「いずい」の正体 「日本の気配」武田砂鉄
人気コラムニスト、武田砂鉄さんの新刊「日本の気配」を読みました。
主に仙台で使われる言葉で「いずい」という言葉があります。
「いずい」とは・・・「しっくりこない、違和感がある、おさまりが悪い」といった意味。
テレビやネットを見ていて「なんだかいずいな」と思うことがあります。
例えば、「○○させていただく」の過剰な乱用や
トイレでの「いつも綺麗にお使いいただきありがとうございます」
ネットでの度重なる炎上騒動
なんか、いずい。
この本を読むと、その「いずさ」の正体がなんだかわかります。
さらに、「あ、実はこれいずかったんだな」と気づかされ、はっとした気持ちになります。
武田氏は、梅雨空のようにどうも心地悪い「気配」の正体にズブズブ入っていきます。政治の気配。テレビの気配。ネットニュースの気配。なんとなく感じている居心地の悪さについて。
果たしてその「居心地の悪さ」について私は自覚的であるのか?もはや慣れているのではないか。もはやおかしいと思わなく、受け入れてしまっているのではないか。その「居心地の悪さ」を指摘する姿に清々しさを感じます。
テレビやネットの空気を見ていると、何か問題が起こると急いで解決したがります。本当の原因が何かを解決せずに、なんとなくの原因を突き止めたい。
「コミュニケーションを「能力」で問うな」というコラムでこんな一節があります。
自分と誰かのコミュニケーションって、自分と誰かによってのみ構成されるものではないと思う。どの瞬間、どの対話、どの目配せであっても、自分と誰か以外のいくつもの要素が関わって来る。
「コミュニケーション」と、コミュニケーションという言葉に何食わぬ顔で「能力」が付着することに慣れてしまったが、コミュニケーションなんてものは、そもそも自分と誰かの能力で測られるものなのだろうか。
そう、この気づいたら「何食わぬ顔で付着する」感じ。
さらに、冒頭で書いたトイレでの「いつも綺麗にお使いいただきありがとうございます」については、以下のように指摘します。
直接指示するのでなく「わかってくれるよね」という本心をにじませた言葉づかいが方々に増殖しているのは、私たちが察知する能力を高めたことと、直接的にモノを言うことが憚られる社会になったことの双方が絡み合っている。
ジェーン・スーさんが著書「貴様いつまで女子でいるつもりだ問題」で「そんなにびっくりしなさんな」と話していました。何か嫌なことがあった時に、「あなたの今の言葉に傷ついた」と言えばいいものの、「びっくりしちゃった」と言うことで、嫌な気持ちという本心をにじませる。
本心を言わないけど、相手には「空気読んでよ」とにじませちゃう感じ。
コミュニケーションってタイマンではない。私とあなたの間には、いくつもの要素が入り込んでいる。
私の目の前にあるものは、想像以上に複雑。いろんな物事が絡み合ってできています。もっと多面体に物事を見れるようになりたいと思わせる一冊でした。