金木犀を追いかけた
ここ北国には金木犀が無い。
はずなのに!
夕暮れ時に散歩をしていると、どこからともなく金木犀の香りが漂って来ただなんて、信じられるかい?
しかも、花木が鼻先にあるかのような、濃密で濃厚な芳香…。
どこかのお宅で、例えばお風呂で金木犀の香りの何かを使っているのか?とか、どこかのお宅の芳香剤か何かか?とか、いろいろ考えたけれど、そんな人工的な香りではなく、間違いなくこれは、本物からしか漂わないあの香り。
海馬やらなんやらで、脳の仕組みとして、
“嗅覚は脳に直接働きかける”
“ゆえに香りは記憶をダイレクトに呼び起こす”ことは知っていたし、
中学生の頃、私が制汗剤を振り撒いている所に遭遇した母が、
「…あら!?あららららら!?やぁだぁ!それ、学生時代の好きな人の匂いがするぅ〜!!!」
とハシャぎ始めるもんだから、私は思春期反抗期を一旦休止して、制汗剤を部屋中に噴射、リアル中学生&おもひで中学生の女子2人でキャーキャーしたりもしたし、だから、わかってる。
脳のデータ処理部門では、ちゃんとわかっているんだ。
“この金木犀の香りによって、13歳まで暮らした大阪のいつかの記憶が蘇って来ている”と。
しかしニンゲンとは不可思議なもので、私は一瞬、ほんの僅かのあいだ、此処が何処なのか、自分が誰なのかを見失ってしまった。
だって、金木犀の香りと共に漂う他の匂い、例えばお魚を焼く匂いとか、どこかのお宅の排気口から溢れ出すお風呂の匂い……日本の、いや日本の一部の地域にしか暮らしたことはないけれど、おそらく夕暮れ時の日本の道路に多く漂っているはずの、あの独特の、匂い。
それに加え、茄子紺の空や肌寒い空気、スニーカーを履く足元の感覚、ひとりぼっち、そういうのが全て、見事なまでの完璧な演出で、“帰り道”を再現していたから、だから私は私を見失ってしまった。
“早くおうちに帰って宿題しなきゃ”と“コンビニに寄って子ども達にアイスを買おう”が同時に存在する感覚は、ものの数秒とはいえ、酷く私を戸惑わせた。
17時に帰る約束なのに、時計は既に18時に近いということや、その時刻を指す腕時計は2代目で、本当は初代の腕時計の方が気に入っていたこと、宿題も体育のマラソンも嫌だなということ…
大人になった今思うと、当時の私の胸を占めていた悩み事の大半は、愛おしく可愛らしい、ささやかなことのように思えるけれど、当時の私にとってのそれらはとても“真剣で深刻”だった。
その“真剣で深刻”の感覚までもが蘇って来た数秒間、ほんの数秒間で、走馬灯のように様々な思いが去来した。
母になった私は、あの感覚で我が子達に向き合えていたかなとか、今の私なら簡単に買えてしまうチープな腕時計をあんなにも大切にしていたなぁとか、もう、帰っても、ご飯を用意して待っていてくれるお母さんはいないんだな、とか。
…それらの思いに加え、ワクワクしていた気持ち、例えば明日はあの筆箱を持って行こうとか、明日の放課後は習い事がないから遊べるぞとか、帰ったら好きなアニメを見ながらご飯を食べられる曜日だとか…
快も不快も、当時の私の胸を占めていたあらゆる感覚が突如として現れ、そしてまもなく消えてしまった。
あの懐かしい感覚が消えてしまったことが悲しくて、もう少しの間だけ見失っていたくて、だから私は金木犀を探した。ヘンゼルとグレーテルのように、匂いのカケラを辿れば御神木(?)に辿り着けるような気がしたし、そうしたらきっと、もっと当時の感覚に浸れるかもしれない、と考えたから。
なんとなく左前方から濃密にまとわりついて来るその香りを追いかけて、麻薬探知犬のように神経を研ぎ澄ませ、町内をただ歩く。
しかし唐突に、匂いまでもがフッと完全に消えてしまった。どう頑張っても麻薬探知犬やってもダメで、金木犀のキの字もない、残ったのは若干不審な動きをする私と、秋の終わりの空気だけ。
──冷えて来た。アイスを買って帰ろう。
そう思った時、これまた不可思議なことに、涙が出て来た。
あの頃の私が歩いた金木犀の帰り道の先が、果たして本当に“今”なのだろうか。
あれから転校をしたり反抗をしたり、恋をしたり勉強をしたり仕事をしたり、遊んだり歌ったり、結婚してみたり離婚してみたりして、気付けば42歳、一家の主人にしては頼りない、しかしすべての責任を負う指揮官である私は、あの頃描いた私なのだろうか。
時折ふと、すべてを投げ出し、なんの責任も心配もなかった頃に戻りたいような衝動を感じることがある。
ご飯を食べて宿題をして、コタツでウトウトしていたらお布団が敷かれていたような、あの頃。
あの頃の私が喉から手が出るほど欲しがった“自由”は、驚くほど多くの責任を伴うものだったし、そのことに時折たじろいじゃうから、だからすべてを投げ出したくなってしまう。
母にまでなっておきながら、私はつくづく“ニンゲン”も“オトナ”も向いてないな、と思う。
それでも生きるしかない、ニンゲンでオトナの今の私に、どこかの誰かが金木犀を追いかける遊びを提供してくれたのかもしれないね。
たぶんだけど、そして上手く言えないけど、マラソン大会や宿題と、オトナの今抱える悩み事とでは、心や思考の使用領域は、そんなに変わらないんだと思う。
あれから身に付け続けてしまったあれこれのせいで、とても真剣で深刻なことのように思えるだけで、ほんとうは、そうでもないのかもよ?
そしてほんとうは、オトナの今も、明日の筆箱や放課後を楽しみにする気持ちを持てるものなんだと思う、あの感覚を思い出せないだけでさ。
己の心には大変敏感になったと自負していたし、年々、日に日に、“純粋純朴な子どものように生きる”のスキルは高まっていることを実感しているけれど、きっとまだまだ見落としているカケラで溢れ返っている、そのことを教えてくれたのかな、金木犀。
だとしたら、ありがとう。