雷雨の翌日にわたしは生まれた(仮)<217>
愛撫
ああ、どうしてまたエレベーターがなかなか来ないのか。もう知らない。だけどあのひとを待たせるわけにはいかない。どうにか抜け出してくれて、これから秘密のデート、ランデヴーだから。危ない恋ほど燃え上がるってやつ……?ああ、分からない。アバンチュールなんてこれまでしたことがないし。
ランデヴー、アバンチュール。フランス語ってやつには魔力がある。まともにフランス語を聞いたことなんてないんだけど。あ、なんの本で読んだんだっけな、忘れたけど「ドイツ語は軍人の言葉、スペイン語は神の言葉、フランス語は恋の言葉」ってね。じゃ、ポルトガル語は…….?
エレベーターを降りてロビーにに行くと人がまだ沢山いる。ああ、良かった。リスボンの夜はこれから。でもあのひとはまだ来ていないようだ。早く来てよ。ランデヴーを誰にも見つからないように、邪魔されないように。
ソファーに座って一服する。聞こえてくる色んな国の言葉が心地いいけれどどうしても周りの目が気になってキョロキョロしてしまう。なにより、誰より、土田さんに会いたくないしね。でも彼女のことだから気を利かせて部屋から出ずに仕事を片付けているのかもなぁ。ああ、本当に長すぎる一日だ。
落ち着かないままずっとドアの向こうを見ている。あのひとが現れたら席を立って話し掛けようか、それとも私に気付くまでこうしていようか……もう一服しよう。
もうあとわずかで約束の時間。もしかして来てくれないなんてことはないよね……?誰かを待つのは苦手だ。もう、待たせないでよ…….
10時半を過ぎた。ああ、どうして来てくれないの?どこかで足止めされてるのかな。それとも道中で具合が悪くなっちゃったとか?誰かを待っているのに時間を過ぎても現れないとき、なんで来ないの、私はこんなに待っているのに!と思うのは自分本位で愛情に欠けた人だって誰かが言ってた。事故にでも遭ったんだろうか、心配だな、と思うのが愛なんだってさ。愛なんて私にはやっぱり分からない。分からなくもないけどさ、私はただただ、今夜あのひとに会いたい、それだけじゃダメなのかな。私はあのひとが来るまでここで待ってることしか出来ない。どんなに遅くなったっていいの。来てくれさえすれば。ああ。来てくれなくてもいいよ、とは思えない私はやっぱり自分勝手なんだろうか……?
ドアを見つめながら3本目の煙草に火を付けようとすると、さっきとは別のスーツを着たあのひとが颯爽と歩いて来る……ああ………..。
思わず席を立つと目が合った。
「セニョーラ、ゴメン、待たせたかい?」
「ううん」
いつかどこかで見た赤いキャンバス地のバッグを手にしている……重たそう。たった一晩、数時間だけなのに随分と荷物があるのね。
「じゃ、行こうか?」
「ええ」
ああ、私の知っている誰にも会わずに済んだ。もはや、見られたって構いやしないんだけれど。
二人でエレベーターを待つ。幸いにしてすぐ来て、見知らぬ人たちが沢山乗り込んだ。
「2」のボタンを押そうとすると
「deux?」と金髪の紳士。
「Oui」
ジョゼさんと私が同時にそう答えた。咄嗟に出たフランス語。ジョゼさんが私の腰に手をやるものだからドキドキしてたまらない。ああ、私の部屋が2階だってことは覚えてたのね……。愛とか恋とか火遊びだとか、そんなのはどうだっていいの。今夜、一緒に居られるのが嬉しいんだから。
エレベーターを降りて、廊下を歩く。
「ここ」
ジョゼさんは「ん?」という表情でドアの禁煙マークを指差した。
「ああ、いいの。クニコがいいって言ってた」
「そうかい?」
ドアを開けるとほんのり「マデイラの夜」の香りがする。
「いい部屋だね」
「そう?」
「うん。僕の寮の部屋よりずっといいよ、比べるまでもないけどね」
「あなたの部屋、ルームメイトと一緒なの?」
「そう。鼾がうるさいトニオって奴とルイスっていう口から生まれたような奴と一緒。ルイスはベンフィキスタスでね、ベンフィカが負けると機嫌が悪くなって困っちゃうんだよ。そんなときはロクに眠れやしない」
ああ、このひとがこんな、普通の、日常の話をするなんて……なんだか、さ。
「フフ……じゃ、今日はゆっくり眠れるかしら?」
「いや、寝かせないよ」
ああ、なんてこと言うの。あなたって本当に危険な男。痺れちゃうじゃないの。私たちは母語じゃない英語で会話をしているから本当のところはどういう意味で言ってるのか分からないけどね。
「……あ、ご飯、食べた?」
「うん。本当はセニョーラと一緒に食べたかったんだけど、どうしても抜け出せなくて寮で食べたんだ。ゴメンよ」
「気にしないで。来てくれただけで私は嬉しいんだから…..」
きつく、きつく抱き合う。
「あ、なにか飲む?これしかないんだけど……」
テーブルの上に置いたマデイラで買ったジョニーウォーカーの小瓶を指差す。
「あ、それもいいけどね。いいものを持って来たんだよ」
「あら、なぁに?」
赤いバッグから取り出したのはポートワイン。
「君を待たせちゃったのはこれを買いに行ってたからなんだ」
そう言ってウィンクをするあなた……本当に粋なひとね。私、あなたをこれ以上好きになりたくはないのに。好きになっちゃいけないの。あなたを。
「ポートワインは僕の生まれ育った街のワインだよ。僕がポルトの出身だって、ポルトに家があるって君は知ってるんだろ?」
「一番愛しているのは家族だ」って、あなたは土田さんに本当に言ったの……?けれどそんなこともどうだっていい。
「うん、知ってる」
「ポルト、好きかい?」
「うん、リスボンと同じくらいね」
ちょっと意地悪かな、この答え。
「僕は一番、ポルトが好きだけどリスボンもいい街だ。リスボンはなんだかホッとするんだよ。僕は都会が好きだから」
ああ……私と同じね。
「ヨコハマ、って聞いたことある?日本ではトーキョーの中心部の次に人口が多い街なんだけど。私はそこで生まれ育ったの」
「ああ、聞いたことあるし、港の写真も見たよ。綺麗な街だよね。行ってみたい」
「あなた、アジアには行ったことないって言ってたわよね」
「うん。けどね、いつか君に会いに行くよ」
もう、なんなの、この色男は。会いに来るなんてこと、多分あるわけがない。でもね、嘘でもいいの。嘘すら愛おしいの、今夜は。
ああ、色恋の詐欺師ってのは半分は本気だから相手を信じさせちゃうんだってね。騙してお金を取ってやろうと思ってはいるものの、少しくらいは惚れてるんだってさぁ。搾取が目的でも全然好みではない女は抱けないってね…….本当かしら。
「セニョーラ?どうしたの?僕、なんか変なこと言っちゃったかい?」
「ううん……」
「じゃ、飲もうか」
「うん」
ジョゼさんが器用な手付きでポートワインを開けて、ウィスキーグラスに注いだ。この部屋にはワイングラスがないから……。
「サウージ」
「サウージ、再会に乾杯!」
粋な仕草で煙草に火を付けるジョゼさん…….あ、灰皿をもらうのを忘れたし煙草を買うのも忘れた。
「煙草買いに行こうかなぁ。もうこれだけしかないの」
「じゃ、僕のを吸えばいいよ」
「いいの?」
「うん。僕もヘビースモーカーだからね、いつも何箱か持ち歩いてるんだよ。ほら」
バッグからSGを二箱取り出した。
「ありがとう、オブリガーダ」
「オブリガトウ、アリガト」
「日本語、上手だね」
「君はいつも僕をからかうね!意地悪だよ。あ、そうだ。君、『今度会えたらポルトガル語で話したい』って言ってたよね?再会したから、ポルトガル語話してよ」
「え……ちっとも分からないよ」
「そうなの?じゃ、なんでもいいから君の知ってるポルトガル語言って」
料理の名前を次々に口にする。
「それだけかい?」
腕を組んで笑っているジョゼさん。
「じゃぁ、教えてよ」
「嫌だね!次会えたときまでの宿題にするよ」
ああ、もう会えることなんてないって分かってて言ってるのよね。意地悪はどっちなのよ。だけどいいの、今はいいの。
♪愛さないでね 愛してないから……Touch me,touch me,touch me through the night……触れれば触れるほど遠ざかる身体……Lonely night,lonely night……
中森明菜の曲が流れて止まらない。
だけど朝まであなたの体温を感じながらベッドで一緒に眠るのーー眠らなくたっていい。哀しい嘘がひとひら……嘘でもいいの。
「セニョーラ?」
「うん?」
「もう酔っちゃったかい?」
あなたに酔ってるの、とは言えない。ポルトガル語でね。日本語か英語でなら言えるけど……ううん、そうじゃないの。私は今、あなたの魅力に屈してるって言ったらあなたは困っちゃうだろうから……。
「ううん」
「じゃ、飲もう」
「うん」
「サウージ」
「サウージ」
「あ……灰皿、ないの?」
「そうなの。この部屋は禁煙だからね。灰皿もらうの忘れちゃった」
「じゃ、グラスを灰皿代わりにしよう」
「いいのかなぁ……」
「水を入れれば大丈夫だよ」
「そうだけど、グラスを灰皿にしていいのかなって」
「いいよ。もしなにか言われたらグラス代は僕が払うから」
バスルームから水を注ぐ音が聞こえてくる。
「お待たせ、セニョーラ」
私の肩を抱く両腕……
「まだ夜は始まったばかりだよ。飲むだろ?」
「うん」
「あ、もう空になっちゃったね。ジョニーウォーカーを飲もうか」
「……うん」
「セニョーラ、僕は君が好きなんだ。信じてもらえないかも知れないけど……」
嘘でもいい。所詮、男女の関係なんて化かし合いじゃないか。
そんなことを考えていると灰をジョニーウォーカーの入っているグラスに落としてしまった。
「Oh!クレイジーガール!」
「そうよ、私はクレイジーなの」
「うん、これを飲み終わったらシャワーを浴びるよ」
「うん、そうしましょ」
「けどね、朝まで寝かせないからね」
ジョゼさんはまた、いたずらっぽく薄いグリーンの瞳の片方を閉じた。