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雷雨の翌日にわたしは生まれた(仮)<209>
walking distance
ああ……。声には出さないけれどずっと「ああ……」と心はため息をついている。表情には出ているかも知れないな、ああ、って。ワインを買いに行きたいのに土田さんとリスボンの旅行社のなんとかという人はそれを許さないかのようだ。ああ、Do not disturbの札はドアではなく首に掛ければよかったか。
「ヘビメタさん、なにか飲む?」
私はヘビメタなんかじゃないのになぁ。苦笑いする。
「あ……私、ちょっとこれから散歩に出ようかと……」
「そりゃ、引き止めちゃったみたいで悪かったねぇ。今日は最終日ですもんね。リスボン滞在を楽しんで下さいな。ごゆっくり」
「ありがとうございます。では、また」
「気を付けてね!変な男に声を掛けられないようにね!」
席を立って土田さんをチラっと見ると渋い顔をしている。ああ、やっぱり今夜私が誰かさんと落ち合うだろうって気付いているのね。本当のところはどう思っているか分からないけれど、私はあのひとに会いたいの。どうか、邪魔はしないで。あなた、いつぞやに言ってたわよね。ジョゼさんと私のことには関知しないって。それなのにジョゼさんがあんなことを言っていたとわざわざ教えてきたり……本当にあのひとがそんなことを言ったのかやっぱり疑わしい。私はあなたを嫌いになりたくない。嫌な思い出にしたくないの。ああ、また私のエゴだ。
「では、また」と言ったけれどもうあの男性に会うことはないだろう。さっきから、ううん、ずっと考えているけれど、二度と会わないだろう人に対する切なさというのは執着心からではなく、その恐ろしさの正体はもうその時間や空間には二度と自分は存在出来ないということじゃないかと思う。街を発つときのあの感じ、ホテルの部屋のドアの1メートル手前で「もう私はこの街に、この部屋に一生来ることはないんだろう」とクラクラしてしまうのと同じ。なんだかすごく腑に落ちたけれどスッキリはしない。
ああ、嫌だな……また昔のことを思い出してしまう。お客だった勲さんを好きになって、ほんの数か月だけ恋人みたいになったけれど振られちゃって……あの日はボジョレーヌーヴォーの解禁日で、勤めていたスーパーのノルマで買わされたのを持って勲さんのアパートに行った。まさか別れを切り出されるなんて思わずに。ボジョレーを飲みながら勲さんはサヨナラを受け入れた私に
「なんで泣かないんだよ!なんで嫌だって言わないんだよ!」って泣いていたっけ。
しばし無言で二人でボジョレーを飲み続けて
「君はまだ若い。だから来年や再来年、5年後にどういう生き方をしているか想像出来るような生き方をしちゃいけないんだ。もうすぐミレニアムだけど、22世紀には君も僕も存在してないってことだけは確かだ」と神妙な面持ちで言っていた勲さん……。あれから4年が経って私は今、あの頃想像だにしなかった人生を生きているのだろうか。勲さんと最後に会ったのはロンドン旅行の数日前だった。絵ハガキを送るねと言ったけれど出すことはなかった。そんなことなどすっかり忘れていたから……。それから会うこともなく、連絡すらもない。どうしているのかしら。けれどもう会いたいとも思わないし、会いたくないとも思わない。私の人生には確かにいるけれどももう過去のことになってしまっている。そうやっていつか段々と誰かのことや場所のことをあまり考えなくなっていく……きっと人生はその繰り返し……。
でもやっぱり不思議なのは、そこそこ長く付き合った人や自分の人生に大なり小なりの影響を与えた人たちより、ほんの少しだけ会話を交わした人の方が思い出すと切なくなること。中学時代は問題児だった私を理解してくれた大橋先生、初めて恋をした誠さん、クラブ遊びをした仲間たち……そんな人たちのことを思い出すとすごく懐かしいし、元気ならいいなぁと思うけれど「もう会うことはないだろう」と恐ろしくなることはないーーああ、本当に分からないなぁ。勲さん、私は今ポルトガルにいて、今夜一緒に過ごすひとと飲むワインを買いに行こうとしているの。あなたは私と一緒にボジョレーを飲んだこと、覚えているかしらね……?ああ、ジョゼさん……。1年後、10年後、20年後……私はあなたのことを思い出して膝を抱えて泣くことなんてあるのかな。
ジャケットを羽織っているけれど少し肌寒いリスボンの夜。この辺りにはどうやら衣料品店やワインを売っている店はないようだ。中心部から離れている新市街だからかレストランやバー、カフェらしき店しか見当たらない。どうしたものかなぁ。このままあてのない散歩でもしようか、それともホテルに戻ろうか。ジョゼさんはもう連絡をくれたかしら。あんな女泣かせの色男、少しくらい待たせたって構わない…….
「ボア・ノイテ、セニョーラ!お食事はいかがです?ここではポルトガル中のグルメが楽しめますよ!バカリャウ、トリッパにカルディラーダ、なんでもありますよ!お酒も色々、ポートワイン、マデイラワイン、ヴィーニョ・ヴェルデ、ジンジ―ニャ……コーヒーだけでもどうです?」
レストランの客引きに声を掛けられて少し気圧される。
「すみません。今晩はデートの予定があるんです。ですが、もし外食することになればここに来ますね」
「おお、セニョーラ!お待ちしてますよ!あ、セニョーラはどこから来たんですか?」
「ジャパン……Sou Japonesa」
「おお!ジャパン!初めてジャパンに訪れたヨーロッパ人ってのは我々~」
この国に来てから幾人かそう話してきたなぁ。みんなあまりにも誇らしげに言うものだから面白い。客引きと少し会話をしてからホテルへと歩く。時計を見ると夕食の時刻を少しだけ過ぎていた。