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東北舞踏 三角標 舞踏オープンワークショップ 武井碩毅

12月6日 保呂羽を出て東京へ。1カ月と少し滞在したけどもっと長い間いたみたい。僕なりにちゃんと保呂羽に住んだから、全然あっと言う間じゃなかった。出発の朝に石田さん家に行って挨拶して、最後に握手して出発した。良規さんともよく握手したけど、こんなに誰かに触れる生活はあんまりしてこなかった。身体の接触を通した関わり合いは、言葉には乗らない気持ちがあった。

(そういえば家主とは握手したっけ。)

舞踏公演について、とても繊細に描かれた記事があるのでそちら参照。

舞踏公演の前に、三角標のミミさん先生によるオープンワークショップに参加した。
この線の内に入ったらすべて捨ててください、肩書やその偏見は捨てて真っ白になるような旨のアナウンスがあり、舞台に入る。

そこでは言葉も捨てて直観のみで体を動かしてみるという難題をこなしてみた。複数のお題を一個づつみんなで体験し、最後にひとつながりの舞踏を講演する。一人のものも二人一組のものもある。だから言葉や目でないところで対話していた。

・二人肩を合わせて、できるだけゆっくりと、一緒に手をあげる。
せっかちってどんなときに発症するのか、焦っているときとか忙しい時、ほかに気になる事があるときなのか。だからゆっくり手をあげようとしても、時間に耐えきれない。なんとかその心を排して、社会から意識を離してWSのペースに合わせる。
話せないし見れないから、打ち合わせなしの本番になる。最初に不ぞろいなのはお互い手で話し合っているから。でもだんだん落ち着いてきて、緊張もほぐれると、本番であることも忘れて、気づいたら息もあっていた。と僕は感じた。

・鏡 向き合って片方の姿を真似する
相手の動きを見て、自分の体を相手に合わせるという。手を挙げて気づいたら足も動いてて、みたいな結構集中しないと追い付けない。向き合う照れくささとかは途中から埋もれてった。集中して埋まったときは少し相手に近づけた気がした。
あと普段ない動きも多かったから、自分の頭の中と現実の姿が結構ずれてるなと。そんな動けないよってことも。

・腐るキャベツ
二人で腐りゆくキャベツになる。だから最初はしゃきしゃきで徐々に腐敗したキャベツになる一連の姿になる。包み包まれ合うのか、秦のように垂直に立つのか、またみずみずしくなるのか。ただふたりでという事だけで、それぞれキャベツした。みんな頭の中のイメージは違うかもしれない。でもなんとなくみんなふたりでやってた。勘違いしながら、キャベツはできる。

思い返すと包み包まれるような指示はあったっけ。僕も正直お手本をなぞるように動いてたけど。お手本のおかげでできたのか。お手本は無くてもキャベツはできるのか。


邪魔な意識でなく直観とか、意識の深いところにある根幹の何かを探しなさいと呼びかけられていた、と勝手に解釈している。でもどうしても思い出すのは二人一組のもので。このような対話に関心が寄って振り返っている。

話さないほうがいいね、ってよく聞く言葉だけど、どう隠すかは体裁を保つうえで大事になってる。知ってるふりをするというの。言葉は社会の手垢にまみれすぎててたまに疲れる。だからただ関わりあうという事が心地よかったし、それだけで楽しかった。打算も偏見もないし。

身体的な関わり合いは僕の周りだといけないことになってると感じる。変に勘ぐってしまうし気にしてしまう。あんまり持論を進めると厄介事が増えるので、握手は心地よかった、という話を書きたい。

より直球な対話、言葉を介した思考に依存した会話じゃない、より感覚にレベルの関わり合い。まさに人と干渉してる。力とか、その強さは言葉を吹き飛ばすくらい強い。

そして舞踏WSのように繊細に関わり、合わせあう対話。合わせようとして捨てた自分の先にありそうな自分の見つけ方。

何かになろうとゆっくり動いていると、体を支えようと自分がよく見えてくる。そんな動きを、普段の生活とか会話に重ねてみたWSだった。とても良い 体験 をした。その後、舞踏を 鑑賞 した。 

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