私のお父さん
「老人とは労働の為に畸形になったものの事だ」
というのはサルトルの有名な一節だが、ならば父は何の為に畸形になったのだろうか。
父は仕事に高尚な意味を見出さない土方だが、労働者という響きは美し過ぎて過ぎて似合わない、気楽な放蕩者だ。
久しぶりに会った父には、驚くほど迫力がなかった。声は記憶にあるままだが、見た目は私の記憶の中から縮小コピーした様で、なんだか現実味がない。「よお久しぶり」と言って笑うと、前歯はほぼ金歯だった。そして息が臭い。
異様な顔をしているな、と思った。歳を取ったのに余りにも威厳が無い。歳を取れば高倉健や北野武の様になるなどと甘い期待をしていた訳ではないが、それでも私はなんだかがっかりした。
それまで口角を吊り下げていたものがプツンと切れて、頬だけ異様に若々しい。眉間にも額にも皺はないのに、不実な裏付け無しには使われなかった涙囊は大きく膨らみ、眼孔の中でだらしなく垂れ下がって、三重にも線が入っている。
若々しいとはいえないが、年季が入ってもいない。顔の肉の上で、時間が分裂してしまったかの様だった。
父の若い時代さえ、美しいと思った事は一度もなかったが、それでも授業参観で廊下を歩けば「お父さんかっこいいね」と話題になる様な父だった。
そんな父が、若さを保つ事も、時の洗練を受けることも出来ず、酷く父を憎んで来た私にとってさえ、何の感情も誘発されない、一介の中年になってしまった事は衝撃だった。
「綺麗になったな」
父は金歯を見せて臭い息を吐きながら笑った。口の中でドブネズミでも死んだんだろうか。歯磨きって大事だな、と私は思った。
返事に窮した私は苦笑した。自分の笑い声にイラついて、かき氷にスプーンを何回も刺す。自分の声を好きになれる日が来るんだろうか。そもそも声の出し方がわからない。それを見たお父さんは訳もわからずに笑う。
昔父とドライブしていた時、父は「きっとお前は俺みたいな彼氏をつくるはずだ」と言った。私は黙りこくり、妹は「おー」とか「へー」とか、なんとも取れない相槌を打ったと記憶しているが、妹の記憶は逆だ。
このときの話は、私達の会話に何度も出て来る。妹は私に「お姉ちゃんは器用だよね」と言った。この器用という言葉は深く私に突き刺さった。
「俺は最近パチンコはいかないし、女もいないし。楽しみと言ったらゴルフぐらいでよお」
何か始まったな、と私は思った。
「いい趣味だね」
父が突然始めた演劇を損なわないように、私は適当に言った。これは正解であったらしく、父は嬉しそうに、最近の父がどれだけ真面目で牧歌的な暮らしをしているか語って聞かせた。
これは安易に予想されていたもので、宿題としてテーマだけ渡されていた即興劇の様なものだ。予習は完璧にして来た。私は調子づいて、昔は荒々しく残酷だった父が、弱々しい老人になり、2人の年季の入った不和が、漸く感傷を持って絆に変わる…という劇を演じた。
私は自分の過去の姿として「スウィートヒアアフター」の薬物中毒の娘を思い描き、現象としてジョージ・ユングの夢の中の面会を採用し、演技のモデルにマーロン・ブランドを選んだ。
父の演技は俗っぽく、祖父が巻き爪を切りながら適当に見ていたくだらないメロドラマの様で私達の映画は全体としては良いものにならなかったが、私の演技は、控えめ過ぎず、過剰な演出によって青臭くなる事もなく、はっきり言ってアカデミー賞ものだった。
「遊ぶ為に別れたんじゃないからな。2人の事は未だに愛してるし。命よりも大切だ」
この時父が、私に向かって何かを証明しようとして居たなら、私は厭わしく思ったかも知れないが、幸い父は久しぶりに再開した父親としての役目を追行することに酔っているだけらしかった。
私は前、父が自分に酔いすぎたあまり「大事な一人娘」と言い間違えた事を思い出して、笑い出しそうになった。
私達に愛していると父が言うとき、父は何かしらの映画やドラマで見た台詞を無意識に繰り返しているだけにすぎず、そういった場合「一人娘」と言った方がドラマチックだから言い間違えてしまったのだろう。
残念ながら実際の会話では、テイクを重ねる事は不可能だ。
ソープオペラすら上手く演じる事が出来ないほどに薄っぺらい人間、それが父だ。
車に乗り込むと、カーナビの一番最近の履歴にパチンコ屋が表示された。私はああ、とだけ思った。ついでに後部座席にピアニッシモの箱もあった。私は心の中でクスクスと笑った。これは私が求めて居たものだったからだ。
私は父のこういうしょうもない嘘に今まで幾度となく深く傷つけられた。高校生の頃、父が私と同い年くらいの女の子とラブホテルから出て来た時もショックだった。
でも今の私には、私が見つけた新しい愛は正しいのだと証明する、安堵感の材料にしかならなかった。
父は顔色一つ変えず、隠そうなどという悪足掻きも一切せずにナビの操作を続けた。どこまでも不誠実だ。これは非常に愉快というほか無かった。「一人娘」と言い間違えた時も父は同じ反応だった。
昔の私ならシニカルに笑って、心の奥底で酷く憎んだだろうが、今の私には父以外にも大切なものが沢山ある。
父が私に対して不誠実な愛を向けて満足しているように、私は私で、私の出来る範囲でこの大切な感情に欠けた人間を愛せば良いのだ。いろいろな愛を手に入れた私にとって、父には嫌うほどの価値はなかった。嫌悪や怒りというのは、時に高くつきすぎる。
私は必死に笑いを噛み殺した。父は悪いとは思っていないだろうし、嘘がバレた事に悩みもしないだろう。もし父がそんな人間なら、私だってこんな乾いた愛を、父に向けていて平気ではいられないのだから。
父には狡賢い詐欺師でいて欲しい。私が見つけたこの新しい愛の形が正しいのだと証明して欲しい。そしたら、私が生きるのは随分楽になるんだから。
幸いにも父は、間抜け面で「することねえなあ」などと言っている。私はいよいよ嬉しくなった。
私は小さい頃から、父が自動車詐欺をしていた、という事実を大切に抱きしめてきた。父には嘘つきの才能があるのだ、と思いたかったからだ。皮肉な事に、父が大して詐欺師として有能では無かったと知ると、私はとてつもなく失望した。どこまでもしょうもない男だ。
こんな風に父の愛を裁いてばかりいては、私自身は大層な正直者であるかのように聞こえてしまうが、事実、私はなかなか救いようの無い嘘つきだ。
私がついた嘘のせいで母を泣かせた事が何回もある。大抵の場合、心配をかけたく無いという最もらしい理由つきで。それでも母は、私が吐いた嘘は裁いても、私という人間を裁こうとはしなかった。
父の遺骨をドブに捨てるか、墓石に唾をかける事が長年の夢だったが、私の新しい夢は、父の葬式で「おとーさーん」と泣きじゃくる事に変わった。父が祖父の葬式でそうした様に。
※
あの時の私は、全身を異様なまっきいろにして大量の花の中に横たわる老人の遺体に、演技がかった仕草でしがみつき、大声を張り上げて泣く父の背中を蹴っ飛ばしてやりたくて仕方がなかった。
これではアルフレッド・ジャリの前衛劇でもやり過ぎだ。カットだカット。演技が下手くそ過ぎる。死ね、お前が死ね。そんなに悲しいならついていけよ。私は頭の中でひたすらそう繰り返していた。
私がまだこれよりも小さかった頃、母方の祖父の葬儀でわんわん泣いていたら、どこの誰かもわからない、見たこともない親戚のババアに「あんたは泣いちゃダメ。皆我慢してるんだから」と言われた事がある。その時のイラつきが同時に噴き出して来て、怒りで両手が震えるのを感じた。
加えて、父の継母に当たる、訳の分からないオバサンが変な宗教にハマって居たせいで、坊さんのフリをしたいい加減な連中がピカピカの衣装を纏って20人登場し、一斉にデタラメなお経を唱え始めた。これではまるでパルプ・マガジンの出来の悪いSF喜劇だ。ブコウスキーに見せたら喜ぶに違いない。
私はお経に合わせてNirvanaの「俺が宇宙人だった頃、文明は見解なんかじゃなかった」という歌と「肉が美味すぎて噛む事すら出来ない、おばあちゃん家に返してよ、「どうしてお前は泣き止まないのかい」」という歌を繰り返した。
私がデタラメなお経を唱えるのを見た母は、私のことを優しく睨み、妹はクスリと笑った。
突然自分が良い事をしている様な気がし始めた私はお経を続けた。
「魚を食べるのは悪い事じゃない。あいつらは少しも感情なんか持ち合わせて無いんだから」
「太陽の皮膚を剥げ。眠っちゃえば良いんだ」
「赤ちゃんがもう一人の赤ちゃんに言いました、「会えて光栄でございます」」「今からお前を徹底的に溺れさせるのが俺の任務だ」
突然ババアから平手打ちを食らった。少しやりすぎたな、と反省した私は会場を後にして、畦道をひたすら歩いた。でもどう考えても、あいつらのお経よりは私のお経の方が有難い。第一祖父にとってはどちらも大した意味は持たないだろう。祖父が幽霊になってこの葬儀場にいるとしたら、あのいい加減な連中よりも、私の傍で私の声に耳を傾けてくれるに違いない。
それに私は祖父の葬式のとき、修学旅行から帰ってそのままの足で来た。
どこに行こうか途方に暮れているとき、ふとジェロという地元のヤンキーの顔が浮かんだ。
ジェロは私の母に言わせればタチの悪い不良だったし、実際当時の私には理解出来ない様な悪いことを、裏では沢山していたらしい。
ジェロはブタと呼ばれていじめられていた男の子にヘアアレンジを施して、自分の不良組織のナンバーツーにしていた。
それは当時私が考えていたほど美しい事ではなかったかも知れない。それでも小学生の私に言わせてみれば、ジェロはいじめっ子に優しいヒーローだった。
ジェロのところに行こうか、とも思ったが、自分からジェロの所に行った事は一度もないので、怖気付いてやめた。この時のこの判断は正解だったんだなと、今になって思う。
いくら心が通った気がしても、守ってくれそうな気がしても、不良は結局不良なのだ。真っ直ぐな愛が欲しいときに彼らを頼るのは、御伽噺に出て来る悪霊と契約を交わす様なものだ。
私は周りに不良が多かったせいで、自分を一端の不良と見なす様になっていたが、最近それは誤りである事に気づいた。
私は硬直した社会人と、柔靭な落伍者達の間で、居場所を求めて彷徨う傷ついた弱々しい、普通の女の子に過ぎない。
私は祖父の葬式のとき、初めて野宿を経験した。夜空を見ながらフクロウの鳴き声を聞いていると、祖父の死は、そんなに悪いものでは無い気さえしてきた。
田舎の葬儀は忙しい。親戚や近所のジジババの相手やらで、母も、もちろん父も、私が居なくなった事に気づかなかった。
※
父は相変わらず演劇を続けていた。さっきの嘘なんか無かったかの様に。私は父の大根役者っぷりになんだか少しげんなりして来て、なげやりな相槌を打った。
「何もする事ないならさ、煙草吸いに行こうよ」
「おっ、煙草吸うのか」
そう言った父は、嬉しそうだった。
「パチンコ屋の喫煙所が綺麗だから、パチンコ屋に行こうか」
私は内心よっしゃ、と思った。夢が叶うぞ。私はずっと、父の共犯者になりたかったのだ。
こうやって、私を何の抵抗もなくパチンコ屋に連れて行くという事実が、父の愛情の薄さを象徴していた。父は、私達を苦しめた一因である自分のギャンブルに何の罪悪感も感じて居ないのだ。
私は長い間、というか、今までの人生の殆ど、煙草の煙の匂いが怖かった。そのせいで人を愛せなかった事もあるほど、大嫌いだった。
煙草の匂いを嗅ぐ度、二の腕や太腿の根性焼きが痒くなる気がしたし、同時に得体の知れない安堵感が胸に広がって、何か強大な物に引き摺り込まれる様な恐怖を味わった。紛れもない、父の残虐さを象徴する匂いだった。
「まさか、お前と煙草を吸う日が来るとはな」
私も同じ気持ちだったが、この台詞をきいて、私は父が笠智衆が演じて来たような、かたくなな日本の父親だったら良かったのに、と思った。思惑通り、煙草の匂いに慣れてしまった私は、自分がかつて期待していたほどの喜びは得られなかった。そして今では煙草を吸う人にも優しい人がいることを私は知っている。
「急におれに会いたいなんて言うから、結婚でもするのかと思ったよ。誰か連れて来るんじゃないかって」
あまりに見当違いの予想に私は思わず笑った。
「そんな訳ないじゃん。結婚なんかしたくないよ」
「彼氏も好きな人も居ないのか」
父は会うたびにこれを聞いてくる。私が連れて来るであろう自分に似た若い男に、威張り散らしたくて堪らないのだ。
「私はトトロを迎えに来たの」
そういうと父は、表情も声色も変えずに言った。
「トトロは東京にも来るさ。ネコバスもあるんだし」
私は度肝を抜かれて笑い転げた。
でも直ぐに、怒りの感情が湧いて来た。
小さな頃は、そんな気遣いすらしてくれなかったじゃないか。真面目な返答を期待するには馬鹿げた話だから、仕方が無いはずなのに、無性に腹が立って仕方がなかった。しかもこれは、少々行きすぎた演出だ。
私の中に突如湧きあがって来た、生きた感情を、私はどうしても殺す事が出来なかった。後になって私は、このとき何かを試したかったのだろうという事に気がついた。
「まだそんな事言ってるのか」とか「病院にはちゃんと通ってるのか」とか、思いやりの無い事を言って欲しかった。
小さい頃は散々酷い目に遭わせておいて、手がかからなくなったら、調子の良いおままごとで自分だけ気持ち良くなるなんて。そしてそれを私は許したくて仕方がないのだ。
私はこの瞬間に、結局私は父を愛する事しか出来ないのだとはっきりと悟った。そしてどれだけ愛情をコントロールしようとしても、愛というものはそういう風に、なまやさしく躾ける事が出来る類のものではないのだと知った。
更に不運な事に、私は、父の歳の取り方に失敗した様な、象徴的な解釈をする事もかなわず、感傷に浸る事すら許してくれない貧相な顔にも、なんらかの愛情を見出している事に気がついた。私の期待に応える様なものではなかった、父のちんぷんかんぷんな歳の取り方さえ、愛さずには居られないのだ。
私の父への愛は、母にとっても、私自身にとっても、背信的なものだ。
それでも一度愛してしまったなら、その炎を消すのは容易い事ではないし、理性的な愛という幻想を見る事すら難しい。
父は父に出来る範囲で私を愛している。つまり、殆ど愛していない。父は自分が愛に対して、どれほど低い解像度を持っていて、それがゆえにどんな綺麗事でも卑劣な嘘でも簡単に言えてしまうのだ、という事実に気づいてもいない。
けれども私は父の様にはなれない。父の真似をしようとしたって駄目だ。
私には父の葬式で嘘泣きなんか出来ないだろう。きっと、棺桶を蹴飛ばしてやりたいくらい腹が立つだろう。
愛を冷笑出来る年齢なんかとっくに過ぎた。
私はやはり、人を愛してしまう、か弱い感傷的な人間なのだ。
それがどんなしょうもない人間であったとしても、相手が私に向ける愛が、どんなくだらない性質のものであったとしても。
だったら自分が人を愛してしまうという事実を受け入れて、身を滅ぼさない様に、そこに生まれた愛だけ大切に持ち帰って、そんな自分を愛するしかない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?