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ほんとうのさいわいー自宅出産・いのちの写真展 武井碩毅
「ぼうぼうと茂った木々や草の姿が私は好きです。・・・生命力に感動せずに、チョキチョキと人間の都合で”散髪"され、消毒され、手を加えられた草木を、私は美しいと思いません。生命とはぐしゃぐしゃであり、人の思い通りにはならないもの。・・・私がお産に見たものも、まさにそうした生命の真実です。」
展示会場にある本に書いてあった。出展者の美里さんが読んでいた本だと思う。ほんとうのさいわい展は自宅出産を記録した写真展。
どんな姿勢で、どんな視点で見ればよいのか。身についているへんなものが、鑑賞を邪魔するようで。
人が生まれることはとても自然でうれしいことのはずなのに、命の誕生を精一杯喜んで鑑賞できていななかった。僕は、自身と人間のずれを感じながら鑑賞した。
会場は藤源寺の座敷一間。部屋に入ると、入口付近に半透明の布が掛け下ろされている。布はそのまま上に昇って、部屋をふわふわ包み込んでいる。奥にはキャンドルが置かれ、美里さんがいる時は火が灯っている。
布は上から足元まで降りてきている。その中に入るとき、布は緩やかにつなげてくれる。その中からみわたすとき、布は窓の光を薄く引いている。布を触ってみたりする。それとも避ける?
写真は出産準備の風景から時間を追うように展示されている。そこは風景の写真もある。合間にひとこと添えられており、その時間を想像できる。でもその過程には困難もあったことなどインスタで綴られていた。(インスタURLを最後に記載)
展示を見ていると、出産に近づくにつれて怖気づいてきて、初めの鑑賞ではその辺りを飛ばしてしまった。つぎ目にしたのはへその緒を切った竹のナイフ。実物がそのへその緒とともに展示されている。ナイフは藤沢町に住むカズさんが制作したもの。産まれた赤ちゃんは、見守られ、優しく迎えられていた。その時間、美里さんは"ほんとうのさいわい"のような何かをそこに感じたと綴られていた。
また映像作品も公開された。出産の少し前、旦那さんがコンロで海苔をあぶっていて、ちょっと焼きすぎてしまう。出産直前ではあると思うがまさに日常みたいだ。出産は本来日常の延長にあるものかもしれない。
一方で体は出産に向けて準備を始めるようで。みんなで協力し、この世に新しい命を産み落とす。映像を見ると、印象は変わった。
そんなに上手いこといかないとわかっているけど、懸命に励んで支えられる姿、人間であり母親に見えた。これ以外僕には言葉にできない。
写真では、2人、3人がフレームに収まりわかりやすく眺められる。整理された出来事を過去のものとして遠くから眺めていた。映像では視点がもっと広がってまわりが入ってくる。音や声で人が居ることもわかる。どちらも表現であると思うけど、何かつながるところがある。僕からみた美里さんに照らしてみる。
頭に残っている写真がある。写真は正面向いて撮影するとその人が良く見えると思うけど、その写真は横にシルエットが浮かぶように映されていた。お腹であり赤ちゃんの存在が分かる写真が展示されている。普段モデルとしても活動されてるように、きれいな写真だった。写真とはきれいに見せるよきツールに思える。一方で映像はより具体性を伴っていた。
仮に写真を一瞬だとすると、映像を見る時は僕らもその時間を過ごすように向きあっている。出産という時間がより伝わってくる。モデルとして想像してしまうその人像が、より愛情や人間味を合わせもつイメージに変わっていく。その人の自分との向き合う姿勢、ほんとう探しの目線をみると、展示すべて自身のほんとうであることをわからされる。
他にも胎盤を調理して家族で食べるシーンなど。意外にもおいしいようだ。でも、抵抗あった子もいたらしい。一家だんらんの食卓に出されているのは胎盤料理。胎盤には栄養があり食べる習慣のある動物はいるみたいだ。そういえば僕らも動物であった。
こうして赤ちゃんは産まれて、僕はそのこと話したこともある。出産を見た今では、やはり人は人から生まれてくるということを少し想像できる。でもいつ生まれたのか、やっぱり想像できない。生を受けるということが本当にあることなんだろうか。お母さんにとって、お父さんにとって、子供にとっていつ知覚できるものなんだろうか。それはほんとうだろうか。
いろんな視点を提供してくれる展示だった。自分はいつ生まれたのか。いつまで生まれているのか。そんな区切りはあるのか。曰く、生活の中の芸術を見つけようとしていたけれど、それそのものがそうであるのかもしれない。そうなると、自然な感覚に抵抗する自分は不自然なのかもしれない。
美里さんは出産を通して「ほんとうのさいわい」を見つけたかもしれないと言っていた。それは宮沢賢治の作中にたびたび描かれる言葉。文字通りの相違ないイメージだと思う。そしてそれは他者に開かれたものであり、自分の偏見では、自己の内側の内側のその先にあるのかもしれないと感じている。そうだったらいいなと思っている。
自分を見つめると他者が見えてくるのはとても不思議なことだと思う。まだお父さんではないからだろうか。男だからなのか。そんな線引きは好きじゃないけど、女の人の愛情といったものにはやっぱり到底至れない。
言葉で想像してみることしかできない。
ほんとうって何なのか。と頭で考えないことがいいのかも。足りない頭ではしょうもない。いやでも、とか、仕方ないかとか、いつも間にか社会を意識してる。それに吞み込まれないように、自分の声にも耳を傾けたい。その声はきっと自分ではなく他者に向けられているのかもしれない。
自然に生まれた人間は、社会に合う形にならないといけない。だから自然な人間は社会に衝突してしまう。そんな自然に衝突された。衝突されてまた自然な姿に変わっていきたいと思う。
果たしてこの文章に一貫性があるのか。ここまで書いたけれど、展示については何も言えていない気がする。「展示すごいですね」と言うほかないのかも。
誤字脱字とか見返そうとしているが、これがまた自分で見ていて恥ずかしくなってくる。文章力のせいなのか。なるべく隠さず書いているからなのか。カッコつけたいとやっぱり思ってるからなのか。一括削除したいところだけど、この思いも載せておきたい。
いのちについて。ほんとうについて。さいわいについて。気になることがあれば、美里さんが相談に乗ってくれるのかも。