雷雨の翌日にわたしは生まれた(仮)<219>
Succubus
ああ、またドキドキが止まらなくなる。言われたようにテレビをボーっと眺めながらワインを飲んで、煙草を吸っているけれどあのひとがいつバスルームから出て来るかと思うと姿勢を崩すわけにはいかない。みっともない女だと思われたくないから……けどね、本当は私は、少しだらしない姿を見られても私を嫌いにならないような人がいい。脚を崩しても、化粧がよれてても、ちょっとだけガサツに喋ったってそんなことは全然気にならないよって人が。うん、私も相手には私と一緒に居てリラックスしてくれたら嬉しい。一緒の部屋にいて全然違うことをしつつも、それでも楽しいって人がいい。音楽でも聴きながら、たまにちょっかいを出し合うようなさぁ。
でも今夜は特別。もう二度と会うことのないひとと朝まで過ごすんだから。あ、これから私もシャワーを浴びる……けれど、化粧は落としたくない。化粧をしていない顔なんて見せたくないから。ああ、あのひと、Tシャツや短パンなんて着るのかしら。普段、スニーカーなんて履くのかしら。フフ、想像出来ないなぁ。
シャワーが止んで、ドアが開く音がした。グラスを置いて背筋を伸ばす。ん……まだあのひとは出て来ない。なにをしているのかしら。早く戻って来てよと思うけれど、このまま甘くてドキドキ酸っぱい気分に浸っているのもいいかも知れない。ああ、化粧、落ちてないかな。バッグから鏡を取り出す。
「セニョーラ、お待たせ」
タオルを身体に巻いて現れたジョゼさん…….短いウェーブの黒髪は濡れているしいい匂いがする。ああ、磔刑像のネックレス……シャワーを浴びるときも外さないのね。
「おかえりなさい」
「うん、セニョーラもシャワーを浴びるかい?僕はそのままでもちっとも気にしないけどね」
「どうしようかな」
「セニョーラの好きにしたらいいよ」
「じゃ、すぐに戻るから。テレビでも見てて」
「うん。けど早く戻って来てくれ。そうでないと僕は寝ちゃうかも知れないからね」
「あ、寝てていいの……。疲れてるでしょ」
「いや、寝ないよ。冗談だよ。朝まで起きてるって言ったじゃないか」
あなた、本気なの?朝まであとどのくらいあるか分からないけれど。
「そうだったわね。じゃぁ、待ってて」
「ああ」
バスルームの鏡の前に3つ4つ、小さいボトルが置かれている。化粧水かしら。好奇心からそのうちの一つを手に取った。ポルトガル語とフランス語しか書かれていないからなんだかよく分からないけれど、きっといつもここにあるもので肌や髪の手入れをしているのね。あのいい匂いの秘密がここに詰まっているんだ……
シャワーキャップが見当たらないから髪に水が当たらないようにシャワーを浴びるのが難しい。数年間伸ばした長い髪は気に入っているけれど乾かすのが面倒だ。切ろうかな、伸ばそうかな。ずっとそれを行ったり来たり。私はどっちが似合うんだろう。そうだ、ルーマニアに行ったころには赤みがかった茶髪に染めていたんだっけ。本当は真っ赤に染めてみたいけれど店では派手な色は禁止だからなぁ。店に来る客は清純そうなルックスの女を求めているし、真っ赤に染めたら店長やスタッフに明日から来なくていいよと言われるか、今から美容院に行けと言われることだろう。ああ!バカみたい。けれど生きていくためにはそれも仕方がない……自由を手に入れたはずなのに、完全には自由になれないんだなぁ。
鏡の前で身体を拭いて……私はタオルを巻いて部屋に戻るわけにはいかない。服を着なきゃ。まつ毛に水滴が付いているーーそっと指で拭う。ウォータープルーフのマスカラでよかった。
ワインを飲みながらトライアルを見ているジョゼさん、私に気が付いて振り向く。
「おや、服着ているのかい」
「あ、うん……」
やっぱりおかしかったかな、この格好。
「君はいつも服を着たまま寝るのかい?」
もう、またそんなこと言って。答えに困るじゃんねぇ……。
「ううん……けど、朝まで寝ないんでしょ?」
「そうだよ」
そう言ってまた、腕を組んでいたずらっぽく笑っている。
ああ、本当にあなたには敵わない。敵いやしない。私がいくら憧れたところで、あなたみたいになりたいとどんなに願っても無理だ。逆立ちしたって敵わない、足元にすら及ばない。けれど私がもし生まれ変わることがあったりしたら、あなたのようになりたいの。
ああ、そうだった。こんなこと、昔にも思ったっけ。昔……?9年前かな。うん、昔だな。もう9年も前だから……。初めての海外旅行、17歳、ニューヨークでね。私は生まれる場所も時代も間違えたけれど生まれ変わるならばジム・キャロルのような文武両道の長身の美男にってーーそう。私は舞台装置だけには恵まれたかったの。この世に生を受けたくはなかったけれどもせめて時代や国、生まれつきの見た目だけは私が望むように用意してくれりゃよかったのにってさぁ……内面はどうにかして自分で磨くから、さ。私は世紀末のウィーンかベル・エポックのパリ、狂騒の20年代のニューヨーク、戦後すぐのヨーロッパか60年代のニューヨークのいずれかで青春時代を過ごしたかった。
けれどね、だけどね。あなたみたくはなれなくても、あなたになれなくても今夜だけはあなたに近づきたいの。いつかあなたは私の背中を撫でながら「この手に君を覚えさせてる」って言っていた……今夜、私もそうする。
ジョゼさんの腕をじっと見ていたら、私たちが飲んでいるこのワインは二人、同じように体内を流れて循環するんだろうなぁ、なんて思った。ハ、なんだそれ。身体が熱い。血管にワインが流れる……