くそったれ!少年時代
ピチピチと暑いアスファルトの上をのたうち回る金魚、壁に叩きつけられて潰されたウサギ。
夏になるとなぜだかそんなことばかり思い出してしまう。
私と妹、母が出て行くとき、怒った父は、太陽に焦がされて鉄板の様になった地面に、水槽の中身を全てぶちまけた。
車に乗っていた私達にはどうする事も出来なかった。
タイヤが金魚を踏み潰す、嫌な音を聞きながら、私は目を瞑り、唇を噛み締めるしかなかった。
正直言って、私はこのときの出来事をつい最近まで忘れていた。
私は本気で辛かった事はすぐに記憶の奥底にしまい込んでしまい、心の傷は、よくわからない癖としてだけ残る。
例えば、本当に怖い思いや嫌なことがあると、私はアスファルトに打ち付けられた金魚のように、ただ口をぱくぱくするだけで、言葉が出なくなる。
小学生のとき、私は飼育係だった。
私の学校の生徒たちはほとんどがめちゃくちゃな家庭で育っていた為か、小動物をいじめるやつが多かった。
私は授業も受けず、飼育小屋に立てこもって、小動物をいじめるやつを、アルミの皿で血が出るまでぶん殴ったり、コンクリートのブロックを投げつけたりして追い払っていた。
ジェロという地元のヤンキーも、潰した空き缶から出る煙を吸ったり吐いたりしながら座り込みをしてくれた。
*
ジェロはプッシャーをやっていて、地元では評判の悪い男だったが、登下校中に私を肩車してくれたり、とにかく優しかったし、私はパパと呼んでいた。
ジェロはどんな時でも金属バットを持って助けに来てくれた。
私はジェロにプロポーズするほどジェロが大好きだった。ジェロは「ゼクシィ買いに行くか〜」とおちゃらけた返事をしてくれて、私はそれで満足だった。
ジェロの不良グループは、ネグレクトで親が帰ってこない子の家をヤサにしていて、ヤサは毎日煙草とはべつの煙の匂いと、爆音の90年代ヒップホップに包まれていた。
ジェロはある日、少年鑑別所に送られたという噂を聞いたっきり、町に戻ってくる事はなかった。
ジェロがいなくなってからは、私は髪をコーンロウから元のリーゼントに戻した。
*
そんな中、もう貧乏で買えないからと、誰かが飼育小屋に小汚いウサギを連れて来た。
当時、養護施設に預けると何度も父親に言われていた私は、ウサギの境遇に酷く共感した。
ウサギは目が爛れていて、膿が垂れていて、毛並みも悪いし、明らかに病気だった。
しかも、彼は他のウサギと仲良く出来ず、常に喧嘩して暴れ回っていた。
どこかブコウスキーを思わせるウサギだった。
学校の先生も、流石に飼育小屋に置いておくわけにはいかないと思ったらしく、「誰か飼える人はいませんか」と全校朝会でアナウンスがされた。
私はブコウスキーを引き取る事にした。
母はうちの経済状況から考えても、ウサギは幸せになれないと言って反対したが、父親は意外にもすんなりと承諾した。
それが間違いだった。
父親がウサギを引き取る事を承諾したのは、ブリーダーとして、雌のウサギを買い、繁殖させれば金になると考えたからだった。
父親が買ったウサギは、血統書つきの綺麗な白いウサギで、よくなつくかわいい子だった。
名前はモコになった。
父親が無理な繁殖を繰り返したせいで、モコは最終的に死産がきっかけで亡くなった。
子供だった私はどうする事も出来なかった。
私は私の倍の体格もある父親に立ち向かう事は出来なかった。
そのときの光景はいまだに忘れる事が出来ない。
臍の緒が繋がったままの胎児とともにぐったりとしたモコを、必死の思いで動物病院に運んだ。
モコの小さな息が聞こえなくなる瞬間を私は胸が張り裂けそうな思いで見つめていた。
私は何日も何日も泣き続けた。
実はモコは生きていた、と言う夢を何度も見た。
起きて空っぽのケージを見つめては絶望した。
何ヶ月もひたすらそんな毎日を繰り返し、私はカッターナイフを肋骨のあたりにブッ刺し、病院で三針縫った。
父親には殴られた。
ブコウスキーは親父のことが大嫌いで、父親が帰ってくるたびに怒って足を踏み鳴らした。
親父がいないはずの日に、親父の部屋から音がするので、見てみたらブコウスキーが親父がいつも座っている位置に座っていた。
しかも親父の布団に小便までかけてマーキングもしていた。
まるで「一家の主人は俺だ」と言っているようで面白かった。
母も妹も、ブコウスキーのそんなタフな態度に喜んでいた。
父親が触ろうとすると、めいいっぱいの力で父親に噛みついた。父親の親指から、血が流れた。
クソ親父は壁に向かってウサギを叩きつけた。
ブコウスキーはそのせいで骨折して半身不随になり、寝たきりになったが、父親が来ると威嚇するのはやめなかった。
私は父親が帰ってくるたび、ブコウスキーに覆い被さる様にして守った。
あのウサギはパンクだった。
父親は、子ウサギをよくわからない成金のクソみてぇな家族に売り払った。
結局その子ウサギ達は劣悪な環境で育てられ、最後はそいつらが飼っていた高級な犬に食い殺されて死んだ。
私はそいつらの豪勢な家の前を通るたび、放火してやりたい気持ちに駆られた。
どうせ未成年だし、やれば良かった。
父親を殺そうと飲み物に毒薬を混ぜたり、ガラスの破片を混ぜたりしたことはあるが、全て失敗した。
家では横暴で威張り散らしていた父だが、ジェロにぶつかってしまったときには怖くて二週間も家に引きこもっていた。
来世はウサギたちも私も、ジェロの様な強い男に生まれ変わったらいいのに、と思う。
そんなこんなで私は暴力的な人間になった。
ウサギに虐待をした話を笑ってした男の子を蹴り飛ばし、馬乗りになって髪の毛を引きちぎったり、道でネコをいじめていた男の子をバットで殴りまくったり、散々な少年時代を送った。
怒りに駆られると、相手が血を流すまで暴力を振るわないと気が済まなかった。
私が少年院送りにならなかったのは、田舎の閉鎖的な空間では、先生が竹刀やガラスのボトルで生徒を殴ったりするのが日常茶飯事で、先生たちは全面的に私の味方だったからだ。
殴られるような事をした方が悪い。喧嘩は負けた奴が悪い。そういう世界だった。
勉強は市からお金を貰って留学に行けるほど出来たし、一学年100人ほどだったが常に五位以内には入っていた。
しかも私は普段は明るい生徒で、授業中も良く笑いを取っていたし、友達も多く、怖がられてもいなかったし、問題視される理由がなかった。
東京の学生だったら確実に少年院送りだっただろうが、地元の警察も「まあ若者は喧嘩くらいするよね」みたいなテンションだった。
この間久しぶりに父親に会ったが、父親はへいこらするばかりで何の張り合いもなかった。
「お前が男の子だったら大切に育てた」
というのが当時の口癖だったが、最近になって「本当はそんな事思っていなかった」という内容の下手くそな手紙を何度も寄越した。
久しぶりに会った父は、明らかに私を怖がっている様子だったが、叔母に会ってその理由がわかった。
今の私は父の母親の若い頃にそっくりだったのだ。
親父の母は、父を虐待して育てた。
だから父は、自然と私の下手に回ってしまったのだろう。
負の連鎖としか良いようが無い。
私の人生の転機になったのは、高校生活だ。
私の入った高校は、偏差値は下から数えて二番目だし、これは後から聞いた話だが、脱走する生徒が多いため、高いフェンスが張り巡らされている県内でも最低ランクの高校だった。
あまりにも評判が悪かったため、素行の良い生徒を集めようと英語学科が新設された。
英語学科にはクソみたいに甘やかされたブルジョワのガキしかいなかった。
私はそこに英語特待生として学費免除という形で入学した。
ゆえに、貧乏人は私一人だった。
男物の制服を着て、ブルジョワの常識などわからない私は、クラスに全く馴染めなかった。
最初はのちにいじめの主犯格になる子達のグループにいたものの、同調圧力に嫌気がさし、学食はヤンキークラスのテーブルで食べる様になった。
家賃一万の団地に住んでいる事がバレてからは、とうとういじめられる様になった。
机の上に「死ね」と描かれたり、椅子に糊を塗られたり、鞄を捨てられたり、席がなくなっていたり、とにかくテンプレートないじめを一通りうけた。
席がなくなっていたときは教卓に胡座をかいて座ったり、いじめっ子に教科書を投げつけたり、はじめは抵抗していた私も、クラスに行くのがだんだん嫌になって行ったし、人と喋るのが苦手になった。
担任の先生はとにかく私の事が大好きで、良い人だったが、人の善意を信じすぎるところがあり、
「皆さん目をつぶってください。瀬川さんの持ち物に落書きをした人は正直に手をあげてください」
と言うあり得ない対応をした。
皆が目を瞑っている中、私は笑いを堪えるのに必死で大変だった。
誰が犯人かは私にはわかっていた。
落書き事件が起こった日の朝、明らかに一人だけテンションがおかしかったし、それまでにも何度もSNSなどを使った嫌がらせなどを繰り返していたからだ。
英語学科で騒ぎが起こっていると知ったヤンキーの男の子が仲間を引き連れて見にくる様になり、金持ちの子供たちは怯え出し、ついにその子は転校すると言い出した。
その子の言い分は「瀬川さんは怒ると何をするかわからないから。私が犯人だと決めつけているから」だったらしい。
担任の先生は私を信用していたので、笑いながらそれを教えてくれた。
勉強も別の部屋ですると言う処置が取られた。
私はその子に落書きの事は言わずに何度か話しに言った。
別に復讐するほどの事でもなかったし、私のその行動には特段意味はなく、単純に何を考えているか知りたかった。
その子が転校したあと、SNSで私の家を晒したりしていた子達の机を固めて、道徳のグループワークをさせるという処置が取られたが、もちろんいじめはなくならなかった。
私は五時間目登校をする様になった。
大抵は防波堤で寝たり、学校沿いの川辺でサイファーをしている子達にちょっかいをかけたり、ふらふらして過ごしていた。
保健室で寝ている事もあった。
保健室の先生は気のいいギャルで、私が来るとわかっている日にはミスドやスタバを用意してくれていたし、熱がなくても「瀬川さんは具合が悪い」と連絡してくれ、私はおやつを食べたり先生の恋愛話を聞いたりしながら暇を潰した。
先生がくれたかわいいボールペンは、いまだに大切に取ってある。
担任の先生も担任の先生で、私を家まで迎えに来たり、英検に合格したらチャップリンのDVD全集をくれたり、大分甘やかしてくれた。
興味の無い授業の間は、教室の後ろで二メートルのキャンバスに絵を描かせてくれた。
五時間目には国語の授業があるから、それだけは絶対に受けた。
国語の先生は私の事を「寅さん」と呼んで可愛がってくれた。
先生は、学校内でも一番厳しい事で有名で、とにかく人気がなかった。
先生には両親がいない。
夜間は死体をホルマリンのプールに浸ける仕事をし、特殊清掃、早朝から新聞配達、と、大分カツカツな生活の中で学費をため、立派な大学を卒業した。
そして、ほとんどの学生が東大・京大を目指す様なハイレベルな学校を定年退職し、この地獄の様なバカ学校の教師になった。
そんな先生だから、私は厳しい事を言われても素直に受け入れただろうが、先生はいつも「お前は頑張っている」と言ってくれていた。
先生は高倉健が大好きだったので、私は高倉健の作品を毎日観るようになった。
何にも成し遂げられていないから、先生に合わせる顔がないとずっと思っていたので踏ん切りがつかずにいたが、男はつらいよを見ていたら無性に先生に会いたくなって、思い切って先生に電話をかけた。
先生の第一声は「なんだお前は」だった。
何と説明すれば思い出してくれるか考えて、自己紹介を用意していたのに、声だけでわかったようだった。
受け持った生徒なんか正直何人もいるのに、先生は私の事を少しも忘れてはいなかった。
大学は辞めてしまったと言ったら、先生は大爆笑してくれた。
厳しい人生を歩んできた先生だから、怒られても仕方がないと思っていたけど、先生から返って来たのは、「俺はお前みたいなのに憧れるよ」という意外な言葉だった。
先生は来年で退職するらしく、偶然「男はつらいよ」が目に入らなければ、一生会えなかったかも知れない。
先生の「お前はまだこれからなんだよ」と言う言葉にもかなり救われた。
先生と久しぶりに話して、私は先生に会うのが怖かったから、去年の夏は親父に会いに行ったのだろうと言う事に気がついた。
父親に会うのは六年ぶり、先生と話すのは三年ぶりくらいだったが、断然懐かしい気がした。
話しぶりは当時と変わらず元気で安心した。
私は何かを勘違いしていたので先生に電話をする前に国語の教科書を読み返したりしていたのだが、先生は私の暮らしぶりや芸術活動の方を気にしていた。
先生はいまだに私が書いた作文や絵をとっているらしく、しかも生徒たちに配っているらしい。
私は作文についても何やら勘違いをしていたので、教科書をディスったり、でたらめなエピソードを書いたり、べらんめえ口調だったり、めちゃくちゃな事をやっていたので、あれが沢山の人に見られていると思うと恥ずかしくて仕方がないが、先生がそうやって認めてくれているのだと思うと嬉しい。
足の手術が終わったら、私は地元に帰ろうと思う。
先生とゆっくり釣りでもしながら、また昔のように映画や文学の話がしたい。
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