雑書き/オカルト/悪を罰と正すこと、人々が求める社会について考えた考え

2024_09_10_雑書き/オカルト/悪を罰と正すこと、人々が求める社会について考えた考え

この記事を開いてくださった方ありがとうございます。

スキの押してくれた方、ありがとうございます。
その感謝に応えることができればいいのですが、個人的な思い込みの対応ですら、応えることができておりません。すみません。

スキばかりを求める訳ではありませんが、まだ、フォロワー数や、
記事に投稿されるスキ数が、少ないので、読んだけど、スキを押してくれていないのか、まったく読まれていないか、解らないから、けっこう、スキの数に気にしてしまいます。読んだら別の記事に移る前に、スキを押してくれてありがとうございます。

この記事と言うか、ブログ自体(この記事以前)
リンク・コピペ・転載・編集利用、商業利用、すべて自由です。
無断利用して構いません。
(ただ、内容がしっかり確認せずに、とりあえず投稿したみたいなことが書いてある記事は、誤った情報を伝えてしまう場合があるので、転載者等が訂正して投稿してくれたらと思います。)

あと、一部分でも、もっと解りやすくどこかで公表してくれるとありがたい。
自分が伝えたいのは、文章ではなく、内容だから。
記事が多くの人に読まれずに埋もれていくのを切に感じます。
自分が発したコトより、こういう考え方もある、っていうのが広まってくれたらという気がします。(それが正しいとかは別として)


元々、私は卑しい人間でありまして、自分が考え至ったことは、秘密を保っていました。でも、それを辞めました。
秘密を保ち、それが他人より優位になる、
秘密を保ち、情報をお金として提供する、
他にも理由はありますが、
そんなことを考えていました。
競争は大事かもしれないけど、下々は、命を削って働かなくても、そこそこお金が手に入り、健康的でそこそこの暮らしができればいい、そんな社会になればと思います。

投稿したい内容はたくさんあるのだけど、体調が悪いと、書き終えられせん。

読んで貰うために書きましたが、しつこく読み直して修正をしていません。意味不明文章があると思いますがすみません。
あとPCの別のアプリのテキストエディタで書き終えてから、コピーしています。
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今、2酸化塩素加湿によるシェディング空気浄化が上手くいかなくて、体調不良を起こしました。

フォロワー数が1000までいくのはいつになるのか、まったく解りませんが、来ない気もしますが、それぐらいまでは、特に、言葉も、隠す必要無いと思って、しっかり書きます。今まで変な書き方をしてすみません。

思えば、今回の体調不良になった価値は、こういうことだったのかもしれません。非常に体調が悪い時は、ウツが生じるですが、
よくなってくる経過に「どうでもいい」みたいな気分ゾーンになります。
その時に、変に拘っていることを捨てられます。

2酸化塩素濃度、加湿量、サーキュレーター(扇風機)の風力の強さによる拡散が上手くいかないと、体調が悪くなります。

起きている時は、比較的、良いですが、
床に寝ると、空気が悪いのか、体調が悪化します。

上手くいく日もありますが、上手くいかない日もある。
これから、ずっと上手くいくと思っていたけど、甘々でした。

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というわけで、体調が悪い中、ふと思いついたことがあるので、雑に書いています。

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自分で理不尽を正せるなら、それは運命的 成長試練なのかも?

何が善で、何が悪なのか、それを考えると頭がグルグルして、答えは出なくなるけど、
善や悪というモノを、瞬間的で評価するなら、
その時々の感覚に基づくのが、善や悪だと言える。
今感じることが、「善」と感じる場合は、「善」、
今感じることが、「悪」と感じる場合は、「悪」、

この場合、個人の感覚が決める。

(本当は、これを書きたい訳じゃないだけど)

人間には、「過去を反省すること」と
人間には、「未来を考慮すること」ができる。
やるか、やらないかは、個人の生き方次第だけど。

私の様な人間は、自制がないので、
未来のことを考慮して、我慢、ある程度 計画的に生きないと生活が破綻し、今よりももっと強い不幸が訪れると感じる。

自分にとって、今の生活が破綻するのは、不幸であり、それは「悪いこと」だと思っている。
「悪」と「悪い事」は同じに考えていいものではないからもしれない。

でも、
「意識して悪い結果」や「意識して悪い状態」にすること、
「意識して悪い状態を維持させること」が、「悪者」と言える気がする。

「善」と「悪」というのは、倫理や道徳、宗教的な部分の判断があるから。

「悪」や「善」というのは、「感覚的」なモノが伴わないと、「熱狂」や「行動的」にはなれない気がする。

「悪」や「善」のことはこの辺にして。

他人から酷い仕打ちや、理不尽ないじめを受けた時に、・・・、(言葉を考え中)

詳細を省き、
他人から酷い仕打ちや、理不尽ないじめが、「悪」とした、考えた時に、

他人から酷い仕打ちや、理不尽ないじめを、
誰かや、人でない何か(神とか)で正す場合と

他人から酷い仕打ちや、理不尽ないじめを、
自分自身が正す場合があると思う。

もちろん、
他人から酷い仕打ちや、理不尽ないじめ
を自分自身で正せず、誰も正してくれない場合もある。

オカルトな話だが、
自分自身が、
他人から酷い仕打ちや、理不尽ないじめなど「悪」を、
すぐに でも なくても、正せるなら、
それは、人生の魂?の成長の運命なのかもしれない。

逆に、自分自身が、
他人から酷い仕打ちや、理不尽ないじめなど「悪」を
正せないのなら、
誰かが、(神様という存在も含めて)が正すのかもしれない。

とは言え、
誰かが、(神様という存在も含めて)が正しているのであれば、
この世の中は、もっと良いもの のはず。

人生に魂の成長があるのを、自分は感覚的に経験している。
が、
すべての人が産まれて、魂の成長ができるとも思えない。
怠けじゃなくて、
どうやっても、腐っていったり、生きるために悪強くならねばならかったり、
精神的・心の意志的・肉体的に、殺されることもある。

そういうことが、先に強く思い浮かぶ人間に対し、
人生が魂の成長なんて行ったら、何かを投げつけられるが、ぶん殴られると思う。

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「自立する」こと と
「誰かに頼り続ける=依存する」こと

「誰かに頼り続ける=依存する」ことが、まったく悪い訳ではないと思う。
深く考えて行くと、
人は、「誰かに頼り続ける=依存する」を続けて生きている。

人に頼って・依存していなければ、
野生や、地球・太陽に頼って依存して生きている。

こう書くと、依存とは何か?なってくる。
この言葉は、複数の意味を含む言葉だ。

依存が悪いというのは、自分の人生が腐る場合が、悪いのだと思う。
それは、大抵、「怠けか、弱さ」から、他人に依存するのだと思う。

自立していれば、依存は悪くない、と書ける気がするが、なんか、自信がない。

あんまり、良い人生とか、自分は考えないようにしている。
と書きつつ、たぶん、他人により圧倒的に、日常で考えていると思う。

「良い悪い」が感覚的なもの。
「良い悪い」の感覚は、「物理的な物・状況」も影響する、
「良い悪い」の感覚は、「体調」によって左右される、

昔、何年だろう?6年ぐらい、良い人生とは何かを日々、考え続けたことがある。

それを考えたのは、その時点で、今まで生きてきた人生に後悔が生じたので、
未来の人生は、後悔が生じたくない人生にしたいと思った。
まあ、結局、小さいな後悔じゃなくて、大きな後悔が生じる人生を今に至るまで生き続けているのだけど。

それはいいとして、
良い人生や、生きる価値というのを考えていた時に、
今が良くても、未来で後悔が生じたり、
今が良くても、未来が現実になった時に、過去の行動・日常が無価値だったという場合がある、と思う経験をした。

だから、良い人生や、生きる価値ということを考えた時に、
未来を、オカルトも含めたら、死後を含めた未来が
「良い状態」や「後悔が生じていない」ように生きることだと思ったが、

それが、どんなモノなのかを、たしか、1年ぐらい考え続けていた時に、

ふと、
それを知り悟るために、一生かけても、一生以上をかけなくては、無理なんじゃないかと、思って、考えるのを辞めた。辞められた。

人は、つらくても、簡単に死ぬことを実行できない。少なくても自分は。
だから、つらくても、だらだらと生き続ける。
その、だらだらした生き方に正当性や言い訳が見出せないと、
狂いそうになって、というか狂ってしまう。
だから、だらだらした生き方を認識しないように、
何かの現実逃避に潜り溺れ続ける。

潜って溺れていても、なんとも言えない恐怖や嫌悪が脳裏・背筋にゾワっと感じるのだが、感じることに焦点を合わせない、意識を向けない。

そんな日々も過ごしたことがある。

そんな日々しか過ごせない時があった。

それを思い返すと、人によっては生きていることが地獄のように思える。

乱暴な区分けをすれば、
人生と言うのは、物理的な、いや、外部的な、と書く前に、

人間というのは、外部や体の状態を「感じることができるモノ」を持っている。
言いたいのは、体調を感じるのではなく、
「幸福感・不幸感・感動・良い気分・悪い気分」などを「感じることができるモノ」を持っている。
「心」と書けばいいのに、なぜか、「心」と書きたくない。

人生と言うのは、運命的な流れで、今の状況が生じている。
そして、
「幸福感・不幸感・感動・良い気分・悪い気分」などを「感じることができるモノ」が「何かの、気分・感覚」が感じている。

「何かの、気分・感覚」も、発生してしまっていて、
基本的には、自分意識とは関係。
だから、性格を形成づけるものなんだろうけど。

なんか、簡単に書けることを、ワザワザ難しく書いている気がしないでもない気がしてきた。

「浅はか」さ が、深かった時は、何も考えずに、良い人生になると思っていた。
それから、
「浅はか」さ が、少し浅くなって、
「しっかり勉強して、知見を持っていすれば」、良い人生になると思っていた。

だが、今は、自分自身の運命、才能に、「未来の不確定=未知」に、
「しっかり勉強して、知見を持っていすれば」、良い人生になることが、確定できる訳ではないとも思っている。

さらに、
「価値ある不幸」によって「人生観が変わり」、結果的にそれで良かったと、思う時もある。

流れに流されて生きるのは、好きではない。
だが、結局、自分が、川水に入り、歩き通せないほどの川の場所では流される。
日常が流されるのも、そんな感じ。

文章が終わらず、同じようなことを繰り返し書いている気がする。

新型コロナワクチンを打った人の中には、
本当に良いモノ、救世的なモノと思って、打った人がいると思う。
その中で、後悔をした人もいると思う。

一人一人の自分自身が判断には限界がある。
後悔を生じない、選択ができる、とも限らない。

考えれば、すべてのことに、正解が手に入る訳ではないと、個人的経験から思う。

今の自分も、「知らずに、未来の自分が つらく なる」をやっていると思う。
知らずにやめないか、気付かない限り、つらくなることを積み重ねていく。

そう思うと、人生とは、なんて残酷なんだと、感じてしまう。

全然、脈絡がないが、
自分は、
自分の過去の数多くの、強い後悔を目を逸らさず、脳意識に入っても、気分は多少ネガティブになるが、それに振りまされることなく、不貞腐れることなく、生きていければと思う。

と書きつつも、強い後悔の感覚は、発狂したくなるような気分になる。
結局、向き合って、諦観のような達観のようなモノがことが行く着かないと、
強い後悔の念が、苦笑いできる後悔にはならない。

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良い社会について考えた時に、みんなが良いと思える社会は来ないが、「渇望が満たされる」社会を求める。


さらに脈絡がないが、
人の欲望、綺麗な言葉に言い換えれば、願望というのは、
何かを破壊して、何かを得るモノのような気がしてきた。

目指す願望と、守りたい今の何か、
それが、個人の中でも、個人と他人の間の中でも、
対立したり、両立したりすれば、争いを生む。葛藤を生む、迷いを生む、悩みを生む。

争ってでも、実現したい願望なのか、守りたいものなのか。
個人なら、目を逸らしたいモノなのか、目を逸らさずに進んでいくのか。

冷静に考え抜ける人なら、思考のすえの価値も見いだせるのかもしれないが、
自分も含めて、大抵の人間は、思考のすえ というより、
感情的に優先になったり、
「こうであらねばならない、そうではないことは許せない」で争うものだと思う。
大人になれば、いや、子供うちだって、
争っても勝てないことに争える人間は一部だ。
大抵は、臆病で、自制する。
争うことよりも、その場の穏やかさを優先する。ちと、染み入る痛みを見せないようにして。

最近、誰かにとって良い社会なんてものは、誰かの弾圧と抑制、抑制と「気付かない洗脳=意識・性格・生き方操作」でしか、存在しない気がしている。

それは、今の庶民の人達の一部にとって良い社会であっても同じだと思う。

みんなが良いと思える社会は、絶対に来ない。
感性と感覚が違うから。
そして、平和や安定を最優先というか、それだけこそ、価値があると人間には思えないから。そうだとしたら、ここまで技術が発展した道具が使える社会にもなっていない。

自分達が病気になり、不調な日常を過ごしていく。
自分の親や、周りの人達の愚かさで、自分の価値観が壊れていく、歪み過ぎて治りもしない。

強者の賢い悪意と、無知になる愚かさが、犠牲者を生み出していく社会が、
今の社会だと自分は考えているが、それが、解消されればと思う。だが、叶う訳もない。いや、自分が叶える気がない。

また脈絡もない。

価値に捉われ、価値で喜び、価値で苦しみ、価値の為に命を張り、価値の為に命を奪い、価値の為に虐げ、価値のため支配し、価値のための行動する。

それを解っている人、思考の一部で考えられる人は、
他人の価値の感覚を刺激する。操作しようとする。

強い価値は、強い行動を生む。
絶対に何もしない、という行動と
せずにはいられない、という行動を生む。

それ自体にも、「善・悪」が付きまとわせれば、
より行動の強固と、
より同意・同調を求め、強要に近いモノをうむ。

自分のために他人を犠牲にできつつも、
自分が大切にする存在は、犠牲にはできない。

自分が犠牲にされることが嫌だから、争う
自分が大事な者が犠牲にされるのは嫌だから、争う。

争いだけでなく、平和も求める。
平和を求めながら、争いを捨てきれない。
安易な平和として、「思考停止・愚かさ・意志の極めて強い喪失、つまり興味が無い」をやってしまう。

調和的な思考が行き過ぎれば、あらゆる自由を抑制・弾圧し、画一にする、
ということに結局、行き着いてしまうのか。

平和にする方法は自由を無くすこと、

そのような言葉をどこかで見た。

自由は、抑制されたくない。
あらゆることが強制され、
合わない部分は、非常に殺意が募っていくストレスが蓄積される。

そんなことは、知っていた。
問題は程度、

・・・
あらゆる思想・主義は、いずれは腐敗に行き着くが、
腐敗とは別の「ストレス・問題」をどんどん大きくしていき、

平和を希求し、実現した時の「求める日常・社会」とは別のモノになっていく。

たぶん、コレだ。
あらゆる思想・主義は、いずれは腐敗に行き着くが、
腐敗とは別の「ストレス・問題」をどんどん大きくしていき、
その問題が解決・消滅した時の瞬間としばらく続く「何かの喜び感」を社会に求めていく。
思想・主義の腐敗とは別の「ストレス・問題」を感じている人にとってだが。
とも言え、今の社会も腐敗がある。だから、腐敗が嫌でどうにかしたくて活動している人もいる。

腐敗も含め、「ストレス・問題」をどんどん大きくしていき、
その問題が解決・消滅した時の瞬間としばらく続く「何かの喜び感」

それが、言葉に出来ないのが、なんか、嫌だが、今は、根詰めて、言葉にできるとも思えない。根詰められない。
でも、もう少しだけ。
目を閉じて考える。言葉が脳にない。でも脳が動いている。その脳の動きも感じない。閃くだろうか?

たぶん、
「渇望が満たされる」社会、

思想・主義によって、ストレスと問題が生じ、
だんだん、明確で解りやすい、「こうであればいいのに」というのが見えて、感じてくる。

今なら、
ワクチン接種が終わればいいのに、
シェディングが終わればいいのに、
ワクチン接種によって、2020年とは別になったのが、2020年に戻ればいいのに

とかだと思う。
一部の人だけだと思うけど。

人が、疲れて睡眠を欲し、何かを食べることも欲し、
気を張りつめて何かをしたくなり、
だらだらしたくなる、
というように求めるモノが変わっていく。

人が求める社会も、そのような欲求・渇望で、求める社会が変わっていく。

が、それをコントロールするために、
周知報道、正確には周知認識システムによって、
コントロールされている。

コントロールするのが、政府なら、

政府コントロールとは別の
何かを求めるのは、
「アナーキスト= 国家 や 宗教 など一切の政治的 権威 と 権力 を否定し、 自由 な諸個人の合意のもとに個人の自由が重視される 社会 を運営していくことを理想とする思想の人 =アナーキスト」と言えるかもしれない。

最後までお読みいただけでありがとうございます。
同意ではなく、反する考え方、別の考えでも、誘起されたらなら、幸いです。

なんか、よく解らないけど、いずれ、一部分でも、感覚的に思い出して、生かさたら幸いです。

いや、読んでくれただけで、目をざっと通してくれただけで幸いです。

この記事も、多数の記事も埋もれて誰も見なくなってしまうだから。
自分の思い込みだけど、他人が考えないことを、考えてしまう人間で、他人にはない考えを一部持っている気がして、それせっかく書いたのに、埋もれてしまうのは、なんか自分的にはもったいない気がする。

まあ、多くの人にとっても、「どーでーもいい」ことだとは思うけど。
せっかく書いたというのも、控えめにしないと、読んで貰える文章を書こうと思わなくなるから気をつけないと。

解っています。読まれないのには、「アナタの文章はとにかく長いってことは」。それは、折れられないだな。すみません。

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