【掌編小説】犬はどこへ行く
目が覚めたら、まだ五時五十八分だった。
今日は日曜日で、そんなに早く起きる必要はなかった。
昨晩、眠る前にkindleで本を読んでいたので、iPhoneが枕の左側に置いてあった。
『冷たいデザートの本』というタイトルの本を読んでいた。
ゼラチンや寒天を使った、冷たくふるふると震えるお菓子のレシピが美しい写真入りで載っている本だった。
最近ダイエットをしているので、おやつに寒天で作ったデザートを食べてみようと思って、Amazonを探して見つけた本だった。
レモンのコンポートを煮てからその煮汁を利用して作る、はちみつレモンゼリーの作り方を読んで、作ってみたいな、この長方形の白いバットは野田琺瑯のかな、とぼんやり思っているうちに眠くなって、電気を消して眠ったのだった。
そうだ、この白いバットを探してみよう、とAmazonのページを開いて、検索をかけて探しているうちに、またもう一度眠りに落ちてしまった。
道を歩いている夢だった。
うっすらと意識はあって、これは夢だ、とどこかで感じていた。
もう夜が明けていて、明るくなった部屋で眠っているせいか、夢の中もほのかに明るい感じがする。
道は、Lの字が横になった形で、右に曲がっていた。
道の突き当りの左側は、三段くらい段差があって、その上に木の扉があった。
壁は、ベージュ色の漆喰で上品に塗られていた。
扉の左側のちょうど表札がある場所に、食事中、という木の札がぶら下がっていた。
褪せたオレンジ色で塗られた木の板に、白っぽい文字で食事中と書かれているので、ぼんやり見ていると見落としてしまいそうな、あまり主張のない感じの札だった。
そうか、食事中なのか、と思って、階段は登らず、右に曲がって歩いてゆこうとした。
木の扉は幅が広めで、たぶんここは喫茶店なのだろうな、という感じがした。
扉に背中を向けたとき、右斜め後ろから誰かがやってきて、軽快に階段を登ってゆく足音がした。扉が、がらりと引き開けられる音がした。
すみません、今、食事中なんです、と、誰かが話している声がして、ふっと振り向くと、逆光で二つの人影が見え、そして、木の床の上をかちかちと軽快な爪音をさせながらなにか小さなものが走り出してくるのが見えた。
バロン、と、名を呼ばれていた。
その小さなものは、嬉しそうに飛び跳ねるようにして階段を走り降り、私の横を通り過ぎていった。長く垂れ下がった耳が、走ると右へ左へと揺れていた。狩猟犬のバセットハウンドだった。
少し走ると、きょとんとした顔でこちらを振り向いた。
胴体が長くて足が短いのでダックスフントのようにも見えるけれど、ダックスよりもっと足が太くて武骨な体形をしている。
黒い重そうな皮の首輪をしていたが、リードがついていなかった。
犬が逃げ出してしまったことに気がついて、思わず私は追いかけて走りだしていた。
バロンと呼ばれたその犬は、はしゃいだようにまた走り出した。
そんなに早く走れないので見失ってしまうかと思ったけれど、バロンは少しゆっくり目に走っているようだった。途中までは、ついてゆくことができた。
道の右側に、背の高い植え込みが見えてきて、そこでバロンは立ち止まったようだった。
追いついてみると、植え込みの下に座っていたのはバロンではなく、明るい茶色の縞模様の猫だった。
いったいどうしたんですか、突然走ってきてびっくりするじゃないですか、と不審者を見上げるような目つきで茶虎の猫が私を見上げてきたところで、夢から覚めた。
植え込みのところで、バロンは立ち止まったように見えたのに。
いったいどこへ消えてしまったんだろう?
なんだかすっきりしない気持ちで、とりあえずトイレに行った。
スマートウォッチを見ると、九時間も眠ってしまっていた。ちょっと寝すぎたせいか、頭がぼんやりしてうまく働かなかった。
犬を追いかける夢、は夢占いとしてはどんな意味があるのか気になって、少しインターネットで調べてみた。
おおむね良いことが起こる予兆のようなことが書いてあったので安心した。
本当は、夢の解釈を誰かにゆだねる必要はないのかもしれない。
不安になる夢を見るときは夜間の血糖値が低くなり過ぎているだけ、だとしたら、わざわざ誰かがインターネット上に書いた記事を読んでどんよりと暗い気持ちになるのは、あまり意味がない。
キッチンに立って、食器棚からキッチンスケールを取り出した。
ヘルスケアのアプリをiPhoneに入れたので、最近は食材の重さをよくはかるようになった。
キッチンスケールの上にプラスチックの白いボウルを載せ、0表示と書かれたボタンを押して器の重さを除く。
バナナの皮をむいて、中身をざっくり一口大に切って重さをはかる。小さめのバナナだったので、七十五グラムしかなかった。
再び0表示のボタンを押して、重さをゼロに戻し、無脂肪のヨーグルトを百グラムはかった。
バナナとヨーグルトを食べているうちに、少し頭がはっきりしてきた。
食べ終わった器を洗い、キッチンスケールの上に載せる。
この器は、軽くて使い勝手が良い。
続いて肉野菜スープを作り始める。
人参を乱切りにして、キッチンスケールに載せた器に入れてゆく。
百グラムになったところで、残りの人参はビニール袋に入れ、冷蔵庫に戻した。
片手鍋を用意してレンジの五徳の上に置く。
人参は、細胞がぎゅっと硬く集まっているような感じがする。たった百グラムなのに、切り終わってから鍋に入れるために掴んでみると、ずっしり重く感じた。
にんにくは皮をむいて頭と尻尾を切り、半分に切って中央の芽を取ってからはかると八グラムしかなかった。十グラムぐらいあるのかな、と予測していたので惜しいところだった。
鍋に水を五百ml入れて、人参とにんにくを入れて火をつけた。火加減を中火にして、沸騰するまでの間にキャベツを冷蔵庫から出す。
半切りになったキャベツをはがして、キッチンスケールの上のプラスチックのボウルに載せてゆく。はがす途中で千切れてしまっても気にせず、どんどん薄緑色をしたキャベツの葉の切れ端をボウルに積み上げてゆく。
百グラムになったところで、キャベツの山を掴んでまな板に載せる。
人参と同じ重さのはずなのに、薄く広く積み重なったキャベツの葉は、ふわりと軽く感じた。
形状が違うだけなのにつかんだときの重さの感じ方が違うのは不思議だった。
キャベツもざくざく包丁で刻んで、煮え立ってきた鍋に入れる。
一口大に切って冷凍しておいた鶏の胸肉を、冷凍庫から出して解凍してから鍋に入れる。
味付けに、中華スープの素を入れる。
最後にぱらぱらとオレガノを振って、中火のまま煮込んでゆく。
煮上がるのを待つ間、ヘルスケアのアプリに材料を入力し、鶏むね肉と野菜のスープとして登録する。
今日は、どうしようかな、と思った。
ここのところ、会社にパソコンを背負って出勤する日数が増えたので、ちょっと疲れていた。
できれば今日一日は、あまり予定を詰め込まずに過ごしたかった。
ぼんやりと考えているうちに、スープが煮上がった。深めの器にスープを盛り付けて食べ始めた。
……それにしても、あの夢の中の犬は、どこに行ってしまったのだろう。
確かに、あの植え込みのところで立ち止まったのに。
でも夢だから、車にぶつかるような危険なことはないだろう。それなら、自分の好きなところへ、どこまでも走ってゆけばいい。まだ陽は高いし、冒険できる時間はたっぷりある。
長い耳をゆらゆらと揺らして、飛び跳ねるように走ってゆくバロンの姿を想像すると、気持ちが軽くなるのを感じた。
<了>
■Photo
写真サイト:Unsplash
クリエイター:kyle smith