り添える存在でいたい』と言っていました。
その人間味で私は確かに生かされています。
甘さと温かさと強かな強さ。
知れば知るほど、あなたのような人間でいたいと思い始めています。
誰かの止まり木のような存在でありたいと、小林歌穂さんをステージで見る度に思います。
ずっと、生きている中で常に思っていますが人間力が足りません。
自分の欠点ばかり見えてきます。
言わば私の人間味は『泥水』と揶揄してもいいかもしれません。
他の人から見たらそんなことないのですが、世界は私を通してしか見えないので、『泥水』という認識です。濁っていて苦くて見るのも嫌になることもあります。
長年、それとできるだけ目を合わせないように生きてきましたが、小林歌穂さんの暖かくて、優しくて、甘い、人間味を味わっているうちに、自分の泥水をちょっと啜ってみようかなと思えてきました。
一気に飲み干すことは出来ませんが、徐々に自分と向き合い、推し始めてから少しづつ、でも確実に自分のことを良い方に認識できるようになりました。
その結果が、先述したぽーランド8からぽーランド9の期間です。やっと大きく動いた気がします。
幸せの張り紙は、そっと誰かにはられるだけではなかなか気がつけません。いつまでも、自分の足りないもの数を数え続けなければなりません。
でも、今回の幸せの張り紙は、エビ中がステージに立つ前にメンバーが背中を叩いて気合を入れるように、力いっぱい貼られたような。
そんな後押しのような曲に聞こえました。
背中が真っ赤になるくらい強く、しかし確かに貼られた気がしたので、貼られているんです。目には見えないけど、あるんです。
おしゃべりな絵。
繊細な気持ちを語る手。
そのどちらからもメッセージをうけとり、小林歌穂さんに自分を重ねて、少しづつ小林歌穂さんのように少しでも人によりそえる人でいたいと、強く思います。
その姿は鏡のようです。
その姿を模範するように、変わりたいと思い少しだけ行動に起こす毎日です。
私の中での小林歌穂さんはそういう存在です。
ほんとに、しんどい時。
他人と話すのがストレスに感じているとき。
人との関わり方が分からなくなっているとき。
危うく、残りの人生を消化試合のように過ごしてしまいそうな時。
寄り添って、背中を見せてくれて、強く背中を叩いてくれて、ありがとうございます。
長い長い文章、自分にしか理解できない怪文書。
それでも数日かけてこの文章を形にすることは、小林歌穂さんに対してのお礼と、自分の気持ちにマストを立てて次のステップに進む指針にしようと思ったからです。
生誕祭ではお祝いの気持ちを持っていくのですが、いつも大きなお土産を貰います。
いつも、推させてくれてありがとう。
いつか、小林歌穂さんに良い報告ができるよう。
また1年個人的に頑張ります。
あなたにとって幸多き1年を願うと共に、私にとっても実りのある1年に必ずしますから、どうか来年もぽーランド10に入国する時に、次のステップへの決意と、クソデカ感情長文お気持ちnoteをかけますように。