甘いタリウムは必然の香(13)
第三章 奇妙な依頼
1.マスターの謎依頼と事件捜査
「もうベイカー街は閉めたんですか」
有田が気まずい雰囲気を取り繕うように声をかけた。
「お邪魔してもよろしいですかな」
マスターは遠慮がちに入ってきた。
「どうぞどうぞ、何にもないですけど」
ホームズが椅子を勧めると、マスターは腰を下ろしてゆっくりと話し始めた。
「先ほどは失礼な言い方をしまして申し訳ありません。いい歳をして年齢を隠すつもりはないんですが、あの場での公表は控えたかったものですから……悪く思わんでください」
マスターが深々と頭を下げると有田は恐縮した。
「とんでもないです。頭を上げてください。令状がないんですから言いたくないことは言わなくていいんですよ。それにしても六十二歳にしてはお若く見えますよね」
お世辞のつもりはなく、有田は本当にもう少し上だと想像していた。
「いやいや、もういろんな経験をしてきてすっかり歳をとってしまいましたよ」
「フリーの雇われコックさんをしていたってことは、当時から相当な腕前でいらっしゃったんですよね」
ホームズが感心したように言う。
「まあね、腕だけが頼りの世界でしたし、ぼくも若かったから、『なんとかなる』と冒険をしてみたかったんでしょうね」
謙遜するでもなく、マスターの話しぶりは自信に満ち溢れていた。
「――ところで何か御用でしたか」
「実はホームズさんにお願いしたいことがありましてな。お話を聞いていただけますか」
「他ならぬマスターのお願いですから、私にできることでしたら」
マスターは、居住まいを正して改めてホームズに向き直った。
「先ほど、彩花さんが元気にされていたらしい話を聞きまして、昔大変お世話になった方なので、ご主人が亡くなった後も力を落とすことなく普通の暮らしをしているのかが気になりだしたわけです。そこで明日から五日間、彩花さんの尾行をお願いしたい」
「尾行……ですか? 彩花さんを?」
ホームズにとっても想定外だったようだが、有田はマスターの話に違和感があった。今はホームズが殺人事件の捜査で有田に協力していることをマスターも知っているだろうに、何故今こんな依頼をするのか不思議だった。それでも、ホームズが引き受けるはずはないと思いながら話の続きを聞いた。
「朝の八時から夕方の五時まででいいんです。どんな所に行ってどんなことをしているのか記録をしていただけるだけで結構です。誰と会ったとか、どんな話をしたかなど細かな調査はいりません。報告書も不要で、コーヒーを飲みにいらっしゃるときにでもお話しいただければ結構です。もちろん規定の料金をお支払いします」
有田は「しまった!」と内心で舌打ちした。今は難事件の捜査中だからホームズが断るだろうと期待していたが、報酬を口にされれば有田に勝ち目はない。なにせホームズは無報酬で捜査協力をしてくれているのだから……。
「わかりました。五日間ですね」
ホームズは迷うふうでもなく笑顔で即答した。
「ありがとうございます。やっぱりホームズさんは頼りになる方ですね。思い切って相談して良かった」
「詳しい理由を聞かないことも依頼のひとつのようですね」
「さすがですね。申し訳ないけど、できればその条件でお願いしたい。ただし、万が一にでも危険なことになりそうなら、すぐに中止してくださって結構ですからね」
こう言うと、マスターは来たときよりも笑顔になって満足そうに出て行った。
「大丈夫なのか? あんな怪しい依頼を受けて……」
「大丈夫よ。マスターに限って調査料を貰い損なうことはないわ」
「いや、そういうことじゃなくて……依頼の理由が不自然じゃないか」
「そう? 彩花さんって素敵な女性だから、マスターがアタックするつもりなんじゃない? あのふたりならお似合いかもよ」
ホームズの言い方に妙な違和感を覚えた有田だったが、昔から男女間のことになると知識も経験も乏しく、「そういうもんかな」と納得するしかなかった。
「でも、連続殺人事件の捜査はどうするんだよ。始まったばかりなのに……」
「あとは警察力で捜査してちょうだい。ニッポンの警察は優秀なんだから大丈夫でしょ」
「それって褒めてるのかな」
「そのつもりよ。まあ進捗を教えてくれたら、これまでの聞き込みデータと突き合わせて捜査の相談に乗ることは毎日でもできるわ。だって依頼された尾行は夕方には終わるんですもの。楽勝な仕事よ。こんな依頼が時々あるから探偵って辞められないわ」
ホームズは久しぶりにまとまった収入が入ることを喜んでいるようにも見えるが、こんな謎だらけの依頼が楽しくて仕方ないようにも見えた。
十月十九日、水曜日。有田は野沢と組んで、真鍋の会社の取引先相手の聞き込みに一日を費やした。取引先には品川方面の会社が多かったが、北区や荒川区にもいくつか出入りしていた。まずは早苗との関連がないかを調べるためにも荒川周辺を徹底的に調べた。しかし、真鍋の会社も取引先の会社も不景気で経営が楽ではないことがわかったくらいで、特段の収穫はなかった。
重い足を引きずって事務所を訪れると、ホームズはパソコンに向かっていた。
ホームズのパソコンには、過去に全国で発生した主だった事件がデータベース化されている。それに独自の行動分析学要素をプラスしているので、警察庁の情報分析支援システムには真似のできないホームズならではの大胆なプロファイリングが可能となっている。単純な事件であれば、発生現場の状況と被害者の情報を入力するだけで、必然的な犯人像を教えてくれる頼もしい存在だ。
「一日目の尾行の成果はどうだった?」
パソコン入力に区切りがつくのを待って有田は尋ねた。
「今からマスターへ報告に行くところだけど一緒に行く? 未明君の方で何か新しい発見は…………無かったみたいね」
有田の様子からすべてを察したようだ。刑事の捜査というのはほとんどが空振りで、有力な手掛かりとなる聞き込みなど一割もあればいいほうなのだ。
ベイカー街に行くと、美里がホームズに抱きつかんばかりに出迎えた。
「ホームズさん、いらっしゃい。カウンター席でいいですよね」
美里の案内でいつものスツールに腰を下ろすと、マスターはすぐにふたりの目の前でコーヒーの準備に取りかかった。
「いらっしゃい、どうでしたか」
コーヒーを淹れながら、ふたりだけに聞こえる声でそっと話しかけた。
「今日の彩花さんは午前十時にひとりで家を出て電車に乗り、新宿で小田急線から山手線に乗り換えて巣鴨で降りました。お馴染みらしい雑貨屋さんに入り、贈り物を探しているようでしたが、それから近くのカフェで昼食をとった後、今度は有楽町まで行って映画を観たあと、夕方四時には家に帰りました」
ホームズの報告には特段これといった特徴もないようだが、マスターは目を閉じてじっと聞いていた。
「ありがとう。何もなくて何よりだ」
そう呟いて、ふたりの前にコーヒーを置いた。
有田はコーヒーを口に運びながら、なんだかとても居心地の悪さを感じていた。違和感というほどのものではないが、もやもやしていると、続くホームズの話でそれはさらに大きくなった。
「実は……。今日は依頼の初日ということもあって、午前六時には彩花さんのお宅に着いていたんです」
『朝の六時?』
有田とマスターが同時に声を上げた。
「はい。屋敷の出入り口を確認しておきたかったのと、怪しまれないで見張る場所を確保しようと思いまして」
探偵が尾行するというのは、刑事より大変なのかもしれないと思った。刑事なら住民から怪しまれても警察手帳を見せれば事足りる。
「私が付近を散歩するように歩いていたら、彩花さんと会ってしまったんです」
「えっ! 初日から尾行がバレたのか」
有田が心配して言うと、
「違うわ。私は彩花さんと面識があるから、一応変装してたのよ。だから、彩花さんは私だと気づかずに会釈だけしてすれ違ったの」
「なら、問題ないだろう」
「違うの。彩花さんは家から出て来たんじゃなくて、駅の方角から歩いてきたの」
「……それはつまり、朝帰りってこと?」
「そう。昨日彩花さんに事情聴取したじゃない。それと関係あるのかな? って考えてしまうわよね」
彩花の行動はホームズにも想定外だったようだ。
「大丈夫ですよ。依頼の時間以外に何をしていても調べなくていいですし、報告も不要ですよ」
マスターの飄々とした言葉を聞いて、さらに居心地の悪くなった有田だった。
(続く)
怪しい人だらけ?
そうでもないか……^^;
自信がなくなってきたけど、勢いで書き続けます(爆)
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