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自己紹介〜社会人生活大阪時代〜

大学時代にめちゃくちゃ面接しまくって、大企業のシステムエンジニアとして就職するところまでを、以下の自己紹介記事で書いた。

社会人になってどんな生活を過ごしていたか、思い出してもう少し詳しく書いてみようと思う。

入社してすぐは大阪本社勤務だったので、大阪時代のことを書こう。
大阪には2年間いた。

新人研修で苦節を味わう

入社してから最初の3ヶ月間は、新人研修期間だった。

この期間に、プログラミングや資格取得を主にしながら、マナー研修なども学ぶ。
今考えると非常に手厚い教育制度だったと思う。一人あたりどれくらい研修費用をかけてくれていたんだろうか、ありがたい。


プログラミング研修では、javaという言語を学んだ。

チャットツールや簡単なホームページ、ショッピングサイトを一人だったり、チームだったりで制作するというものだ。


大学時代に情報工学科でプログラミングを学んでいたものの、大学時代の成績はよくなかったので、このプログラミング研修でも僕は非常に苦労した。


研修期間にも関わらず、2〜3時間ほどだったけど定時後も頑張る日々が続いた。


皆が先に帰っていく中、自分は残って課題をこなす日々&プログラミングスキルがなかなか上がらない自分に焦りを感じていた時期だった記憶をしている。

社会時1年目。充実した男子寮生活。仕事やや忙しめ

大阪での社会人生活は、男子寮に入ることになった。

僕が入る時で築30年を超える建物で、建物の玄関で全員が靴を脱いでスリッパに履き替える感じ。
もちろんトイレも風呂、洗濯機も共同だった。風呂がプチ銭湯みたいに大きかったのはちょっと良かった。
食堂や麻雀室、卓球室などもあって、古いとは言え施設は割と充実していたんじゃないかなと思う。

隣の部屋始め同じ建物内に、同期の男友達がたくさんいたので、毎日のように顔を合わせた。
食堂で一緒にご飯を食べたり、タイミングが合えば風呂で裸の付き合いをしたり、余暇には卓球を楽しんだり、週末は部屋飲みしたりと。
学生みたいな日々で寮生活はとても楽しかった。


仕事はどうだろうか?

研修期間を終えて配属されたのは、企業向け社内システムの開発プロジェクト。

結構忙しかった。
同期は定時とかちょい過ぎに帰る中、僕は21時、22時は当たり前。

そして、男子寮は会社から徒歩15分のところにあったので「そろそろ終電なんで帰ります。」ができない。
なので、24時過ぎても仕事するとかも新人なのにざらにあった。

社会時2年目。初めての出向先での体力勝負。仕事忙しい

社会人1年目が終わる頃、客先へ常駐することになった。

常駐先に行って少し落ち着くかなーと淡い期待を持っていたけど、結局終電帰りは続いた。

つまり、常駐先になって更にめちゃくちゃ忙しくなったのだ。

この時期は9時出社の終電帰りがデフォルトだったけど、終電を逃すこともしばしば。


学生生活の感覚ももうすっかり抜けていて、社会人2年目はほぼずっとこの生活だったので、この時期に仕事に対するメンタルと体力的なものが耐性付いた気がする。
社会人2年目の1年間は、本当に体力勝負な1年間だった。


引き続き男子寮には住んでいたけど、この時期はライフサイクルが全く合わずで誰とも会うことがなかった。
土日も結構一人でゆっくり休むことが多かったかもしれない。

大阪時代の終焉、東京へ

社会人2年目の終盤、2月頃に会社の大きな組織改変があった。

その組織改変で自分が属しているチーム(10人くらい)だけが、東京の部署へ配属されることになった。

会社全体で3,000人超えの中で、たった10人が東京転勤となったのだ。
すごい確率だなと思った。


関西が地元なので、大阪の企業に就職したのに、東京転勤はショックだった。

「大阪に残れる可能性はあるんですか?」と部長に問うと、

「99%転勤確定だ。」と。

「じゃあ1%の確率で大阪残れるんですか?」と更に問うと、

「いや、無理だ。」と。

じゃあ転勤100%確定やないかーい!とツッコんだ記憶がある。


転勤するか、退社するかの選択肢しか与えられなかった。
当時は社会人2年間の経験だったので、退社する選択は正直なかった。

というか、この選択肢しか与えられなかったって今思うと、結構シビアな、社会的に大丈夫か?と思う選択肢だな。


これを機に僕は、社会人3年目25歳から東京へ行くことになったのだ。

続きは、また別の記事に書き残したいと思う。

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里山 祐一郎@業務整理コンサル
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