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雷雨の翌日にわたしは生まれた(仮)<129>

では、また

久しぶりに会った勲さんの第一声は
「真っ当な服、着てるじゃんか」だった。
真っ当な服ってなんだろう。私、勲さんと会っていた頃、そんなにおかしな身なりをしてたかしら、と思った。

関内駅近くの雑居ビルの地下にあるレストランに連れられて行った。通されたのは2人じゃ広すぎるくらいの個室。壁にやたら「銀河高原ビール」のポスターが貼ってある。
「あ、そうだ。レイちゃんはビールは飲めないんだっけ?けどここは他の飲み物もいっぱいあるから。遠慮なく好きなもの頼んでね」
2年近く前、別れを切り出されたのはちょうどボジョレーの解禁日だった。それを無言で二人で飲んで、あくる朝私は寒く暗い駅のトイレで泣いて、気が付いたら成田に飛行機を見に行ったんだっけ……。

「元気そうでなにより。いやぁ、今日は会えて本当に嬉しいよ。来てくれないんじゃないかと今日も仕事しながらずっと不安でね」
そういえば、勲さんはなんの仕事をしている人なのだろう。わずかの一応の交際期間中もずっと疑問に思っていたけれど、そんなことはちっとも大したことじゃないと訊くことはなかった。

「私、4日後にロンドンに行くんだよね」
「え、それはまた!レイちゃんは海外が好きだったもんなぁ。けどこんなご時世、危なくないかい」
「死ぬ時は死ぬ時だよ。けど私は悪運強いから大丈夫」
「……ロンドンへはなにを見に行くんだい?なんでロンドンに行くことにしたの?」
本当は東欧に行きたかったけれど、初の一人旅はその予行演習のつもりで日本から直行便があって、高校の頃に憧れていた街だったからなんとなくといったところだった。
「ただ、なんとなくだよ。思いつきってやつ」
「思いつきでロンドンまで行っちゃうレイちゃんのバイタリティーがすごいよ。本当、若いよなぁ。僕は行きたくても時間もお金もないしね」
時間もお金も、か。確かに私には時間はある。けれどそれは真っ当な職に就くことを諦めたからだ。
「……どうしたの、急に暗い顔して。まぁ飲もう、乾杯」
ワインの美味しさも分からないけれど、ビールはもっと好きになれそうにない。私はいつかどこかで誰かと一緒にお酒を飲んで美味しいと思うことがあるのだろうか。

「ロンドンかぁ。バッキンガム宮殿とロンドン塔しか思い浮かばないよ。あとなにがあったっけ?」
「大英博物館、ナショナル・ギャラリー、テート・モダン……」
「美術館巡り?いいねぇ。フィッシュアンドチップスなんか食べて休憩しながら?ああ、我ながら貧困な発想だなぁ」
あ、思い出した。初めて勲さんのアパートにお邪魔した時、佐伯祐三展のチケットを2枚貰ったけれど結局行かなかったことを。
「勲さんも絵が好きだったじゃない」
「うん。しかしよくそんなこと覚えているねぇ、感心するよ」
私はワインを飲み干して、一呼吸おいてから訊いた。
「そういえば、佐伯祐三のチケットくれたの覚えてる?」
「……ああ、本当にレイちゃんは色んなこと覚えてるなぁ。実はねぇ……僕、公務員なんだよ。あの時は近代美術館に勤めててね。今じゃ何故か教育委員会なんかに回されちゃってるんだけどさぁ」
そうだったのか。あのチケット、2枚くれたのは私が誰と一緒にやって来るかという好奇心からだったかも知れないなと思った。この人はこういう妙なところがある。そこが少し気持ち悪くもあり、「若かった」私には少し魅力的にも映ったんだっけ。

食事を終えて外に出ると「真っ当な」薄手のカーディガンでは少し寒かった。
「ロンドンは今、もっと寒いのかな?」
「多分ね。でもちゃんと防寒対策するから大丈夫」
「風邪引くなよ~。それにくれぐれも気を付けて行って来るんだよ。まぁ、楽しんできて。お土産話期待してるからね」
「うん。絵ハガキ書くよ」
「じゃ、またね」
握手して改札で別れた。じゃ、またね、か。私はまた、この人に会うことがあるのだろうか。

3日後には機上の人だ。忘れ物はないだろうか。ないと思う。けれどなにかを忘れているような気がして横浜の東急ハンズの旅行用品コーナーを見てみたけれどもうおおよそ必要なものは揃えてしまったし、なにもない。次に本屋に行ってガイドブックを眺めたけれどなにも買わずに出た。初めてのヨーロッパ、初めての一人旅。楽しみなのだけれど、本当に、純粋に、旅というものを楽しみたくて行くのかよく分からなかった。仮初かもしれないが自由と時間と少しばかりのお金がある。旅に出たところでうるさくいう人たちももういない。そんな状況を実感したいだけなのだろうか、私は……。
けどそれでもいい。私はロンドンの街を歩く、見る、感じる。出来ればなにか楽しいことがあればもっといい。

寝る前に電子手帳を開くと、長年勤めていたパートの春山さんが退職するので送別会をするから是非来てくれないか、みんなも私に会いたがっているとマッキーからメールが来ていた。幸い、ロンドンから帰国する1週間後だったので喜んで参加すると返事をした。

眠れない。子供の頃、遠足が嫌で嫌で前日はロクに眠れなかったのとは違うーー興奮と緊張と期待が入り混じる、初めて知る感覚だった。