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森とつながるすみあそび展 朱紅shukou/育子 (記:武井碩毅)
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夏休みの宿題が終わってなくて、ちょうど漢字を書き写してる時に出てきた差し入れのナスの煮物のことずっと覚えてる。お父さんもそんなに怒るくらいなら少しくらい手伝ってほしいものだけど。
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選んだ言葉は農民藝術概論綱要のフレーズ
漢字は何回も書かないと覚えないくらい難しい。何回書いても忘れてる。一方で、郁子さんの書はなんかしっくりくる、なんかわかってしまうから不思議だ。
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この展示は、藤源寺の裏山でまさに墨で遊んだワークショップ”森とつながるすみあそび” で作成された作品の展示会。森に行って、落ち葉の上に道具を広げて、なんでも好きに書いてみるというもの。郁子さんはじめ参加者それぞれ自由にすみであそんでみた。
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背筋を伸ばして書くのではなく、気ままに自由に手を動かすというのはなかなか難しい。なにかお手本がある方が楽にかけそうな気がしてくる。周りをみると、刷毛?みたいなので書いていたり、小枝をつかってみたり。すみの楽しみ方はもっともっといろんな方法があるみたい。
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墨をする?時間もなんかよかった。習字の授業も墨汁しか使ったことなかったから。水を硯に垂らしてすりつづけていると、徐々に粘性のある液体になって色も深い黒になる。墨汁とも違うのだろうけど僕には見分けがつかないのだけど。
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墨をするには結構時間をかけないといけなくて、その間座ってただ手を動かした。森でただ座って過ごす時間は気持ちよかった。これまで何度か行ったことのある森だけど、そういえば座ってじっとしていることはなかったような。墨をすってみる、すみあそび。森とつながっていたのか?
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なんでこんなに、なんかしっくり来てしまうのだろうか。郁子さんの他の展示、ものがたる線 を見た時も感じたことで、なんでか気になって調べてみた。すると色々とおもしろい。いつも感じる、書いているのか描いているのか、どちらも間違いではないような気がした。
漢字の由来というのをいくつか見てみると、対象をデフォルメした絵みたいだった。絵の段階だと、感覚でわかるものもある。大昔、文字は単なる絵だったかもしれないと想像してみると、少し楽しそうな気もしてくる。
描かれた文字を見てみると、木が踊っているようにも見えるし飛躍して人のようにも見えてくる。その横で、小さい子がいるようにも見えるし、でも旗を持った人には見えないのだけど。
という感じでその由来なんか飛び越えて想像が膨らんでしまう。作者の考えていることになんだか触れられそうな気がしてくるようで、僕はそう感じてしまった。作者の頭に近づこうとしてみる楽しさ。作品と同じくらい、この人どういう人?って気になって検索してたみたいな。
なんかわかるというのは、やっぱり来て見る甲斐があると思う。よくわからなかったのでは時間を無駄にした気にもなる。なにかしら共有できるということは良いことか。だから展示するには日常の枠を超えないといけない事もある。あまり展示しなかった出展者として、農民藝術について別に気にすることでもない問いを持ってしまう。
初めに戻って展示全体を振り返る。不織布や木片、模造紙?を使い、筆に限らず刷毛でも描かれた、”もりとつながるすみあそび”で出来上がった場所こそ作品に見える。森の中に入りたくなったなら、意識はすでにその奥まで進んでいて。作品とはいえ気軽に触ってみたり、気づいたらなんか増えてるのも、いいのかな?
色んな人が皆それぞれあそんでたから色んな作品が置いてある。僕はなんかそんなだし、郁子さんはなんだかゆったり緩やかできれいに見える。その人それぞれが見てる世界が、思い思いにその時々に現れている。
「そのマナザシ。マナザシ、というものだ。ミル、ということ。ミエテいる世界が、始まりであり、同時にそれが全てだということ。自分に断言する為にもう一度言うが、マナザシが全て、なのである。それをどう詠むか、いかに書き表すかは、さほどの問題ではない。」(書くということ/沢村澄子)
ものがたる線を見に行った時に飾ってあった本。こっそり見つけた文章。僕らは何かを見て、勝手に想像を広げて、作者の頭の近いところにいる気になってるかもしれない。でも全然違うところにいるかもしれない。それはそれでいいことだと思う。東京に帰っても、墨をするくらいなら音も出ないしちょうどいいかも。