ミントとハゲ頭
※「ハゲ頭」というお題で書いた超短編小説です。
「やだな、また生えてきちゃった」
ある朝、娘が庭の片隅を睨みつけて、ぶつぶつと呟いた。
今年21になる娘は、しがない郊外の一戸建てである我が家の、決して広くない庭の一区画を自分の農園と定めている。
娘がこの趣味を始めたのは3年ほど前からだ。
始めたばかりの時は全滅の憂き目に会った野菜たちも、去年に入ってからは旬となればトマト、ナス、じゃがいも、バジルにシシトウ、ラディッシュなど、すくすくと育った美しい姿を見せ始めた。
毎日欠かさず手入れをし、野菜たちが順調に育っていくにつれ、ここ何年か曇りがちだった娘の顔に明るさが戻る様は、父としても本当に嬉しいものだった。
しかし、今朝のように娘の顔が極端に険しくなることがある。つられて庭を見やると、確かに昨日と様子が違う。
緑だ。低い柵に囲まれた農園一面に、細かな緑の葉が満ち満ちている。
「また雑草か」
「ううん、ミント」
「ミント?」
鞄の中にひっそりと入れた、口臭予防のタブレットを思い浮かべた。
「前の風の日に運ばれてきて、居着いちゃったみたい。知ってる?ミントってそこらの雑草と比べ物にならないくらい生命力が強いんだよ。抜いても抜いても生えてくる」
言いながら娘は庭に降り、ぶちぶちと緑を根っこから抜き始めた。途端に、爽やかな香りが庭中を支配する。
「他人様に迷惑かけなきゃ、別にどうともしないのに」
ぶち、ぶち、という音に、娘の呟きが続く。
その言葉と音に何となく、自分の後頭部に手をやった。10年程前には当たり前だったはずの柔らかな感触が、今は懐かしい。
自分はいわゆるハゲというやつだった。
今年で50になる。人生100年時代だとしても、ここらで流石に折り返し。人間ドッグは2つほど精密検査要請が出たし、ミント味のタブレットは欠かせない。若い頃の不健康も祟ったらしい。
加えて、父親も祖父も髪が薄かった。野球で言えばスリーアウトチェンジ。その例えのセンスさえも中年だ。
もっと嫌な事は、そのハゲ頭の美しくないこと。大げさに言えば、スキンヘッドと呼ばれるような、太陽の光を照り返して輝く、月の如き颯爽とした美しさがないことだった。
ツルピカというよりツルとモサ。薄くなった髪の毛がとろろ昆布のように、ツルッと死滅した部分に覆いかぶさっている。
未練がましく生きようとする、数少ない毛根たちによって、ハゲ頭はより一層見苦しいものとなっているのだ。なんという皮肉。
若い頃の自分がこんな頭を見たらどう思うだろう。唾なんか吐き捨てるかもしれない。あの頃の自分はそうだった。父のハゲ頭、祖母の呆けた姿、見苦しいものを見ると怖気が立った。
目に入れるだけで本当に辛かったし、近づくのも嫌な時さえあった。そう思ったり、行動に移した時に申し訳なさそうにする姿すら、本当に見たくなかった。
バケツの底に放り込まれていくミント達と、しゃがんだ娘のまるい背中をぼんやりと見つめる。
娘や。
ミント達も別に、他人様に迷惑をかけようとして生きてるわけじゃないんじゃないかな。
例えば、俺の似合わないハゲ頭のように、学校でのお前のように、ただ生きているだけで、ただそこにあるだけで、知らないうちに人の迷惑になっているだけなんじゃないかな。
ぶちぶち、ぶちぶち。
娘や。
でも、娘や。
知らないうちに人に迷惑をかけて、何もしていない筈なのに唾を吐かせて、怖気を立たせて、険しい顔をさせたその上で、何度迷惑だと罵られても、つんとそっぽを向いて、何度も何度も生え伸びることこそが、もしかしたら_____。
「よし!」
力強い声を上げて、娘は背伸びをした。見ると、いつの間にかミントの大群はあらかた抜き取られ、バケツの中に山を作っていた。
「今日からしばらくミント生活だよ」
「え、これ食べるのか」
「当たり前じゃん」
高らかな声が響く。娘は立ち込める涼やかな匂いに負けない程に、凛とした表情をたたえている。
「せめて全部食べてやるのが、武士の情けだよね」
「武士の情け」
「また生えてきても、全部取って、全部食べてやる」
呆気にとられていた俺は、のしのしとキッチンへ向かう娘の後ろ姿に、口臭予防タブレットの嘘くさい清涼感でなく、戦場でおめおめと生き延びる武士のような、むせ返るほどに繁茂するミントのような何かを見る。
剃っても剃っても生え伸びる、ハゲ頭の毛根たちのような何かを。
__知らないうちに人に迷惑をかけて、何もしていない筈なのに唾を吐かせて、怖気を立たせて、険しい顔をさせたその上で、何度迷惑だと罵られても、つんとそっぽを向いて、何度も何度も生え伸びることこそが、もしかしたら、
生きるってことなのかもしれないよな。わからないけど。
………かなり恥ずかしいこと言ってるな。
思わず少し笑って、ハゲ頭を触った。とろろ昆布のような髪の毛は少し萎れたまま、今日も変わらずなんとか生き延びていた。
了