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キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン/ 罪悪感と良心の限界

罪悪感は持てても、自分自身を断罪することは人間には不可能だ。そこに人間の良心の限界がある。


*今回はどちらかと言えば組織犯罪の一つとしてのヘイトクライムという視点で書いていこうと思う。   

*また、ネイティブ・アメリカン(アメリカ・インディアン)のカルチャーや、保留地の問題については問題が山積みであり、またどの視点から論じるのか、という問題もあるのでまた別の機会にしようと思う。


アーネストは道を間違った?



ウィリアム・ヘイル(デニーロ)のビジネスモデルは、明確に契約を交わしたり、組織化していないと言う点で、自警団的な存在だ。

そしてその「グレーゾーン」な存在が、主人公の善悪の判断を鈍らせてしまうポイントにもなっている。

ヘイルは表向きは善良な男で、病院や学校を作ったり、保留地で「慈善活動」を行っており、街の人々からもネイティブ・アメリカンからも信頼される存在だ。

常識的な善悪の基準を持っていなければ、そもそも組織犯罪をする人間のトップにはなれないから、こういう人ほど善行を進んでやるのは何もおかしな話ではない。

精神科医Anna Salterの番組に登場した1歳の児童を性的に虐待した犯人は

人を騙す一番良い方法は彼らを助ける事だ。何が欲しいのか、何を求めているのか、助けがいるのか、金がいるのか。そうやって相手の信頼を得るんだ」

と語っている。


彼の場合は完全なサイコパスだが、

罪悪感を一ミリも持てないほど、精神的なエラー抱えている人間などほとんどいない。

だから、ヘイルに流されてついて行く人間にとって、慈善活動は自分を納得させる為の一つの手段になり得る

手を差し伸べてくれる人は大切にした方が良い。

だが誰かに利用されない為には、簡単に人の手を借りてはならない、というのが難しいところだ。

差し出された沢山の手の中でどの手を握るのが正解だったのか。

全ては結果論でしかない

だから藁にも縋る様な思いで間違った手を掴んでしまった人を、責める事は出来ない。

ナチスによる人種差別が原因の虐殺を描いた、アラン・レネの映画『夜と霧』では、ナチスの将校が裁判所で「私は悪いことはしていない。ただ命令に従っただけだ」と語っている。

この映画から分かることは、ナチスの残虐性が彼らの異常性にあった訳ではなく、人間の性質に起因するものだと言う事だ。

Nuit et brouillard / 1956


アーネスト(ディカプリオ)がやった事もおなじだ。

映画をみていくと、彼等がやった数々の残虐な行為は、丁寧に道筋を辿っていけば私たちの日々の思想や倫理観から、そこまで逸脱したものではないことがわかる。

そこに人間の怖さがあるのだ。

だからもちろん、アーネストにははっきりとした罪の意識はない。

なぜなら、多くの人々と同じく、
自分の欲望もそれに至る道筋も見えていない彼は、ただただ「自分が損をしない側」についただけであり、悪い事をしようとしていた訳ではないからだ。

ヘイルが先住民を下に見ることによって搾取する事への罪悪感を抱かないのに対し、アーネストにはこれといって差別意識もない。

ではなぜそんな彼が終身刑になる様な罪を犯してしまったのだろうか。

彼自身が抱えている問題はあくまでも「差別意識」だけではない。

彼にも差別意識はあるだろうが、彼の問題は夜と霧に出てくる様な「凡庸な悪」だ。

強いヘイト感情ではない。

アーネストがこのような結果になってしまったのには、大雑把にわけてしまえば、環境要因、精神的要因がある。

環境要因としては、
まずは叔父がヘイルという均等受益権ビジネスを仕切っている張本人であったこと。


精神的要因としては、人間の本質的な部分も大きいので一概には言い切れないが、

アーネストが戦争で帰って来たばかりだと言う事も一つ大きな要因ではないだろうか。

マイケル・チミノの『ディア・ハンター』や、リチャード・クリンプトンの『ソルジャー・ボーイ』フランチャイズだと『ランボー』や、割と最近の作品ではクリント・イーストウッドの『アメリカン・スナイパー』など

戦争から帰って来た若者の抱える精神的トラウマや問題行動は数々の映画でテーマになっている。

スコセッシは『タクシー・ドライバー』でベトナム戦争後の「自分の欲望がどこに向かっているのかわからない」「実存の不安」を抱えた若者を描いている。

タクシードライバーの主人公は行き場の無い欲望を、気まぐれな悪意に代え、大統領暗殺を試みるが、気まぐれな善意(人助け)によって消化する。

タクシードライバーは前述のソルジャーボーイからインスピレーションを得た作品だが、ソルジャーボーイの方は完全な非行少年ものだ。

*ちなみに帰還兵ものは、70〜80年代のベトナム戦争期に多く見られるが、
帰還兵映画というのはそれまでのプロパガンダ的な戦争映画に打って変わり、
どれも不安定な若者であったり自警団的な存在
犯罪者として描かれる事が多かった。

*スコセッシは若い時代をまさにその年代に過ごした。

まず、人は誰しも皆前提が違うのだ。

しかし、普通に生きていてそういう風に考えるのは非常に難しい。

「なんでこの人はこんな事をするんだろう?こんな事も出来ないんだろう?」と誰かに対して思うとき、多くの場合私達の中には怒りが生まれてしまう。

「歩んできた人生は人それぞれ」だという事くらい誰にでもわかっているだろうが、

そういう風に解釈して「許して」あげられるとき、だいたいの場合において、その人と相手の前提がそこまでかけ離れていないから理解出来るのだ。 

前提があまりにもかけ離れていると、理解に時間がかかるどころか、そもそも根本的な理解が不可能な場合もある、ということも常に頭の隅に入れておかなくてはならない。そしてそれがヘイト感情に繋がるという事も。

戦場は流されるのが当たり前の世界であり、自分で選択しなくても良い世界だ。

つまり人を殺す事へのハードルが低くなっていた可能性が高い

善悪の判断基準においても、その人を取り巻くさまざまな要因によって変わってしまうものだ。 

金目当てでモリーとの結婚を勧めたのはヘイルのはずなのに、アーネストが結婚を決めると

「部族の娘だけど良いんだな?」

と最終的な判断はアーネストに委ねる。

アーネストは「長いものに巻かれる」やり方で、家庭をもち、自分の妻への愛にも違和感を覚えないまま「それなりに」上手くやっていく。

ちなみに私の言う「長いものに巻かれる」は決して批判的な意味ではない。

そしてスコセッシも主人公を決して批判的に描いていない。

「わかりずらい」という感想が多いのはその為だろう。

「長いものに巻かれる」のは人間の本質だし、そうしなければ社会ではやっていけない。

これについては事項でもう少し語ろうと思う。

良く反社会勢力や闇バイトに関して「道を間違った」と表現されるが、そういう人は自分が "偶然そういう環境に生まれなかっただけ" "偶然そういう機会がなかっただけ" だと言う事に気づいていない。

そういう事をやるのは悪人だ、という認識が人々の間にある限り、ヘイトクライムを含め、こういう組織犯罪は無くならないだろう

例えば最近『ケーキの切れない非行少年達』などという新書が大流行したが、あの様に「発達障害」などの特定の性質に原因を押しつける事も、社会的な危機感を鈍らせることになりかねない。

作品のプロットについての解釈に戻ろう。

ヘイルからの「頼まれごと」はやがて弱みになり、アーネストは戻れなくなっていく。

それが故にアーネストは特に差別意識を持つ様になるわけでもなく、たいして罪の意識を持たずに犯罪行為を繰り返すようになる。

しかも、はじめのうちは疑問に感じるような事でも、習慣化する事によって罪悪感というのは薄れていく


アーネストの倫理観はズレているのか?〈裁判のシーン〉



人間社会は、組織犯罪に限らず、お互いがお互いに判断を委ね、責任を分散する事によって成り立っている

人間という生き物は自分自身を悪と見なすことは根本的には不可能だ。

なぜなら、精神医学的に人間は自分を「診断」する事は出来ない。

自己診断を下そうとするとそれは一般論になってしまうからだ。

つまり罪悪感は持てても、自分自身を断罪することは人間には不可能だという事になる。そこに人間の良心の限界がある。

しかし、裁判でアーネストは今までの自分の過去の行動について他人の視点から自らを裁く事になる。

裁判では事実確認のみ行われるので、「それはあなたの判断ですか」という質問にも「はい」と答えるしかない。

そのときそのときの状況や、ヘイルとの会話内での微妙な圧力は勿論加味されないし、本人からしても「そう言えば自分で決めたかもな」くらいの感じだろう。

アーネストはどんな質問にも「まあ、多分そうです」みたいな返答しかしない。

しかし裁判官に「はっきり答えろ」と言われてからはYES・NOの二択で答える必要に迫られ、結果的に自分の罪を認める事になる。

アーネストはあくまで普通の人間だ。

例えば、現代社会の倫理観ではだいたいの人にとって「法律を守る」ことは絶対だ。

この法律に反発する人間は「反社会的」とみなされる。

でも忘れないで欲しい。ナチスドイツが法だった時代もあったのだ。

法律を守っていた、上からの命令を守っていた、だけなのに、ある日突然断罪される事もあるかもしれない。

先ほど言った通り「長いものに巻かれる」のは人間の本質だし、そうしなければ社会ではやっていけない。 

しかし、それが本質だとわかった上でも戦う事はできる。



愛も善意も誰にも裁く事は出来ない



アーネストが一つだけ明確に答えられたのは、妻を愛しているか?と言う質問だけだ。

「車に乗せた時に感情が芽生えた」という発言を嘘だという解釈をしている人もいたが、おそらく本人にさえわかっていなかったのではないだろうか。

もしくは彼にとっての愛の尺度が、「愛してるから守る」という様な価値観ではなかっただけ、に過ぎない。

というか、愛してるからと言って誰かを守り切る事の出来る人間は少ない。

そういう立場になってみたいとわからないのではないのだろうか。

例えば、もし急に殺人鬼が入って来て「お前と奥さんどちらかを選んで殺す」と言われたとしたら、大抵の人間は、自分の命を犠牲に出来ないだろう。

ましてや相手は何をするかわからない人間だ。

ピストルで脳天を綺麗に撃ち抜いてくれる保証なんかない。

面白がってじわじわ殺す事を選ぶかもしれない。

そんな状況で本当に代わりに自分を殺してくれ、と言えるだろうか。

特にアーネストに堂々と石を投げる事が出来るような、自分を疑う事を知らない人間には無理なんじゃないだろうか?

そう言い切れる人は本当に怖い目にあった事がないが故に平和ボケしているんじゃないかと私は思う。

誰かにとっての愛が本当か嘘かを裁く事は誰にも出来ない。

だから他人に裁かれている場面でも、その質問だけは、堂々と答えられたのではないだろうか。

劇中のアーネストの行動からも、少なくとも愛は感じられる。

裁判所での表情からして、きっとモリーは "アーネストにとっての愛" を疑いはしなかっただろうが、彼女にとっては、それは愛ではなかったから別れる道を選んだのだろう。


本作での心理描写の少なさについて


本作では殆ど心理描写がされない。

だから観客はいろいろな登場人物に不信感を抱きながら観なくてはならなくなる。

その人の前提も価値観もわからないまま人と向き合って行くのは恐怖でしかない。

それはまさに日常生活でも同じだ。

そして未知なるものへの恐怖、は憎悪や争いを生む。

ちなみに戦争映画では、対立する国の兵士の心理描写や背景を細かく描く手法が良く使われる。

その方が簡単に「人は何故争いあうんだろう」みたいな平和主義的な思想を誘発しやすいし、その様な表現を批判する事は倫理上許されないし、唯一の正解だから、賞賛する意外にない。

しかし、その様な感情を引き起こさせてしまって
は、「何故差別がなくならないのか?」という問題
に関しては逆にわかりにくくなってしまう。

だからスコセッシは登場人物の誰かの視点に観客がなってしまう事を意図的に避けたのだろう。

この映画で細かい心理描写をしてしまうと裁判のシーンでの、アーネストの行動を問い直す描写の意味がなくなってしまう。

私達は現代文のテストでも「この作品では何を言いたいでしょうか?」みたいなバカげた質問に何度も答えさせられるからついそういう見方をしてしまいそうになるが、

スコセッシの映画は多義的なのでとりあえずそういう視点は置いておいて欲しい。

多義的な作品を撮るにはいくつかの思想やモチーフは、タクシードライバーにおいてのベトナム戦争がそうであったように、暗示的になる。

スコセッシは、基本的に人をジャッジしないスタンスで映画を撮っているから、勧善懲悪ものを見慣れている層からしたら何が言いたいんだろう…となってしまうのは仕方のない事だ。


差別による虐殺は何故起こるのか?


誰もが差別意識は持っている。

しかし、差別が理不尽な虐殺に繋がるのは大抵、思想よりも宗教的な思想や価値観の違いか、利害関係の問題からだ。

今回注目するべき点はオーセージ族が石油を掘り当て均等受益権を持っていたという事だ。

ナチスの虐殺の場合でも、人々に実行に移させるまでヘイト感情を高められた一番の理由には、そのような背景がある。

ユダヤ人迫害の歴史を振り返ってみよう。

まずは、キリストを磔刑にしたのは、キリストをローマ帝国へ反逆者として引き渡したユダヤ人である、という新約聖書の記述からくる、宗教的な対立。

加えて、宗教+経済的背景だ。

原始キリスト教会(キリスト教成立から『新約聖書』が成立し始める1世紀半ばまでを指す)には、「富んでいる者が天国にはいくのは、むずかしい」という考え方があった。

なぜなら、イエスは貧者であり、彼を模倣し全てを捨て去ること、を原始キリスト教会は、天国への階段だと考えていたからだ。

ユダヤ教にはこの様な考え方は無かった。

ユダヤ教では、貧しい者には借金をする権利が律法によって守られていた

貧しいものから搾取する富裕層は批判されるが、富それ自体が批判される事はなく、富は神からの恵み、という考え方だった。

その為にユダヤ人は割と自由にビジネスを展開出来たのだ。 

借金が出来ない原始キリスト教会信者は、富に対する穢れの感覚からヘイト感情をユダヤ人に抱きながらも、結局はユダヤ人の貸金業者を頼るしかなかった。

さらに不景気になると、これまでビジネスを自由に展開して来たユダヤ人とキリスト教徒には貧富の差が生まれる事になり、ユダヤ人は目の敵にされる様になった。 


差別と映画史



今回の映画で面白かったのはKKKの描写だ。

ヘイルは立て続けに起こるオーセージ族虐殺に不信感と恐怖を感じているモリーに「KKKは頼りにならないし」と発言している。

「民族至上主義」と私達が聞いてすぐ思い浮かべる団体といえば、KKKかナチスドイツだ。

しかし、ヘイルは当然のように当時自警団としての役割を果たしていたKKKの名を「頼れる組織」としてあげる。

当時の白人達に、KKKは「差別主義者の危ない団体」という認識がなかった可能性が高いことが示唆されている場面だ。

アイリッシュマンでもそうだったが、最近のスコセッシの作品はこういう一瞬の細かい描写で重要な背景を提示して来たりするのが面白いところだ。

現実世界でも私達は、一瞬にして過ぎ去ってしまう重要なものを、一体どれだけ見落としているのだろう…と考えさせられてしまう。

KKK側の視点から描かれた歴史的に悪名高い映画と言えば『国民の創世』というサイレント映画だ。

The Birth of a Nation / D. W. Griffith

この映画が撮られたのは1915年であり、オーセージ族虐殺事件は1920年代であり、時代はあまり進んでいない。

『国民の創世』は勧善懲悪もので、KKKは英雄として描かれている。

つまり、白人至上主義は対して珍しい考え方ではなく、ヘイルも当時の社会全体の倫理観からはそこまで逸脱していたわけではないだろう。

「有色人種」をスケープゴートにするやり方は珍しい訳ではなかったのだ。

また、日本人へ差別意識を向けた作品に、早川雪洲主演の『The Cheat』(1915)がある。

Cecil B. DeMille /The Cheat

画面が美しく見応えがある良い作品だが、当時のアメリカにおいて、日本人への差別意識を根強く植え付けた作品だ。

またこの年代のアメリカでは排日運動が盛んだった。

つまりこの作品は明確に日本人への差別意識を高める為のプロパガンダ的な作品だったのだろう。 

*ちなみに1850〜1950年代頃のアメリカでは、有色人種と白人の結婚や性的関係は禁止されていたようだ。〈参照:Anti-miscegenation laws〉

オーセージ族の虐殺があった少し前に撮られた作品に、バスター・キートンの1922年の『白い酋長』がある。

Buster Keaton in “The Paleface”1922

この作品でも石油を狙う白人が描かれている。

インディアン達(時代が時代なのでインディアンという呼称が堂々と使われている)が穏やかに暮らしていた所に、

石油を狙った白人がインディアンのメッセンジャーを殺し、借地権の書類を奪い取り、インディアンに立ち退きを通達する。

インディアン達は「最初に現れた白人を殺す」事を決めるが、何も知らないキートンが虫取り網を持ち、蝶々を追いかけてインディアン達の野営地に飛び込んで来る・・・

という所からキートンお決まりの追いかけっこドタバタコメディになる訳だが、

紆余曲折ありインディアンの仲間になったキートンは借地権を白人から奪い返し、酋長の娘と結婚してハッピーエンドを迎える。

この映画では、先住民にヘイトは向けられていない。

しかし、コメディなので仕方がない部分もあるが、明らかにリスペクトに欠けた描写はいくつも観られる。

先住民を肌を塗った白人が演じているし、カルチャーも何もかもめちゃくちゃだ。

つまり、この時代において、先住民への理解はあまり進んでいない。

作中では何の悪意もなく「野蛮人」と言う言葉も使われている。

この様に、人種間の対立を煽る事を目的としない作品でも、現代人の目線から観ると差別的であったりする。

その時代の意識は大衆向けのエンタメ映画にこそ現れやすいのではないだろうか。

サイレント映画には無意識な差別からプロパガンダまで、現代ではありえない差別描写が沢山あるので、観ていて驚く事が多い。


何故スコセッシはオーセージ族特有の文化に触れなかったのか?


Ni-U-Ko’n-Ska

少なくともスコセッシがこの映画で描きたいのは特定の思想ではない。

ネイティブ・アメリカンへの白人からの差別や略奪について描くとき、描く側の視点が彼らの民俗文化についての一面的な美化に特化してしまうと問題は見えにくくなってしまう。 

だから先住民の文化的背景や人物のバックボーンについてはあまり触れなかったのではないだろうか。 


道を間違えたわけではなくても



「君が正しい選択をする事を祈っている」と警察側からもヘイルからも言われるが、結局この後どう動こうが、アーネストには明るい未来はない。

過ちに気づいたからといって、社会的にはもう終わりだ。

留置所の中でアーネストはきっと「どうしてこんな事になってしまったんだろう」と思っていたに違いない。

そしてその問いに答えは無い。

なぜなら「人生の転機」なんてものはそうそう訪れないからだ。

彼はあくまで損をしない様に生きて来ただけの普通の人間だ。

人生というのは小さな行動や選択の積み重ねによって形作られていくものだ。

そもそも人生の中で何が重要な選択肢なのか、なんてことがわかったなら、上手くいってる奴ばっかりだろう。

過去の小さな行動が、気づけば自分を元に戻れない場所まで運んでいるものなのだ。

前回のスコセッシの記事:

ちなみに今回の記事はりりぽんと話す中で気づいた事が多かったのでりりぽんありがとう。

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