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雷雨の翌日にわたしは生まれた(仮)<197>

聖と俗

リスボンでは中心部の観光はせず、世界遺産に登録されているベレン地区と昨晩ファドを聴いたアルファマ地区だけを訪れる。たったの半日だけでは到底廻りきれるわけがないけれど少し寂しい。仮にも一国の首都、ポルトガル一番の街なのだからせめて丸一日は欲しいところだ。2週間という限られた日程で出来るだけ沢山の街や町、村、そしてマデイラ島を巡るのがこのツアーの特色なのだろうけれども。

シントラから30分ちょっとでリスボンに到着すると太陽は顔を出し青空が広がっている。雨に濡れるポルトの街はなんともいえない趣があったがリスボンは晴天がとびっきり似合う街だと思う。

やはり私は都会に来ると元気になる。ウキウキしてたまらない。昨日車窓から眺めた夜のリスボンも素敵だったけれど昼もいいじゃないか。ああ、今ここでバスを降り、自由気ままに歩きたいくらいだ。中心部からベレン地区を通る黄色い路面電車はテージョ河沿いをゆくらしい。いいなぁ、気持ちいいだろうなぁ。晴れて風が強過ぎないくらいに吹いているこんな午後に路面電車にのんびり揺られるなんて格別気分がいいだろうなぁ……。

ベレン地区に着き、ジェロニモス修道院の前でバスは停まった。これまでに何度かヨーロッパを旅して少なくない数の教会や修道院を見学したけれども入る前からここはなんだか他とは重力が違う気がする。栄華と没落の歴史のせい……?大航海時代にはポルトガルとスペインとが世界を二分してアジアや新世界の貿易を独占していた。えっと、あの条約はなんていったっけ。トルデリシャス…..じゃない、うっかり「デリシャス」とテストで書き間違えそうになった、トルデシリャス条約だ。いや、そんな小難しいことじゃなく、理屈じゃなく、とにかくここはなんだか違う。引き付けられつつも跳ねのけられるようで不思議だ。ああ、これも例の「神秘」ってやつなのかも知れない。分からないことは全部神秘のせいにしておこう。

「みなさま、お疲れ様です。ジェロニモス修道院に到着いたしました。中の見学前にこちらで少しご案内いたします。こちら、ジェロニモス修道院はヴァスコ・ダ・ガマのインド航路開拓とエンリケ航海王子の偉業を讃え、また新天地開拓の安全祈願のために16世紀初めマヌエル一世によって建立されました。ポルトガルの富、交易で得た莫大な利益を全てつぎ込んで……」

うんうん、ユミコさんの説明が今のところはすんなりと頭に入るのは高校の世界史の授業で習ったからだろう。あの頃の私はひょんなきっかけからアメリカ研修旅行に行って帰って来たばかり。中学時代からずっとイギリスに興味津々だったのにニューヨークの魔力にやられてしまってからは頭の中はニューヨークでいっぱいだったっけ。またすぐにニューヨークに行きたい、今度こそジム・キャロルのポエット・リーディングを聴いてみたい、CBGBでライブが観たい、ショットの革ジャンを買いたい……寝ても覚めてもニューヨーク、ニューヨーク、ニューヨーク……!幼い頃に憧れていた東欧やソ連……ロシアのことなどももう完全に忘れてしまっているくらいにニューヨークに夢中だった。今、私はユーラシア大陸の西の果て、ポルトガルにいる……ねぇ、信じられる?17歳、9年前の私!

あれ?さっきシントラのレストランで雇用確保のためにポルトガル人のガイドが必ず付く決まりだと土田さんは言っていなかったっけ?けれどそこら辺はいい加減だとも言ってたような気がするし、私としてもどうでもいいことだ。それにまたカルラさんみたいな意地悪そうな人が来てもちょっと嫌だし、ジョゼさんくらい素敵な人が来ても目移りしてしまう……これはまぁ、冗談だけどね。

修道院の外観の写真を撮ろうとしたけれど大きすぎてファインダーに全景が到底収まらない。とりあえず入り口だけでも撮ろうかなと思っていると先生に引率された社会見学中らしい子供たちが
「僕の写真撮ってよ!」「私も!」と無邪気に駆け寄って来たのでシャッターを切った。ブルガリアやルーマニアの田舎町でも学校帰りらしい子供たちが話し掛けて来てきたなぁ。

みんな、どうかこの世の悪や悲しみに出来るだけ触れることなく大人になって欲しい。私の無責任な願いだけれど……。
先生の後を付いていく子供たちに
「チャウ(バイバイ)!」と言うと振り返って笑顔で手を振ってくれた。ああ、泣きそうだ。こんな小さな出会いに泣けるくらいにはまだ私は純粋なのだろうか。

修道院の中、サンタ・マリア教会。椰子の木を模した柱が高い天井を支えている。船やロープなど海をモチーフにした彫刻があちこちに施されていて独特の雰囲気だ。触るとお金持ちになれるらしい、ドングリの部分だけやたらツルツルになっている。聖なる場所のこんな言い伝え、なんだか俗っぽくて好きだなぁ。あ、ブラガのボン・ジェスス教会でもそんなのがあったっけ。なんとかという聖人の像を三回廻ると結婚相手に巡り合えると言われたけれど……。
軽くドングリを撫でる。大金持ちにはなれなくてもいいから旅行をこれからもずっと続けられるくらいに稼げますように。

それからまた私は半分ボーっとしながらユミコさんの説明を聞いた。本当はしっかり聞きたいのにどうしても疲れすぎていてみんなの後をのんびりと付いていくのがやっと。さっきまでの不思議な感覚、重力だの引力だのはどこへやら。

金持ちになれなくてもいいし、結婚だってしたくない。この瞬間の私の望みはこの旅がずっと記憶に残るような素敵なものになるようにということだけ。そんなささやかな願いを叶えてくれるような像や彫刻はここにあるのかしら。もしあるのならば頬ずりしたいくらいだ……。