宝くじという遊戯。と、波動。
300円の宝くじをバラで3枚購入したら3000円が当たった、ということが立て続けに起きているんだけどさ。
元々宝くじは、頻繁には買わない主義で、買うとしたら、
“たまたま出先でタイミング良く売り場を通りかかった時”
尚且つ
“買っちゃお☆と感じた時”
だけと決めているのだけど…
宇宙の法則的には、
“宝くじは購入する時の波動が大切”と言われているし、もちろんそれは大前提としてあると思うんだよね。
しかし、そもそも宇宙の法則の基本のキをふまえると、
“過去〜現時点までに放たれた波動により現象は創ら続けている”
であり、
“(宇宙の法則・引き寄せの法則は)24時間常に発動しているもの”
であってだね…
…てことはだよ?極端な話、
“よし、今から宝くじを買うぞ!波動を上げよう!良いこと考えて良い気分になるぞ〜!”
“ハッ、そうそう!宝くじ買いに行く前に、まずは金運上昇の神様がいる神社に行って…”
…と、思い付く限りの波動上げ大会をやってみたところで、例えばその直前まで何気なく閲覧していたTwitterで変な討論に参戦して、顔も見ぬニンゲンを叩きまくっていたり…
たまたますれ違った美女により誘発された妄想が良からぬ方向へ進み、いつの間にか変幻した自分責めや恋人への悶々に苛まれたり…
それらのドス黒い波動を前に行われる即席波動上げ大会は、その場凌ぎにさえならず、トータル的には普段から蓄積されたドス黒い悶々波動の割合がデカすぎて、なんていうか、神社行ってもなんの意味もなさないというか…
普段から発しているドス黒いのを秒で帳消しに出来るレベルの参拝が出来るのなら、いいけどさ。少なくともあたしゃそんな人、いまだかつて見たことがないね。
“毎日2時に起きて、最低でも1時間は瞑想。
その後2時間走り、必ず神社にも立ち寄り参拝。
家中をすべて完璧に整え、チリホコリも許さない。
普段から天国言葉を多用。
頻繁に各地の神社を訪れ参拝。
徹底して身体に良いものしか摂取しない。
常に全てへの感謝を怠らない。
自分は波動が高いんです”
…と豪語するニンゲンが、人としてあり得ない言動行動を撒き散らすのを間近で見て来たあたしとしては、なんていうか、そういうことじゃねぇ!!!なんだ。
そこまで何年も徹底的に“波動を上げる”を実践しているのは、OK。わかる。いいね。よろしいよ。
しかし、
“…いや、波動が高いニンゲンだったら絶対やらないことをやってらっしゃいますけど?!”
…を目の当たりにするたびに、波動とは何かを真剣に考えさせられた。いいモデルケースとなってくれた。
行動の内容ではなくて、その時発している波動がどれだけ大切なのかを、ソイツは身を持って体現してくれたような感覚でさ。
そこで得た感覚を持って己を振り返ると、まーまー思い当たる節が出て来ること出て来ること。
とてもありがたい学びとなり、あの時得た感覚を活かし、己の波動チェックを心掛けている。
たぶんソイツは、ドス黒い波動を日々放ちながら参拝その他諸々の、“波動を上げる”をやっていたんだろうと思う。
…ソイツ。笑
あっあたし口悪いんだごめんね、けど今のあたしの波動的に、“あの御方”なんて発するほうが、抵抗の波動出てドス黒いことになっちゃう。
普段から、
【今、気分良くいること】が大切でさ。
そしてそれが、ハリボテやイカサマではないかを見極めること。
似非ポジティブは、ドス黒いと同等もしくはさらに漆黒ダークネスを呼び起こすものだから、ちゃんと敏感になってあげること。己の本心にね。
ドス黒い感情が自然発生しても、そこから黒に、ダークグレーに、グレーに、、と、思考の力でいくらでも方向転換出来るから、安心してドス黒いのを感じて、すこーし落ち着いて来たら、ね。
宝くじ云々抜きにしてさ、それらの波動の集大成が随時常に24時間現れ続けているってだけの話なんだもの。宇宙の法則は、紐解くと本当にめちゃくちゃドチャクソにシンプル。
そんで、【今、気分良く過ごすため】に、思考をコントロールする練習を日々心掛けたいね、ということでさ。
あたし本当にここでつまずいたんだわ、数年単位で。
どーーーーしても思考をコントロール出来ず、暴走する思考とそれにより活性化された感情を虚無の目で見つめるしかなかったね。
でも出来る、大丈夫。
全日本ネガティブ女王選手権大会首位のあたしにだって、出来たんだもの。
思考なんてコントロールするもんじゃねぇ、勝手に湧いて来るんだ!!と憤慨していたこのあたしが、だよ。だから大丈夫。
いろーーんなことが不満で、なんとかどうにか自分の人生を良い方向に変えたくて、それでせっかく宇宙の法則というものに出会って実践しているのに、それらの努力が水の泡じゃん…という思考回路や行動パターン・フォーカスの先、をお持ちの方を、非常に多く見かける。
…いや、ほんの少し前のあたしも、そうだったよな…と、趣味の考察・分析に興じて思うことは、なんていうか…
“私は(僕は)間違ってない!”を証明することに、多くの思考を費やしている?注ぎ込んでいる?慣れ親しんでいる?…ごめんニホンゴムズカシイ。
それこそまさに、自分がそうだったから、とってもわかるんだけどさ。
己自身が無自覚で“間違ってない!”をベースにしてしまっているから、ちょっとでも己の意向にそぐわないものを見つけるたびに、これもおそらく無自覚に、“あなたは間違っている”という烙印を押されたような気になっちゃって、だから無自覚に、“いーーーや、自分は間違っていない!!”という思考が発動してしまうんだよね。
そうしてまた、“自分は間違っていない”の証拠を探す旅に出る…と。
あたしも永らくその無自覚と共に生きて来たし、ていうかニンゲンって証拠が好きだよね。
けどその証拠って、誰に向けてのものなのか?
おそらくその大半は、“自分自身がわかっていればそれでいい”という類のものなのでは?
そんでさ、以前の職場でニンゲン観察をしていたとき、発見したんだ。
全員の愚痴や言い訳(個人的に、言い訳は大切と思ってる。後述出来たら補足する)を満遍なく平等に並べてみてさ、その奥にあるものを見に行ってみたら、全員に共通して出て来るのが、“自分は悪くない”。
そこを更に掘り下げて行き着くのは、
“自分はこんなに頑張っている”
(…なのにアイツは怠けている・…なのに評価してもらえないetc)
“自分はこんなに我慢してる”
(…なのに奴等は自分のことばかり考えててズルい・…なのに奴等の尻拭いをしなければならないetc)
だった。
(地球的に)真面目に努力をし、我慢を重ねているニンゲンほど、その濃度?みたいなのが濃くてさ。
だからきっと、一見不真面目だったり不誠実だったりする同僚のことや、ちゃっかりズル賢くのし上がって行く同僚を見て、なんていうか…その同僚の行為そのものよりも、実は“頑張って(我慢して)来た自分は間違っているはすがないんだ!!!”を主張したくなっちゃって、証明したくて証拠が欲しくて、だから愚痴大会を繰り返していたのかな?と思ってさ。
…ねぇ待ってちょうだい、あたし、宝くじと波動の話してたんじゃなかったっけ…。
…ま、自然にこのような流れになったってことは、おそらく宝くじで楽しく遊ぶヒントや、波動チューニングへのヒントになっているってことで、どうかここはひとつ…。
そう!思い出した!
宝くじ買う時もそれまでの波動も大切だけど、大切なのは、購入後〜結果発表までの波動も非常に重要と思っててさ。
なんていうかね、体感的に、なんて説明すればいい?
例えば当選番号が12345だとしてさ。
でもね、変わるの。(?)
購入した時点では、当選番号は決まっていない、“?????”じゃん?
そんできっと、多くのニンゲンは、抽選日に当選番号は決まり、それは不動のもの、と捉えているじゃん?
けどね、宇宙の法則を徹底した宝くじ遊びをするなら、そして量子力学のシュレーディンガーの猫の観点から言っても、“己が確認する瞬間”までは、当選番号って決まってないんだよね。
ドス黒い波動多めDaysの当選番号が12345だとして、穏やかハッピーDaysの当選番号は14523。みたいな。逆も然り。
購入時に付け焼き刃の参拝などをするくらいなら、宝くじのことは一旦忘れてさ、日々己を観察し、他人への攻撃や証拠集めをやめてさ、なるべく心地よい時間を1秒でも多く…と心掛けているほうがさ、人生には、いいよね。
そうやって日々心地よく過ごした波動は、必ず1秒後からの“心地よい”に繋がっていてさ、何よりの恩恵と思う。
それは結果的に、当たり外れなどは気にならぬ領域まで己を連れて行ってくれるものでもあって、だからきっかけは宝くじでもライブチケット抽選でもおみくじでも、くじの類じゃなくても、なんでもいいんだけどさ。
いかに心地よくラクに過ごすか、それに使えるものはなんでも使っちゃえ!って、思っています。
宝くじはお金に繋がるポイント?地点?であり、お金はエネルギーと言われていて、だから今回の当選は、
“わーい!エネルギーが10倍になって帰ってきたー!”と、まずは思ったんだよね。
金額にしてみたら、欲しい靴下1足も買えない程度の金額なんだけど(こないだ通りすがりに見つけたDr. Martensの靴下ちょー欲しいんだ!ちょーかっけぇやつ!)、、
…でも、宇宙の法則に全振りの全信頼を置いていると、今のあたしが100億円当たらない理由がとてもよくわかるし、Dr. Martensの靴下が然るべき時に手元に来ることもわかるので、ただただ、わーいエネルギー10倍でーす!と、この気持ちをまた次なる波動チューニングに利用する…という感じ。
なので、宝くじは遊戯という表現をしたんだ。
地球の遊びはたくさんあって楽しい、エンターテイメント、そしてどの遊びも、日々の一瞬一瞬の己を心地よくするツールだと思っているから、戯れたい!って思うんだ。
おしまい!
あっなんか後述するって言ったね、なんだっけ、あっ“言い訳”の補足か。
よくさ、世代なのか何なのか、昔から“言い訳はするな!”が蔓延る世界であたしは生きて来てさ。みんなはどうだろうか。
とにかく言い訳はカッコ悪いとか、おまえの言い分など聞かぬ!みたいな印象が、個人的には強いんだけどさ。
けどさ、例えばこちらが謝罪を受ける側だとして、マニュアル通り(?)にただ一言ごめんなさいを言われて終わるよりも、言い訳・言い分を聞いた方が、あたしの場合は満足するんだよね。
なるほどそんな風に考えていたのか…とか、捉え方がまるで違ったのだ…とか、そんな理由があるとは知らなんだ!みたいなことが、圧倒的に多かったからさ。
言い訳の中に隠れているもの、そしてその価値たるや …みたいなのを、嫌と言うほど痛感して来たから、だから個人的に、自分への言い訳も含め、歓迎すべきものと考えている。
情状酌量の余地、みたいな…いや裁きとはまた違うんだけどさ。
しかし正誤の判定をしたいという欲がある時点で裁きだし、どのみち裁きというものを経由するのであれば。
こちら側に“これは情状酌量の余地があるぞ”と思わせてくれるアクションは、
“ごめんなさい”の6文字の中でなく、
“だって〇〇だったんだもん”という言い訳の中にこそ潜んでいると思うんだ。
おしまい!