怒ってしまう人

「怒る」という行為は、非合理的だと思う。

怒られるたびにそう思ってきたし、今この瞬間にもその考えは変わらない。怒られて良かったと思えたことは一度もない。怒られた経験への感謝を述べる人もいるが、それは、その人が怒られたことを感謝できるくらい優れた人格者だというだけで、その人は怒られなくても成長できただろう。

「組織を引き締めるには厳しく言わなければ」という時代錯誤な考えを、令和の時代になってもまだ持っている人が少なくないことに驚く。時流の変化についていくことができず、自分が受けた指導をオウム返しに下達することしかできず、しかもそれを正しいと思い込んでいる。狭い、狭い視点しか持てないのに、年功序列でマネジメント層になってしまったのだろうか。

海外の研究では、上司が部下を叱責した場合、叱責された個人の創造性が大幅に落ちることが、遥か昔に示されている。それだけではなく、チームメンバーや、叱責されている場面を目撃した人の創造性すらも大きく落ち込ませることが分かっている。それでも怒る。怒ってしまう人がいる。合理性のかけらもない。それなのになぜ怒ってしまうのか。

怒る人のほとんどは、責任感から怒っているのだろう(と、思いたい)。怒る以外のやり方を知らないか、怒ることが正しいと思っているか、怒ることが悪影響であることを知らないか、という問題はあるが、怒ることによって、自分が組織に貢献しようとはしているのではないかと思う。ただ、その時の主語はあくまで「自分」であり、怒られる側には寄り添っていない。

お笑いコンビ・バナナマンの設楽統さんが話していたが、怒る人は「経験の幅が狭い」んだそうだ。自分はこういうやり方で成功した。でもあいつは違うやり方をしている。そのやり方では上手くいかないに違いない。こっちのやり方でやれ!となってしまうそうだ。一理あると思う。

TBSアナウンサーの安住紳一郎さんも、局の指導に従っていたら、その局の平均的なアナウンサーにしかなれないと考え、上司の指導には従ってこなかった、というような話をされていた。安住アナの天性の才能・バランス感覚があってこそのやり方という気もするが、これもなるほどと思わされる。

私は、怒られると、とても悲しい気持ちになる。ごく自然な感情の動きだと思うが、生放送に臨む職業である以上、心技体の「心」が不十分な状態で100%のパフォーマンスを発揮することは難しい。

折しも、世間では、女子テニスの大坂なおみ選手のことも話題になっているが、いかに自分のメンタル面の平衡を保つかということは、技術を磨くことと同じぐらい重要だと私も考えていて、「怒る」という行為は、それが理不尽であればあるほど、簡単にその平衡をぶち壊してしまう。

怒られたら悲しいし、つらいし、憤りも覚えると思う。本当に理不尽だと思う。だからこそ、怒られることを恐れないでほしいと思う。

怒られてもいいから、思い切って、自分の意思を押し通して、自分の正しいと思ったことを表現してほしいと思う。それはきっと自分にとって素晴らしい経験になるし、妥協のない、自分の責任の元で作り上げられたものになる。素晴らしい指導者から有用な助言をもらえるかもしれない。

怒られることもあるだろう。1つのやり方しか知らない視野の狭い人からつまらない小言をもらうこともあるだろうし、怒ることが人を成長させると勘違いしている時代遅れの人から、良く分からない叱責を受けることもあるかもしれない。でも落ち込む必要なんて全然なくて、そういうセンスのない人たちが何か言いたくなるくらい、あなたのやったことが、斬新で、尖っていて、面白いものだったということに他ならないのだから。

怒る人を馬鹿にしてはいけない。その人にはその人の正義があって怒っている。でも、その人のために仕事をしているわけではないんだから、その人のやり方に付き合う必要はない。怒ってしまう人にも寄り添って、ちょっとだけ申し訳なさそうな顔をして、神妙な感じでお詫びの言葉を口にしよう。そうしたら、言われたことは思いっきり無視して、自分が正しいと思う仕事をしよう。自分の仕事を待ってくれている人たちのために。


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