2023/11/02 観察する自己
心理学の本を読んでいたら、「思考している自己を観察する」というワークがあった。
やってみて、自分の中に「思考している自己」と「思考している自己を観察する自己」がそれぞれ独立して存在することを感じた。
そして、あれっ、と思った。
この「思考している自己を観察する自己」は、そういえばよく……毎日、接しているような……。
そう、私はこの「思考している自己を観察する自己」を使って、毎日日記を書いていることに気がついた。
もう少し厳密に言うと、「思考している自己を観察する自己」は、映画を撮影するときの16ミリカメラのような感じがする。
(「思考している自己を観察する自己」と書くと長くなってしまうので、ここから後は「観察する自己」と省略します)
「観察する自己」を通した映像を脳内で見ているとき、ビデオカメラのような生々しい映像ではなくて、ちょっと硬質な、抽象的な要素を含んだ映像として見えている。
ただ、風景は映像として見ているのだけれど、「思考している自己」は、映像としてではなく、音声として聞こえたり、すでに文章として記載されたものが脳内にぼんやりと見えていたりする。
かなり濃い灰色の紙に、タイプライターで打たれた文字列が、一行から二行くらい、ぼんやりと見えているような時がある。
その心理学の本には、「観察する自己」は評価をせず、ありのままを観察しているのだ、というようなことが書かれていた。
確かに、言われてみると、「観察する自己」は言葉を持たない。ただひたすら、黙って目に見えたもの、自分の心の内側によぎるもの、を見つめているだけで、沈黙しているのを感じる。
「観察する自己」が、いつもアシスタントのように一緒にいてくれるのを考えると、あまり「観察する自己」を苦しめるようなことをしてはいけないな……と思う。