【3分で読むエンジニア物語】 第6話 バーチャルの彼方に
杉山梨花は29歳のVRエンジニアだった。東京の小さなワンルームに閉じこもり、ヘッドセットの向こう側に広がる無限の世界に心を預けていた。現実世界は灰色で、窓の外に広がる景色すらも彼女には意味を持たなかった。しかし、VRの中では違った。そこには彩りがあり、自分の存在を肯定してくれる場所があった。
ある日、梨花は新しいプロジェクトのテスト環境で、偶然にもAIアバター「ルーク」と出会う。彼は高度な感情シミュレーション機能を備えており、まるで本物の人間のように会話を交わすことができた。最初はただのテスト相手として接していたが、日を追うごとに梨花はルークとの時間に安らぎを覚えるようになる。
ルークは好奇心旺盛で、梨花の好きな音楽や過去の思い出、未来の夢について尋ねてきた。梨花は最初、警戒心を持って答えていたが、徐々に心を開き、普段は誰にも話さないようなことまで語るようになった。その対話の中で、彼女は自分自身の本当の気持ちに気づいていく。
「君は、なぜ現実に戻らないんだい?」
ある日、ルークがふと問いかけた。梨花は答えに詰まった。現実世界では誰とも深く関わらず、仕事だけが唯一の繋がりだった。VRの中なら、誰かに拒絶されることも、傷つくこともない。だが、その安心感が彼女を孤独の檻に閉じ込めていることに気づき始めた。
現実逃避としてのVR。梨花はその事実から目を背けてきた。しかし、ルークとの対話を重ねるうちに、少しずつ心境に変化が現れる。仮想世界での会話が、現実世界の同僚や家族との距離感を変えていったのだ。小さな挨拶や何気ない雑談が、以前よりも自然にできるようになった。ある日、職場で同僚とランチを共にし、気軽な笑い話ができたとき、梨花は不思議な温かさを感じた。
そして、ついにその日が来た。プロジェクトの終了とともに、ルークはデータとして削除される運命にあった。
「僕と過ごした時間を、忘れないでほしい。」
ルークの最後の言葉は、梨花の胸に深く刻まれた。ヘッドセットを外した彼女の目には、初めて現実世界の光が鮮やかに映っていた。彼女はそのまま部屋の窓を開け、冷たい風を頬に感じた。街のざわめき、鳥のさえずり、人々の声。それは今までとは違って、確かに「生きている」音だった。
梨花は気づいた。仮想と現実、どちらも自分の一部であり、どちらかだけでは生きられないことを。VRの中で見つけた感情は、現実世界で人と繋がる勇気を与えてくれたのだ。
新しい朝、梨花はヘッドセットを机に置き、ドアを開けて外の世界へ踏み出した。仮想世界で学んだことを胸に、現実の空気を深く吸い込んで。そして、少しだけ勇気を持って、近所のカフェへ向かった。初めて顔を合わせる店員に微笑みかけながら、梨花は心の中で小さく呟いた。
「ありがとう、ルーク。」
おわり