雷雨の翌日にわたしは生まれた(仮)<212>
If it rains
うーん、これは……この旅で初めての美味しくない食事だなぁ。眠いからなにを食べているのかよく分からないのを差し引いてもあまり美味しくない。ああ、あのひとはもう食事を取ったのかしら。連絡、くれたかな。
眠気覚ましにコーヒーを注文する。いつものように砂糖は2つーーダメだ。出がらしのお茶のように薄いから眠気がちっとも覚めやしない。これ、インスタントのコーヒーだな。ああ、煙草が吸いたいな。一服したくらいじゃこのすさまじい眠気が覚めるとも思えないけれど。部屋に戻ったらベッドに倒れ込んでしまうだろう。解散したら部屋には戻らずにロビーにいようか。賑やかなところなら眠らずに済む。置き引きや下衆なナンパ野郎などを警戒しなくてはいけないから眠気が吹っ飛ぶかもしれない。あ、バーに行こうか。もし誰かから連絡があったらバーに繋いでくれとフロントの人に声を掛けてから。
「ミホちゃん、まだ眠たそうね。今日はもう、ゆっくり休んだ方がいいわよ」
「いや、もったいないので起きてます。これからバーにでも行こうかと……」
「バー?私もお供出来たらいいんだけど、ちょっと疲れちゃってるから行けないわ。ゴメンね」
「いえいえ…..そんな。いつも私の夜遊びに付き合って下さって本当に感謝してますよ、本当に」
「ミホちゃんが不良だったお陰で楽しかったわよ。カジノ行ったり、バーに行ったり。普段は全然、そういうところ行かないもの。貴重な体験が出来たわ。こちらこそありがとう」
「そうよ。本当に楽しかったわねぇ」
みんな、本当に本当に素敵な人たちだ。いくらありがとうと言っても足りない。
寝ぼけまなこを擦りながらマデイラのホテルのバーを思い出している。落ち込んでいた私に「どうしたんだい?」と声を掛けてくれたリカルド、気さくなバーテンダー……
ーー彼女は人生について考えてるのさ……そうだなぁ、そうに違いない……そうさ、たった一度きりの人生楽しまないとな……乾杯…….!
あの二人には本当に救われた。どんな風に生きてきたらあんな言葉がさらっと自然に出て来るのだろう。なにがあったのかなんて訊きなんてしない、ただ一緒にお喋りをして、飲んで……。ああ、もう二度と会えないのは切ないけれど、私はあの人たちのことを決して忘れやしない。彼らは私のことなんて忘れちゃっても構わない。だけどいつか、あんな人と会ったなぁと思い出してくれたら嬉しい。
これが最後の晩餐。薄くて美味しくはないけれど、もう一杯コーヒーをおかわりしよう。少しでも長くツアーメンバーと一緒にいたいから。お酒はあとで飲む。あのひとと一緒に。
ああ、私、いつも旅先でジョニーウォーカーばかりを飲んでいるのは菊正宗のCM……『初めての街で』ってやつなんだろう。どこでもいつも同じ酒を飲んで、初めての人に口説かれて、別れて、又逢おう、達者でいろよ、ってね。馴染みのものは冒険はなくとも安心感がある。マデイラの商店で買ったジョニーウォーカーの小瓶、今宵あのひとと一緒に飲めるかしらーーでも私はワインが飲みたい。ポルトガルのワインならなんでもいい。アルブフェイラであのひとはワインが好きな私のために赤ワインを用意してくれたっけ。ゴメンね……私、あのときのお返しにとワインを買いに出たんだけれどこの近くに酒屋は見つからなかったの。あ……あなたはブランデーが好きだったわね。ベージャのポサーダのバーで、細く長い指でブランデーグラスを持っていた……ああ、あのとき私も一杯だけブランデーを飲んだんだ。いつもと変わったことをしたり、習慣を破ってしまうと強い印象が後々まで残ってしまう。だから私は安全な方を取る。
安心、安全……なんだろうね、それって。ああ、そうか……頼みもしないのにあれやこれやが次々とやって来て翻弄されてしまう、そんな生まれながらのハードモードな人生に逆らおうとしているからか……安心やら安全やら安定やらを求めるのは精いっぱいの私なりの抵抗なんだ。フツーの人生を歩めないなんてこと、もう、とっくに分かっているのにね。
ああ、もう、なんなの…….こんなに眠いのに、頭と身体は疲れ切っているのに、昨晩遅くから、今このときも、ずっと心が騒いで止まらない。
♪ルルル、ルルル…….
長崎は今日も雨だった、ってさぁ…………あんたねぇ、そうじゃん、これ、ポルトガルの曲じゃないの?ファドよりサウダーデってやつじゃないの、これ。この曲、この歌。愛しのひと、愛しのひと、どこに、どこにいるの。ああ、私、わたし、今、しらふだよね……?コーヒー2杯?で酔うわけはないじゃん……ああ、雨は降っていないからあなたを想って詠む詩が思い浮かばない。これは恋でも愛でもない。そんなことは分かってるのよ。だけどさ。だけどね。私、なんであのひとをこんなに、さ。なんかおかしい、この私らしくないこの、心の動きはなんだろうか。動揺してる、困惑してる。ああ、この初めての感情が怖い。とてつもなく恐ろしい。
自分はナルシシストってやつじゃないかと気付いたのは二十歳になる頃だったか……自分とどこか似た人ばかりを好きになるのはナルシシストだからじゃないかと気付いてしまって眩暈がした。ああ、あのひと、あのひとは私とちっとも似てなんかない。あのひとは粋で、粋で、美男で……ああ、あのひとの魅力ってそれだけ?ああ、もう、なにがなんだか分からない。あのひとに『長崎は今日も雨だった』を聴かせたらなんて言うかしら?
♪ルルル、ルルル……
ああ、やっぱり私は趣味が似ていて、心のやり取りがきちんと出来て、お互いを尊重出来るような人しか愛せないと思う。私はナルシシストだからね。愛なんて一生分からないかも知れないけど。けど、けど、だけど、今夜あのひとと、ジョゼさんと会って、一緒にお酒を飲んで、少しだけお話もして、朝まで一緒にいたいの。怖い、怖すぎる。けどね…….もう最後だから。こんなこと、もう一生、生涯、二度とないから。