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老子と同じ考えだなんて恐れ多いけれど、自然になりたいと願う。
実験結果は悪くない方だと思う。
はたからみたら地味な変化かもしれないけれど、自分の中ではそれなりの手応えを感じられている。
これをどうやって伝えていこうかなと考えることがあるのだけど、なかなか難しい。
だいぶ抽象的な話だし、言語化がうまく出来ないし、話してもなんの話をしているのか理解してもらえないのがほとんどだと思う。
そんなときに、老子という人が同じようなことを言っているだなんてことを知ったのだから、嬉しくなる。
しかも2500年も前のことだってんだから、驚きだ。
コテンラジオで【老子・荘子編】がはじまった。
老子。老荘思想。
なんだか、とても自分に親和性があるように感じている。
老子の言葉は有名な言葉も多いので、多分聞いたことのある人も多いと思う。
無為自然
とか
上善如水
とか
足るを知る
とか
そんな日本人にも馴染みの深い言葉を残している老子の思想には、なにか自分に似ているものを感じる。
...なんていうのは恐れ多すぎる。
きっと、知らず知らずのうちに自分が生きていく過程で老子の影響を受けていた、ということもあるだろう。
仏教や東洋思想は好きな方なので、きっと関連性もあるのだろう。
老子の考えのどこにシンパシーを感じているのかというと、『自然の成り行きに任せればすべてが整う』というところだ。
そこに『こうなってほしい』という作為はあってはならず、無駄なことを取り除いていく。
それを老子は『無為の為』と呼んだ。
つまり『やらないをやる』ということになる。
いっとき興味があって、農や植物のことを学んだことがある。
知り合いに自然農法を実践している農家さんがいたり、前の職場にはオーガニックガーデンがあって、そこを手がけるガーデナーさんに話を聞いていると面白いことがたくさん聞けた。
そうやって農や植物、はたまた土や微生物のことを学んでいるうちに、『やらないことをやる』という感覚の大切さを直感的に感じていた。
人間は作物を育てるために肥料をやる。
でも、肥料を撒くことで土中に偏った栄養素がたまり、それを分解するために虫がやってくる。
虫は作物を痛めてしまう。
農家さんは作物が育たないと、売り上げが立たないので大変だ。
だから人間は農薬を撒いて、虫を追い払う。
農薬を撒くと土の中の微生物が死んでしまう。
土が死んでしまい、作物が育たなくなる。
だから肥料を撒く。
一般的な農業では、このような悪循環で回っているといっても過言ではないと思う。
自然農法を実践している農家さんは、これらの行程を取り除いていく。
農薬はもちろん、肥料を撒かない。
肥料を撒くから虫が来るのだから、肥料を撒かない。
これは有機だったら良いというわけではなく、動物性でも植物性でも肥料は肥料だ。
肥料は撒かない。
その代わりに微生物の力を借りる。
そのための環境を整える。
長い時間をかけて、その環境を整え、やっとのこさで作物が育ってくれるようになる。
それは途方もない根気と忍耐の結果だと思う。
作為があると自然じゃなくなる。
老子のいう『自然』というのは、過不足なく廻っている状態のことをいう。
ちょうどよくまわっている状態。
僕が農や植物のことを学んだときに感じたのは、この自然の状態(ちょうどよくまわっている状態)は人間にも当てはまるんだろうということ。
人間だって地球の一部なのだから、同じルールの中にいるはずだ。
だから、できるだけ『こうなってほしい』という作為を取り除けば、ちょうどよくまわるのだろうと考えた。
そして、それを実践してみているのだ。
そしたら、あっという間に10年くらい経ってしまった。笑
冒頭の実験とはこのことだ。
きっと老子も人生をかけて、実験をし尽くしたのだろう。
突拍子もないことを言ってみると、僕はあらゆる社会的な問題は『作為と無為のバランス』が崩れたから起こっていると考えている。
というより、無為の状態が自然なので、作為が起こると無為の状態に戻ろうとするエネルギーが働く。
あんまり詳しくないから不用意には発言できないけれど、熱力学のエントロピー増大の法則のようなものなのかもしれない。
この辺りはまだ言語化できなそうなので、またうまく話せそうなときにしようと思う。
なにはともあれ、老子だ。
老子のすべての発言に賛同できるわけではないだろうし、そもそもまだ表面のところしか知らないのでなんとも言えないけれど、自分の考えていることをうまく言葉にしている人と出会えるのは嬉しいことだ。
ありがてぇ、という気持ちになる。
だからなに?という感じでもあるが、言葉は灯台のようなものである。
私は道を照らされた。
僕は自然になりたいのだと、あらためて気づかされたのだ。
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