『バビロン』「黒人の真似をするな!」について考える/反体制的な芸術の意義
〈目次〉
・本編から読み解く人種差別
・カウンターカルチャーとしての芸術の存在意義
本編から読み解く人種差別
本作で一番印象に残ったシーンは、サウンド・システムを白人に破壊され、怒ったビーフィが「黒人の真似をするな!」と白人青年ロニーに頭突きをするシーンだった。
その後、主人公ブルーがロニーが一度止めた白人への攻撃を追行する事も、本作では大きな意味を持つだろう。
ロニーはずっと行動をして来た仲間であり、同じ労働者階級でもある。
しかし、同じ労働者階級であり、貧困に苦しんでいたとしても、立場が同じであるとは言えない。
ブルーと共に働くロニーがサボったせいで、ブルーは昼食休憩を貰えないとか、
「何でいつも俺ばっかり全部押し付けられるんだ!」と怒りが爆発したブルーが即解雇になってしまう所から見ても、黒人であるブルーの方が不当な扱いを受けており、ロニーはマジョリティであることの恩恵を受けていることがわかる。
隣人が苦情を言いに来た時に出て行ったロニーは
「うちのガレージに?まさか?黒人どもが?」
と冗談混じりに差別的な用語を口にし、黒人の仲間達もこの時は大爆笑している。
つまり仲間内で連んでいるときには、人種の垣根を超えている感覚が、両者共にあるわけだ。
隣人一家は差別用語を口にし、ボトルを投げてくる。
このとき怒ったビーフィが白人一家を刺そうとするが、ロニーは止める。
このシーンでも決定的な亀裂は生まれない。
しかし、ガレージのサウンドシステムが破壊された後、絶望するブルー達の前に、レゲエを口ずさみながらロニーが登場する。
この場面には理由はわからないが、私も何故だかイラっとしてしまった。
他の黒人の仲間達が何も知らずにふざけながら登場した時にはイラっとしなかったのに。
「お前も白人だ!あいつらと一緒だ!」と、怒りを爆発させるビーフィ。
「俺は人種差別主義者か?!」と叫ぶロニー。
そうだ。ロニーは人種差別主義者ではない。
むしろ、ずっと二つの人種の橋渡し的な存在であったわけだ。
しかし、どう頑張ろうと「当事者」にはなれないのだ。
その意識が、ロニーにはずっと欠けていたように思う。
ブルーは白人家族を刺し殺し、映画は「もう限界だ!」という叫びと共に終わる。
おそらく彼は警察に逮捕され、黒人達は今後も理不尽な暴力を受けるだろう。
どれだけ叫ぼうと、何も変わらないのだ。
そしてここ私がふと思い出したのはパティ・スミスの楽曲「ロックンロール・ニガー」である。
これは「ホワイト・ネグロ」と言うノーマン・メイラーのエッセイに影響されて書かれた曲だ。
パティ・スミスはこの曲でのニガーを「体制へ反抗する、社会に従属しない人々」と定義している。
パティ・スミスは勿論 "差別主義者" ではない。
最近ではBLMに参加したり、楽曲でも何度も貧困問題を取り上げたり、もともと恋人であったロバート・メイプルソープがゲイであることを自覚し、恋人ではなくなったあとも、メイプルソープのパートナーぐるみで交友関係を続けていたりする。
パティスミスは来日した際に原爆について、白人として謝りたい、という発言も残している。
そして、その際のスピーチで、英語しか喋れない事を謝罪している。
ここまで他者をリスペクトする姿勢をとれるロックスターは珍しい。
最近ではパティスミスは例の曲を取り下げ、ストリーミングサービスでは聴けなくなっている。
やはり、Nワードを他人種が使うのは当事者への意識に欠けた行為だろう。
ちなみにカート・コバーンは「ヒップホップを黒人から奪うな。ヒップホップは黒人のものだ」と発言している。
どこまでが「文化の盗用」になってしまうかはわからないが、ロックンロールもジャズも元々は黒人のものだ。
私たちがやるべき事は、彼らが置かれている状況や歴史を学び、リスペクトを絶対に忘れない事くらいだろう。
カウンターカルチャーとしての芸術の存在意義
カウンターカルチャー批判に、「芸術でどれだけ政治を批判しようが意味がない」「政治をやりたいなら政治家になれ」「結局は消費文化になるだけだ」というものがある。
それではカウンターカルチャーの意義とは何だろうか。
スカムの感想にも書いたが、反抗は、なにかを変える為だけにするものではない。
カウンターカルチャーの目的や真髄はむしろ「アイデンティティ形成」にあるだろう。
体制に従うしか無い世界の中で、自分達は何者なのか。
それを形成するのがカウンターカルチャーの意義ではないだろうか。
参考資料
パティ・スミスの「ロックンロール・ニガー」と「ホワイト・ネグロ」について
https://www.amazon.co.jp/White-Riot-Punk-Rock-Politics/dp/1844676889
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