ヤツ
「キャッ、キャッ、キャッ」
ヤツが来た。
また啼いている。私を挑発しているのだ。カーテンを開けてオレを視ろ、と。
その手に乗るものか。
私はベッドに横たわったまま目を固く閉じ、下腹に意識を下ろして、長く息を吐く。
そして深々と吸い込む。これ以上吸えないところまで吸い込んだら、また細く長く息を吐き、吐ききってから、ゆっくり吸い込む。いや、吸い込もうとする。
苦しい。肺に空気が入ってこない。
「キャッ、キャッ、キャッ」
息を吸わなくては。
ヤツにしてやられたくない。
横隔膜が引き攣る。鼻腔に空気の小さな振動を感じる。
顎関節がかすかに上下に震え、その震えが頬骨へ、前頭骨へと、そしてまた下顎へ、頸椎へと伝わっていく。
「キャッ、キャッ、キャッ」
呼吸が止まっている。横隔膜を動かさなくては。空気を吸い込まなくては。
苦しい。
「キャッ、キャッ、キャッ」
両手が拳に握り締められる。腕がブルブルと左右に動く。私は震えを止めることができない。
息を吸わなくては。吸い込んで、ゆっくり吐かなくては。
全身が震えている。
「キャッ、キャッ、キャッ」
体の震えがしだいに収まっていくのが感じられる。
やがて息苦しさが消え、脳のなかに静けさが広がりはじめる。無音の空間に投げ込まれたような静寂。
体の震えが完全に止まり、呼吸をしていないことが心地よく感じられはじめる。
このまま永遠に呼吸を止めて横たわっていたい。この静かな安らぎのなかで。
もうなんの心配もない。もがく必要はない。ただ身を委ねるだけでいいのだ。
「キャッ、キャッ、キャッ」
突然、腕が大きく動こうとしているのが感じられる。
いけない。抵抗しなくては。
そんな思いが脳裏をよぎるものの、私は甘美な全き静止の世界から抜けだすことができない。呼吸の止まった私は、ヤツの思うがままだ。
腕を動かすべきでないのはわかっているのに、両手は私の意思を無視してベッドに掌を突く。上体が起き上がり、両脚がベッドの外へ出て、足が床に付く。私はいまやベッドから立ち上がっている。行ってはだめだとわかっているのに、両脚が私を窓辺へ運んでいく。両手がカーテンへと伸びる。
「キャッ、キャッ、キャッ」
両手が大胆にカーテンを引き開ける。
「キャッ、キャッ、キャッ」
私の目は視る。
勝ち誇ったように赤く光る瞳を。
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