美しいは、さみしい。
恋人と出会って得たものは計り知れない、えぇそりゃあもう物質面も精神面も、ふんだんに、たーくさんある。
しかしその中でも私が、これを得たのはデカいなと思う感情があって。
恋人当事者であるあっくんも、“それを知れたことは大きいね”と同意してくれた。
それは、“さみしい”という感情のこと。
恥を忍んで言うならば、あたし、“さみしい”という感覚、正直よくわからずに生きて来たんだよね。
おそらく人並みに、さみしいとか誰かに会いたいとか、孤独とか、感じてはいるのだけれど…一体何が、どれが、皆様の仰る“さみしい”なのか、イマイチよくわからないまま何十年も生きて来た。
…と、思うじゃん?(?)
幼い頃、私の時代は “外で遊んで来なさい!”の時代(と、土地柄?)であったため、私は大体いつも外にいた。
遊び相手がいなくても、1人遊びは得意だった。1人で平気と思っていた。
当時暮らしていたマンションの廊下で、元校長の祖父の特権を活かして入手した “学校の黒板のカケラ” を最大限に駆使して、エア生徒達に謎の講義を始めてみたりもしたし、ゴム跳びのゴムを持ってくれる人がいないなら、妹の三輪車とマンションの柱にゴムを結んで、エアニンゲンをやってもらったりもした。
…と、思うじゃん?(??)
けどね、ここに来て突然、それらの1人遊びの記憶と同じくらい、今の私から見ると “嗚呼…きっとさみしかったんだね” と思うような、ちょっとかわいそうな、当時の自分の行動や感情も思い出すようになった。
徒歩30秒のお友達の家に行ったら、その友達はお昼ご飯を食べている最中で。
徒歩30秒なんだから一旦退散すりゃいいのにさ、私はその子の家の外で、その子がご飯を食べ終えるのを、ずーーーっと待っていた。
そのうちに、その子のお母さんが出て来てさ、呆れたように言うんだよね。
“気ィ散ってご飯食べんねん!帰って待っといて!”
…それで私は、
“でも…家に帰ったらお母さんに外に行けって言われちゃうし、どうしよう?”
と途方に暮れ、仕方なく自宅マンション前の定位置に戻り、花壇の葉っぱを擦り潰して緑色の液体を抽出することに命を賭けてみたり、2つ隣に住んでいる一人暮らしの名も知らぬおねえさんの家に押し掛けて遊んでもらったり、誰でもいいから知っている顔が通りゃしないだろうかと、マンション前を通るニンゲンをくまなく凝視する、ということをしてみたり…
今の時代じゃ考えられないが、当時は “1人で歩いて幼稚園に行きなさい” の時代でもあったため、仕方なく1人トボトボと行きたくもねー幼稚園へ出向いていたのだけれど、その時の私も、同じ制服を着たニンゲンは居ないだろうか?と目を凝らして道を歩いていた。
たぶんあれらの私、“さみしい”だよね。
少なくとも今の私が当時の自分の姿を浮かべると、しょんぼりさみしそうな印象を受ける。
だがしかし、いつしかそれを押し殺す癖みたいなのがついてしまったんだろうね、“さみしい”と感じることがなくなってしまった。
そして、“さみしいって何?どんな?” なんてことは口には出せないほどに、この世は“さみしい”で溢れているからさ、ほら歌詞とか映画とか小説とか道端とかにゴロゴロ転がってるじゃん?
だから知ったかぶって、
“さみしいよね”って、周りに合わせて生きて来たけど…
…あ!!
我が子達が、習い事の合宿や修学旅行等で不在の夜は、シーンとした中、さみしい…って思ったかもしれない。いや思ったな。あれが“さみしい”か!!
2人目の出産で長女に会えなかった時も、あれ“さみしい”だわ。
なーんだ、あたし“さみしい”ちゃんと知ってるわごめん!
…と、思うじゃん?あっしつこい?
……いや、あの、違うのだよ。
あたしの言ってるのは、そういう類の“さみしい”じゃあないんだ。
なんていうか、世間で言うさ、恋愛における“さみしい”や、友達と会えない時に発生するらしい種類の、なんていうか母性の絡まない類の“さみしい”が、わからなかったんだ。
自覚が出来なかった、と言う方が、ニュアンスとしては正しいだろうか。ニホンゴムズカシイヨ。
けどね!!!!!
あたしゃ、ついにさみしくなったんだよ!あっくんと出会ってね!!
もちろん遠距離恋愛だからというのもあるけどね、そこはあまりさみしくないの。
バイバイまたねの前夜や当日の朝、空港までの時間、バイバイの瞬間なんかは、そりゃあもう、あまりのさみしさに内臓がすべて飛び出してしまいそうには、なるけどさ。
けど日常では、あまりさみしいとは感じない。
顔を見なくても繋がっているという絶対的安心感はもちろん、
…ハッ話それる、それはまた今度、遠距離楽しいよ!の回(?)で。
あたしにとっての “さみしい” ってね、なんて説明したらいいか…
幼い頃からずーーーっと、とても美しいものを1人きりで見てしまった時、言語化出来ない謎の悶々が発生してたのね。
まるでこの世に1人きりのような、孤独のような、思わず泣きたくなるような。
この美しさを1ミリも狂い無く誰かに伝えたいような。
あわよくば隣で一緒に“美しいね”と言い合えたなら、どれほど──
…と、小説じみた罫線を取り入れたくなるような、哀愁の念。
同じように、とても美味しいものを1人きりで食べてしまった時や、面白いものや興味深いものを1人きりで見てしまった時…
とにかく私の心を震わす何かに、1人きりで出くわしてしまった時に発生する悶々でね、その悶々が、どうやら私の中の最大限の最上級の“さみしい”なんだよね。
それらの心震案件のこと、もちろん家族や友人とも共有したいと思うしさ、実際に共有して共感してもらえたら、そりゃうれしいよ。
うれしいんだ、けど、でも、1人きりで美しいものを見てしまった時に、どうしていま此処にあっくんいないの?!?!と、どうにもやり切れぬ思いに呑まれ、さめざめと泣いてしまうことさえある。
そんなことは、初めてだった。
だから私は、カメラにおさめられるものは記録をして、それが不可能な刹那の瞬間などは口頭で解説をして、そうして後から必ず共有をする。
そうすると、あっくんはいつだって、私の感動を正確に感じ取ってくれるし、感想だって必ずくれるし、ワタシフィルターのかかっていない新たなユニークな見解を述べてくれたりもして、それはとても、私の心を満たしてくれるうれしいこと。
でも違うんだ、いやうれしいよ、けどさその瞬間のさ、今ここのさ、この肉眼のさ、空気とか、タイミングとかさ、なんかさ、あぁ語彙力が、もう、しがない。面目無ぇ。
…幸か不幸か、いや幸なのだが、美しいもの発見センサーがズバ抜けている私は、この恋をしてから今日までの間、幾千もの美しいを発見し、その数だけの“さみしい”を感じて来た。
そのリハビリのおかげで、無事に健全(?)な“さみしい”をも知ることとなり(思い出した、というべきか)、3年前までの私では感じることの出来なかった“さみしい”を、享受している。
一見ネガティブとも取れるその感情を、これもニンゲンの、そして恋愛の醍醐味よ!と謳歌し、美しいものを誰よりも泣くほど見せたいと思える相手がこの地球に存在することや、美しいものを美しいと思える自分のこと、今ここにいなくてさみしいなと感じる自分のこと、そういえばあたしちょー愛してるわ。
── ねぇ AKIRA。
あっNANA /矢沢あい みたい?!
あたしが送るすべての美しい写真はね
あたしの“さみしい”だよ
“ナナ” とか “モモ” とか “キキ” は良いのにさ、
なぜ “アア” とか “イイ” などは、違和感があるんだろうね?…ハッ
もしも遠距離恋愛が終わりを迎えて、同じ家に帰る日が来るのだとしても、あたし、送るよ。
道端の花とか、一瞬だけの夕焼けとか、1人きりで見てしまった美しいものを、すべて。
…そう言ったらきっとあっくんは、
“よぉ〜し!すべてを引き伸ばして印刷して額に入れよう!”とか、
“おい、散歩終わったらさみしいごっこやるぞ”って、私のさみしいシリーズを一緒に見返して、さみしいね美しいねさみしいねって遊んでくれるに違いない。
そのことはきっと、黒板で講義をしたあの日の生徒役をやってくれるということで、柱の代わりにゴム紐を持ってくれるということで、どっちがより多くの緑の液体を抽出出来るか対決をするということであり、記憶の私の救いなのだと思う。
そう考えると、遠距離の“さみしい”がなくなるのはうれしくて、けど物理的に今の私が感じる“さみしい”の発生回数が減るのはさみしくて、だから私はさみしいを愛しているし、さみしいさみしい書きすぎてゲシュタルト崩壊なう。