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雷雨の翌日にわたしは生まれた(仮)<216>

OPIUM

急いで部屋に戻りたいのにまたエレベーターがなかなか来ない。本当にツイてないなぁ。今日の牡羊座の運勢は下の上くらいで「急がば回れ」といったところだろうか。占星術なんて信じてないけどさ。私の運の悪さは運命じゃなくて半分以上が人災だと思っている。ん?運ってのは人の力ではどうしようもないことか。まぁ、とにかく私のツイてなさは折り紙つきだし、人を見る目もなければ、そもそもこの私、自分自身がろくでなしだ。ああ、でも今夜はこれからあのひとと会えるんだもの。ツイてない人生でもいいじゃないか。ツキのない人生にキラリと輝く星がいくつかあって、それを結んで新しい星座を発見出来たら私が生きてきた意味があるってものだ。

私の部屋は整っていて綺麗だけれどまだほんの少し煙草の匂いがする。あのひとは気にしないかも知れないけれど私が気になる。あ、煙草を買うのを忘れたし灰皿をもらうのも忘れている。

しかしどうしてあのひとはロビーで待っててなんて言ったんだろう。ロビーで待ち合わせなんかしたら土田さんやツアーメンバーに出くわしてしまうかも知れないじゃないか。夜遊び組の女性や宮本さんご夫妻ならともかく、土田さんには出来れば、いや、絶対に見られたくない。ポルトガル人の考えることはよく分からない、そういうことにしておこう。

10時半にロビーで待ち合わせ。あと30分もない。ああ、ドキドキする。あと1時間もしないうちにこの部屋であのひとと一緒にいるのか!軽くシャワーを浴びてから化粧を直す。

あ、あのひと、どうやってここまで来るんだろう。会社からここまでどのくらい掛かるのかしら。ちょっと距離があると言っていたけれど、ちょっと、ってのはどのくらいなのか。ポルトガルのタクシーは安いらしいけれどあのひとにお金を遣わせてしまうのは嫌だな。ああ、あのひとがバスやメトロや路面電車ーー公共交通機関を使う姿が想像出来ない。切符を買って、つり革を握っている姿をさ。それに明日は早い。すごく早く起きて寮まで戻るのかな。なんだか申し訳ない。でも来てくれるんだ……どうにかして。

綺麗に装って綺麗な部屋であのひとを迎えたいのにワインもなければ煙草の匂いもする。消臭剤を貸してもらえないだろうか。灰皿と一緒に持って来てもらおうか。

あ、そうだ!「マデイラの夜」……!
スーツケースから青い箱を取り出してシュッとひと吹きすると部屋はたちまち爽やかだけれどあのどこか懐かしい香りでいっぱいになった。マデイラには行ったことがないというあのひとにマデイラの風をおすそ分けしよう。

ああ、そわそわする。落ち着かない。煙草を吸いたいけれどせっかくの「マデイラの夜」が台無しだ。いや、リスボンの夜かな。リスボンの夜を香水にするならどんなだろう。テージョ河と赤茶色の屋根の家と路面電車、それにファドを思わせるような匂いって。少しだけ甘さが感じられるけれど嗅ぐと泣きたくなるような切なさ、かな、リスボンの夜の香りって。身に纏う人を選ぶけれど、一度嗅げば絶対に忘れられず虜になってしまう危険な香りに違いない。

実は香水を化粧ポーチに忍ばせているーーどこかの免税店で買ったイヴ・サンローランのOPIUM。私が生まれた年、77年に発表されたアヘンという名の危険で……この上なくエキゾチックでたまらない妖艶さのある香水。だけどこの旅ではツアーメンバーに迷惑になるかと思ってつけることはなかった。この香りが似合う女に私はなりたい。色香のある女にね。

ああ……「マデイラの夜」ではなく「アヘン」をひと吹きすればよかった。でももう遅い。マリリン・モンローは「ベッドではどんな服を?」と質問され「シャネルの5番だけを纏っているわ」と答えたのはあまりにも有名だけれど、私は「アヘンを嗅ぎながら眠りに就くの」って……。けれど今夜は独りじゃない。マデイラで買ったジョニーウォーカーを飲んで、「マデイラの夜」に包まれてあのひとと一緒に眠るの。眠らなくたっていいんだけどね。朝まで一緒にお酒を飲んで、話してさ。けれどあのひとが寝たいというならそうしよう。私はベッドに寝ころんでこの旅を反芻しながらあのひとの寝顔をたまに見るだけでいいの。そう……誰がが隣にいるのにぐっすり眠れるのは気を許しているか、よっぽど疲れているからだと思うから。

「マデイラの夜」をいつかまたどこかであのひとが嗅ぐことがあれば私のことを、今夜のことを思い出すことがあるかしらーーああ、やっぱり「アヘン」をひと吹きすればよかった……「アヘン」は私そのもの……。

ああ、アルブフェイラで朝まで一緒に過ごしたとき、あのひとは寝ぼけている私の背中を撫でて「君をこの手に覚えさせてるんだ」って言ってたっけ。

「僕のこと、忘れない?」
「忘れないよ」

忘れるわけないじゃないの。今宵きっと、それを私は否応なしに再確認させられる。きっと、ずっと一生、棘が刺さったまま。あのひとの体温と整髪料とコロンの香り、いたずらっぽくウィンクする薄いグリーンの瞳、話したことを忘れっこしやない。ああ……ジェームス・バリーの名言を思い出す。

「神は記憶を与えて下さった。それは人生の辛い冬の時期に、6月のバラを思い描けるようにするためだ」

記憶ってやつは残酷だ。忘れたいことですら脳裏にあって、ふとしたときに思い出してしまうんだから。サン・ヴィセンテ岬やロカ岬で咲き乱れていたマツバギク、死ぬまで記憶に残るじゃない。棘はなくとも色や匂いや情景は忘れることはない………..。

子供の頃、『木枯し紋次郎』の再放送をボーっと母と観ていた。
「おめえさんのことは思い出しもしねえが、忘れもしやせん」
当時は話をあまり追えないどころか人の機微なんて理解出来なかったけれどもそのセリフだけは強く印象に残っていて、大人になって再び観たときにはたまらず涙が頬を伝った。

ああ……この感覚、感性って日本人特有のものじゃないような気がする。
「サウダーデ」ってやつはポルトガル人にしか理解出来ない感情、心の動きとはいうけれど、それと同じじゃないかしら。私のことなんてあのひとは思い出しもしなければ忘れてもしまうかも知れないけど。

あ、少し早いけれどもう時間だ。ロビーに行かなくちゃ。また鏡を見て化粧を少し直して、「マデイラの夜」がほんのり香る部屋を後にする。