西インド、ゴアのリゾートホテルに来ています。
明日から、スパイスについて教わるグルックラツアーが始まりますが、アーユルヴェーダのことはさておき.....このホテルには、数日前まで7人のイスラエル人の若者が滞在していたそうです。
昔から、ゴアはイスラエルの若者に人気の観光地でした。しかし、皆家族から電話がかかってきて、「戦争が始まるのだから、徴兵に応じるように」と説得されて、滞在途中で帰っていったそうです。イスラエルでは女性も徴兵されます。「みんな泣いていたって..」.と、インドのスタッフが教えてくれました。
夕食のビュッフェに イスラエルの郷土料理のフムスが並んでいました。あまり食べる人がいなかったけど、私は食べました。
なんだか、食べ物の力が、その7人に届くような気がして...。
フムスをはじめてたべたのは、大学を卒業した1985年、
イスラエルのキブツに住んでいた時でした。そこでは、ユダヤ人のおばあちゃんたちと一緒に、洗濯物にアイロンをかけるのが仕事でした。彼女たちはみんな、腕に番号の入れ墨がありました。収容所から、命からがら逃げてきた人たちなのです。
普段はとても強い彼女たちでしたが、ちょっとふざけて「ワッ」と抱きついたら、固まってしばらく動けなくなり、そのあと死ぬほど怒られたことがありました。
「爆弾が落ちたかと思ったじゃないの!」と。
何十年も、こんな思いを抱えて生きてきたのか....と、心の傷の深さをはじめて知りました。
すまぬことをしたと思いました。
彼らが、ようやく手にいれた安住の地を絶対に失いたくないのも、よくわかりました。
一方で、ベツレヘムへいくと、パレスチナ人の若い男性たちが、一介の観光客である私に、苦境を訴えてきました。
2〜3人で立ち話をしていただけでも、密談の嫌疑でしょっぴかれる。何もしていないのに、友達が何人も逮捕されて帰ってこない...。こんな話を、床屋で延々と聞かされました。床屋が唯一、人が溜まっていても安全な場所だからということでした。「仕事もできない。これじゃ、なんのために生まれたのかわからない。お願いだから、このことを世界に知らせて欲しい」と、8人の若者から真剣な顔で頼まれました。
「わたしはただのバックパッカーだよ?」というと、「とにかく知らせるだけでもいいんだ。だって、君は自由にここから外へいけるじゃないか!」と、つよくいわれたのを覚えています。今のようにSNSなんてない時代のことでした。結局私は何かをつたえたくて、メディアの仕事についたけれども、イスラエルのためにも、パレスチナのためにも、何もしてきませんでした。
だれかの自由や権利を踏みにじって幸せになっても、きっとそこには反発力が生まれるわけで。そんな幸せがいつまでも続くわけはなく。だからといって、人殺しをしても良いわけじゃないけれど、「なにもしないで死ぬよりはマシ…」.そんな気持ちにさせてしまったことも一因なわけで。
この件について、私はどんな立場のひととも議論を交わすつもりはありません。ただ、祈るだけ。そして明日もフムスを食べよう。