で?これからどうするの?
サツキです。Twitterでは界隈を観察しています。(※界隈については過去記事の冒頭箇所をご覧ください)私には何の専門性もありませんが、様々な職種や専門性を持つ方と関われたり、最近では実際にお会い出来たりもして、なかなか充実した日々を送れているように思います。
さて、誰とは言いませんが、界隈を観察していますと「自分に土下座」「自分に絶望」等という言葉を見かける事があります。これは私個人の意見になりますが、簡単に土下座出来る人間を人として信用していません。元々土下座とは日本の礼式のひとつであり、簡単に行っていいものではなく、位の高い人間への畏怖の念を示したり、極めて深い謝罪をする時に用いられるものです。当たり前ですが、相手に対してです。自らの反省の様を身を以て表す事は大切だと思いますが、近年土下座という行為が単なるパフォーマンスにしか思えず、(こんなに反省しているんだからいいでしょう!!だって土下座だYO!?すごくない!?土下座までしちゃってるんだYO!?)と、見る側ではなくする側が開き直っているように思うのです。いいわけねーだろうが。そもそも土下座に至る前に対処出来た事あったろうがと思うのです。見る側の感想としては「またか」くらいしか無い訳です。
「土下座すれば許してもらえる」なんていう保証はどこにもありません。まして、自分自身に土下座して自分を許したとして、それがどう次へ繋がっていくのかと毎回不思議に思うのです。反省した!自分を知れた!繋がった!豊かな自分!繁栄!全て喜び!といくら主張されましても
あんたら一人で何やってんだ
と思う訳です。一体どこが繁栄してるんでしょうか。わかりやすく簡潔に教えていただきたいです。(行間も詰めてね♡)
結局、反省しているとか悪いと思っているというのも、界隈にとっては単なるパフォーマンスなのです。反省しているように見せているだけで実際は自分が悪いなんてこれっぽっちも思っていません。だから相手から「そうだそうだ!反省しろ!」等と言われようものなら
「何で反省してるのに更に色々言われなきゃいけないんだ!!もういいでしょ反省してるんだから!ほっといてよ!アンチのバカ!!」となるのです。もれなくセットで「どうせ私は大切にされてない!価値が無い!愛されてない!」が付いてきます。わーお得ーーー(棒)
自分を必要以上に責め立てたところで、現実は動きません。卑屈になればなるほど、周りから距離を置かれ、ますます孤立するのみです。そして、相手に許してもらえないことと存在価値は全く関係ありません。そこがきちんと区別できてない人が界隈にはいっぱいいるなぁと思いつつ、本日もnoteに書いて明らめるのでした。
~終~
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?