記念日反応と誕生日

 誕生日を迎えました。少しでも健やかに、そして何より安心と楽しさを求めたいです。
 
 さて、誕生日はケーキを食べる機会に恵まれるという点では嬉しいのですが、誕生日周りに隔離拘束経験があるので、どうしても記念日反応、フラッシュバックとセットになってしまうのです。まあ誕生日付近ってのも「産まれてこなきゃよかった」的な気持ちとも関連してるんですけどね。 

 5年前の3月に学校卒業して、そこから親にとって自慢の娘でなくなって「みっともない」私、そしてその状態で週2のバイト以外ほぼ家にいる生活になった私に待っていたのは日々の攻撃とその結果の当然の絶望。そして長引くうつと希死念慮…
 二度目の隔離拘束が誕生日二日前で、最近のことはすぐ忘れるのに、そういう記憶は残念ながら日付けまで忘れないのが私の脳。

 もちろん、今、私は生きてます。でも、正直今だって「あの時、一生取りもどせない心の何かを奪われてまで生命を守られた結果がこの5年間かぁ。いや、あの時死んでた方が苦痛が少なかったのでは?」とも思うわけです。

 そしてそういう悪しき記念日のたびに、
「何度も私の命を意思に反して、苦しい思いをさせて守ったくせに、その後の生活のことなんて一度も考えてくれなかったじゃないか。だからこそ生きづらさが少しも改善せず、こうしてその苦痛が繰り返されたんじゃないか。命を守ったあとのことは自己責任にするのは無責任じゃないか?」って主治医に対する恨みだっていまだにあるわけです。
 先生のノリが軽いってことはよくわかってるけど、それでもその後の生活の苦痛を考えると、命があれば僕は気にしないよ、みたいな軽いことを言われると瞬間湯沸かし器になってしまう。

 命を無理にでも守るならその後の生活も、他職種や他機関との連携も含め、責任もって考えて欲しい。それに命を無理やり守る期間、苦痛が伴うのは仕方ないにしても、安全だからって無視しないで少しでもその後の人生への悪影響が少ないようにしてほしい。
と思うのです。そんなこと言ったら、現場の大変さをわかってないって怒られるけどね。少しはわかるよ、単科は50人とかを2人夜勤で見てるしね。でもさ、何かをお願いした時に、この扉を閉めれば終わりに出来るって感じで微妙な笑みを浮かべながらガチャンと保護室の鍵を閉められたあの絶望と屈辱は心どころか体に刻み込まれているし、大変さがわからないとかではなく、私がつらかったって事実は自由に発言させてほしいよってこと。
 
 今となっては普段はぼんやりしていますが、記念日あたりはぐわーーーって書ききれないほどの出来事のフラッシュバックと、ぶつけようのない恨みと、言いたいけど言ったらそれに対する反応で余計自分が傷つくだろうから黙ってる色んなことでぐっちゃぐちゃになるわけです。

 ただね、今回の記念日反応はちょっと違った。あまりに手足の拘縮と震えが強くなり、心配してくれた周りが神経内科に連れてってくれMRIを撮るくらい身体に反応が出てたのです。もしかしたらこれが記念日反応だったかも。メンタルよりも、体が全力で拒絶反応示してたのかもしれない。
 でもそんなときに、辛いという訴えに対して理屈をこねくり回さず、シンプルに心配してくれて、力を貸してくれた人たちがいて、結果、不調も解決のアプローチが見つかったし、一人絶望に至ることもなく、なんなら別日含めて色んな人に祝われて楽しく終われたわけです。
 
 私は蔑まれている、または私をコントロール下に置こうとしているみたいな感覚にやたら敏感で、そういう関係性になったら一発で縁を切ってしまいます。
 でも、今いる支援者さんたちや訪看さんたちは、まず私を人として大事にしてくれてるなって伝わってくるから嬉しい。私をどうこうさせようじゃなくて、生きやすいといいねーって感じ。
あ、それと同時に自分の仕事をしないどころか害があるGHや行政って存在もあるんですが、置いときましょう)

 支援者さんたちに大事にされてる、といいつつですね。信頼してたつもりでも人はある日突然変わる!負担かけたらその分その変化のタイミングが早くなる。だからもちろん負担をかけないようには心がけてるけど、でも負担かけちゃう。これでもどうしても以外のことは頑張って飲み込んでるけどそれでも迷惑かけちゃってる。
 だからあくまで「今この瞬間は」信頼できるとしか思わないし、そこは縁が切れるときはスッと行けるようにいつでも準備してるし、時々その点に関して負担かけてるなって思うと自爆するのはもう変われないのかなとも思います。まあそれはそれとして。
 
 多分生きててよかった、って思える日は相当先か、もしかしたらずっと来ないかもしれない。命の危機に陥ったら恐怖が待っているというところで保っている感も正直強い。
 けど、今、少なくともこの瞬間得ている、仕事で関わってくれてる人、そうでなく関わってくれている人の多くの人たちに、「どんな私」ではなく「そのままの私」として大事にされている感覚が少し持てている、っていうことを記録として書きたかった次第です。

 一つ歳を重ねたさとうささんも、どうぞよろしゅう。

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