雷雨の翌日にわたしは生まれた(仮)<202>
fiction romance
バスの前にはもうツアーメンバー全員、みんなが集まっていた。多分。
「ミホちゃん、またお散歩でもしてたの?」
「ええ。ブラブラしたりジェロニモス修道院の写真を撮ったりとか……」
「屋上からの眺め、すごく良かったわよ。ずっと遠くまで見渡せて、今、リスボンにいるのねって実感して妙に感激しちゃったわ……」
「私、高所恐怖症なんですよ」
「そうだったわね。マデイラのケーブルカーも怖がってたものね」
マデイラか……随分と前のことのような気がするけれどあれはたったの24時間と少し前だということがにわかに信じられない。
リスボンは7つの丘の街と呼ばれている。それは起伏が激しく急な坂道ばかりだからだけども今回の旅では街歩きをすることが叶わないのが残念だ。
諸説あるものの、どうしてこの街が「7つの丘」から成っているのか私は知っていた。子供の頃からギリシャ神話が好きだから。
トロイア戦争で大活躍した英雄オデッセウスは妻の待つ故国に帰還する途中で流れ着いた島で出会った女神カリュプソーと7年間一緒に過ごして子供ももうけたけれど、毎日泣き暮らすオデッセウスの姿を見たカリュプソーはもう彼を解放してあげなくてはと航海に必要な道具や立派な衣装、食料まで用意して見送った。カリュプソーは悲しみから蛇になり、オデッセウスが建てたというこの街に巻き付いて……。オデッセウスを愛し献身的に世話をして不死を与えることまで約束したのに、可哀想なカリュプソー……一説によれば蛇になったのではなく自殺したとも言われている。
ああ、土田さんがあんなことを言ったものだからそんな話と重ねて自分が悲恋の恋愛小説のヒロインにでもなった気分でいるけれど私はカリュプソーじゃなければあのひとはオデッセウスでもない。たまたま出会った男と女がたまたまあんなことになってしまっただけ。これは愛でも恋でもない。あえてこれを恋だの愛だのということにするならばクラブでよくかかっていたティナ・ターナーのあの曲、What's Love Got To Do With It……それって愛と関係あるの?ってね。
愛だの恋だのアバンチュールだのはともかく、やっぱり私、あのひとのことをどう思っているのか自分でも分からない。けれど私はあのひとと交際したいなんておそらく、思っていない。いや、おそらくじゃない。さっきから妄想ばかり膨らませ、考えても仕方のないことばかり浮かんでいるけれど、これだけは私の中ではっきりしている。なんというか、半年、ううん、一年に一度くらいどちらともなく連絡して今夜会わないかと誘い誘われて朝まで一緒に過ごし、また一年後くらいに電話が来るような……恋人、愛人、友人のどれでもないけどどれでもあるような、そんな関係というか対象というか……ああ、やっぱり私はおかしいな。けれど一年に一度くらい会うそんな関係の人が3人くらいいればいい、それが理想だと思うことがたまにある。本気だとかそうでないとかお互い考えることも問うこともせずに、普段どうしているかと詮索することもないけれど逢ったときには楽しく過ごしてさ。ああ、ある意味、それって愛に似ているような気がしないでもない。私は愛なんて知らないけれどね、そんな関係でも軽いというわけじゃなく、当然重くもないけれどいなくなってしまったら悲しくて……そう、こういう関係というのはお互いを尊重しているからこそ成り立つのだと思うーーああ、これとあのひと、どう関係あるの。
「家族を一番愛している」とあのひとは土田さんに本当に言ったのだろうか。分からないなぁ。なんだか少し覚めてくる自分に気付く。重い女だと思われているならばあのひとを怖がらせているであろう自分が嫌で仕方がない。だけどもそれなら思わせぶりにウィンクをしたり今夜どうにか抜け出して私に会いたいだなんて言うのはどうして?これがお互い、遊びだってこと、あなたは分かっているでしょう……?家族がいるのに異国の、客の女の部屋に泊まりたいなどと言って私を困惑させた人が今頃になって一番愛しているのは家族だなんて発言をするのは少し変な気がする。しかも私に直接言うのではなくて土田さんになんて。もう私に関わりたくないならば会いたいだなんてどうして言うの……?君はただの遊び相手だよと分からせたい、だけど今夜また私と枕を交わしたいってことなのね。うん、それでいいの。私もそうだから。でもなんだかちょっと疲れてしまった。今夜会えたら嬉しいけれど会えなくてもいいし、昨晩のように寂しくなんてならないから。
ジョゼさんが現れ、バスの鍵を開ける。ツアーメンバーが乗り込む。こんないつもの光景、もうこれで最後なんだなぁ……。
「ベレンの観光はお楽しみいただけましたでしょうか。これからアルファマ地区へと向かいます。昨晩みなさまはファドをご鑑賞いただいたとのことですが、ファドはここ、リスボンだけではなくコインブラのファドというのもございまして、あちらはリスボンのとは違って男子学生が意中の女学生に向けたセレナーデのようなものや学生生活をユーモアたっぷりに歌い上げた陽気な曲調が特徴です。リスボンのファドはちょっと重苦しかったという方は是非、またポルトガルに来たときにコインブラでファドを聴いてみてください」
コインブラも素敵な街だった。ポルトやリスボンよりずっと狭くて都会の喧騒も感じられなかったけれどちゃんと「街」なのが気に入った。いつかコインブラのファドも聴いてみたいな。
まだ日が暮れそうにないリスボンを車窓から眺めるーーやっぱり私はこの街が好きだ。白と黒のタイルの路を黄色い路面電車がゆっくりと走るこの街は雑多な人々で賑わっていてみなそれぞれの夕刻を過ごしている。あのひとのことなんて最早半分どうでもよくなっている。私はリスボンが、ポルトガルが好きだ。たとえあのひとと出会うことはなかったとしても私はこの国を好きになっていたと思う。ここは私の第二の故郷。
アルファマに到着。イスラーム時代の面影を残す入り組んだ細い路地を歩く。魚を焼く匂い、ボール遊びをしている少年、井戸端会議をしているおばあさん…….ああ、頭上に沢山の洗濯物がはためいている…….
伊勢佐木長者町の駅で見たポスターの風景、きっとここだ。ここに違いない……