雷雨の翌日にわたしは生まれた(仮)<213>
徒花
もう9時を廻っている。バスでホテルに戻って来てから4時間以上経ってるんだな。連絡があったかどうか訊くのが怖い。連絡がないならば部屋に戻るか、バーに行くかどうか迷う。バーで飲んだら酔ってしまうのは必至。もしあのひとから連絡があって会うことになったら赤くなったみっともない顔を見せることになる。別にお酒じゃなくてコーヒーやジュースを飲んだっていいのだけれど。
「ここらでお開きにしましょうか」
「もっと話してたいけど、明日は早いものね」
「名残惜しいけど、キリがないしねぇ」
「ああ、帰りたくないわ。帰ったら溜まった家事やらしないといけないし、余韻に浸ってる余裕なんかなしに日常に戻されちゃうのよね。旅行は楽しいけれどそれがね。まぁ、メリハリがあっていいんだけども」
「そうねぇ、私も同じ。家のことも仕事も溜まってるわ。仕事は好きなんだけどね」
「私もそう。だけどまたすぐにどこか行きたくなっちゃうの」
「そういえば伊藤さんは今度はインドに行くんでしたっけ?」
「まだ全然予定を立ててないんだけど、次はまたインドのつもり」
伊藤さんは歌人で、某国営放送局が運営している学校で短歌の講師をしつつラジオ講座も担当しているといつぞやに話してくれた。著作もいくつかあり、旅に関する歌を集めた本を帰国したら進呈してくれるという。私が詩に関心がある、文章を書くのが好きだと言ったら是非読ませてほしいとも……。
この旅では面白過ぎる人たちと知り合いになってしまった。そんな人たちが帰国後も私と付き合いたいと言ってくれること、申し訳ないやら、ありがたいやら。私はしょうもない暮らしをしているだけのつまらん奴。だけどそんな卑屈になってはいけないな。仲間に入れてもらえたことを誇りに思わないと。
お開きにするはずが、話が弾んでみんなでコーヒーをもう一杯おかわりする。楽しいなぁ。ああ、私よりずっと年上で、賢くて優しい女性と一緒にいるのが心地いいのはきっと生まれ育ちのせいだ。ハキハキしてて優しかった小児科のおばあちゃん先生や、少し訳ありの人生を歩んできたスーパーのパートさんたち……みんな違ってみんな温かかった…..こんな人が私の母親だったらどんなに幸せだろうかと密かに思っていた。懐かしいな。みんなどうしているだろうか。
こうして話をしているのは楽しいけれどさすがに連絡があったかどうかが気になっている。もうすっかり眠気は覚めた。コーヒーを飲み過ぎたせいかどうかは分からない。
「そろそろ戻る?」
「あ、もうこんな時間。そうしましょ」
財布から10ユーロ紙幣を取り出す。結局、お金をあまり遣うことはなかったなぁ。赤いブーツも買えなかったしアナ・サラザールのブティックにも行かれなかった。
レストランを出てエレベーターに乗る。
「バーに行くの?」
「ちょっとまだ迷ってます。行きたいんですけど、ちょっと疲れちゃったので」
「無理しないでね。けど明日起きれなかったら置いてっちゃうわよ」
「ずっとポルトガルにいたいんで、それでいいです」
「そんなこと言わないでよ。気持ちは分かるけどね。私も帰りたくないから」
「はい……それでは、また明日」
「おやすみ、ちゃんと休んでね」
「ありがとうございます。おやすみなさい」
私だけロビーのフロアで降りる。数メートル後ろでドアが閉まる音がした。
沢山の人がいるロビー……お喋りをしている人たち、新聞や雑誌を広げて寛いでいる人、誰かを待っているらしき人……。ああ、フロントで訊かなきゃ、伝言を預かってないかって。だけどやっぱり怖い。うーん、どうしよう。脚は震えるわ、鼓動が激しくなるわ。どうして私はこんなに小心者なのだろうか。連絡が来るか来ないかずっと不安でいるよりいっそ、今日は会えなくなってしまったと伝言があったと言われた方がマシだ。うん、一旦部屋に戻ろう。歯も磨きたいし化粧を直さなきゃいけないしね。
ほんの少し煙草の匂いがする私の部屋。ここは本当は禁煙だから、しっかり消臭をしないと明日ここに泊まるお客さんから苦情が来るんだろうなぁ。私には関係のないことだけどさ。煙草を吸ってもいいって言ったのはホテルの人だし。とはいっても少し気にかかる。窓を開けようーー冷たい風が入って来る。うう、寒い……。夜のリスボンの街を見ながら紫煙を燻らす。
アルガルヴェ地方はもう春爛漫だろうか。桜にそっくりなアーモンドの花、綺麗だったなぁ。サン・ヴィセンテ岬の岩場に咲いていたマツバギクは今は眠っている、閉じているだろう……夜だから……。私を花にたとえたら?ああ、夜に咲く花もあれば、一年で枯れてしまう花や春に芽吹く野草もあって……。
幼い頃に父と行った横浜公園。チューリップが沢山咲いていた。
♪さいた、さいた……あか、しろ、きいろ、どのはなみても、きれいだな、って歌いながら色とりどりのチューリップを眺めていたっけ。だけど私が心惹かれたのは黒いチューリップ。赤や白や黄色じゃなくてね。こんなお花もあるんだなって物珍しかったし、得も言われぬ妖艶な趣があった。妖艶、なんて言葉はまだ知らなかったけれど、おとぎ話の悪い王様や魔人が住んでいるお城のお庭にはこんな花が咲いているんじゃないかなと思った。
チューリップはオランダの花だってこと、ずっと昔から知っていた。図鑑で見たから……。オランダにも行ってみたいけれど、いつになることやら。
私は40歳になるまでに全部のヨーロッパの国に行く。絶対に……!待ってろよ、オランダ、フランス、イタリアにユーゴスラヴィア…………!
ああ、こんなことを考えながら化粧を直しているのにジョゼさんから連絡が来ないのはどうして?軽くシャワーを浴びて、着替えも済んだのに。あか、しろ、きいろ……赤はマデイラで買ったランジェリー、白と黄色はあのひとと私ーーああ、やっぱり私、眠いからおかしくなってるのかなぁ……。眠いのかさえ、よく分からない。マデイラで買ったジョニーウォーカーの小瓶の封を切りたいけれど我慢してもう一服だけしよう。時計を見るのが怖い。窓の外を眺めながら煙を吐く。あのひとは今、どこでなにをしているの?今晩、来るつもりなんてないならあんなことは言わないでほしかった。待つ女の気持ちなんて分かるのかしら。
あ、もう煙草、少ししか残ってない。いつの間にこんなに吸ってしまったんだろう。買いに行くか。確かここには売店があったはず。だけどもう遅いから閉まっているかも知れない。あ、販売機がロビーにあったな。昨晩も買った。フロントでも売っていると思うけれど「あ、セニョーラ、伝言は預かってませんよ」と言われるのが怖い。ああ、この部屋にいたくない。煙草を買ったらバーに行こう。