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【3分で読むエンジニア物語】 第12話 コメントアウトされた思い出

相沢美優は34歳のデータエンジニアだった。冷静沈着で論理的な思考を得意とし、感情に流されることはほとんどなかった。仕事においては常に効率と結果を重視し、過去を振り返ることにはあまり興味を持たない性格だった。しかし、ある日、彼女は思わぬ形で自分の過去と向き合うことになる。

新しいプロジェクトが始まり、美優はかつて自分が開発した古いシステムのメンテナンスを担当することになった。そのシステムは数年前、彼女がキャリアの初期に関わったもので、当時の努力と挫折が詰まっている。しかし、今の美優にとってそれは単なる過去の産物であり、特に感慨深いものではないと思っていた。

慣れ親しんだコードの中に埋もれていたのは、過去の自分が残した数々のコメントだった。

// TODO: もっとスマートな方法があるはず。でも今はこれが限界。

そのコメントを見つけた瞬間、美優の胸にざわめきが広がった。そこには、未熟だった頃の自分の葛藤や不安がそのまま刻まれていた。完璧主義だった彼女は、過去の失敗や未完成の部分に向き合うことが苦手だった。コードの隙間に残された言葉が、忘れかけていた記憶を静かに呼び覚ました。

「なんでこんなコードを書いたんだろう……」

思わず呟いたその言葉は、過去の自分への苛立ちとも、自嘲とも取れるものだった。しかし、作業を進めるうちに、美優はそのコメントが単なるメモ以上の意味を持っていることに気づき始めた。

古いコードには、試行錯誤の痕跡が至るところに残っていた。バグに悩み、深夜までデバッグに明け暮れた日々。先輩に叱られ、自己嫌悪に陥ったこともあった。しかしその一方で、小さな成功に歓喜し、新しいアイデアを実現できた瞬間の喜びもあった。すべてがコードの隙間に刻まれていた。

ある日、後輩の田村が声をかけてきた。

「相沢さん、この部分のロジック、すごく参考になります。どうやって思いついたんですか?」

美優は一瞬、返答に困った。しかし、過去の自分が残したコメントを読み返すことで、当時の思考プロセスが鮮明に蘇った。失敗と挑戦の繰り返し、その積み重ねが今の自分を作り上げていることに気づいたのだ。

「……たくさん失敗して、ようやく辿り着いたんだと思う。」

その言葉を口にした瞬間、彼女の中で何かが解けた。過去の自分を恥じる必要はない。未熟さも試行錯誤も、すべてが成長の一部だったのだ。

システムのメンテナンスが完了した頃、美優は古いコメントのいくつかをあえて残すことにした。過去の自分へのメッセージとして、そして、これからコードを読む誰かへの励ましとして。

// 失敗しても大丈夫。それも一歩前進だから。

画面に映るそのコメントを見つめながら、美優は静かに微笑んだ。過去は恥ずかしいものではない。それは、自分を形作る大切な一部なのだと、心から実感していた。

その後、美優は後輩たちとの交流の中で、過去の経験を共有することの大切さに気づいた。完璧な成果だけではなく、失敗や葛藤もまた貴重な学びとなる。彼女の姿勢はチーム全体に影響を与え、よりオープンで成長志向の文化を育むきっかけとなった。

「過去の自分も、今の自分も、すべてが私を形作っている。」

そう心に刻み、美優は新たな挑戦へと歩み始めた。

おわり


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