なぜ、ワクチンを打ち続けるのかNo1

2024_09_14_なぜ、ワクチンを打ち続けるのかNo1

この記事を開いてくださってありがとうございます
いつもお読みに頂いてる方、ありがとうございます。

ひと手間をかけてスキを押してくれた方どうもありがとうございます。
スキの数だけが、今のところ読まれている最低数という認識を持っています。
スキ プラス10人ぐらいかな?と思っています。
フォロワーも、していただきありがとうございます。


コピペ・転載・編集利用、商業利用、すべて自由です。
無断利用して構いません。

知ったら不幸が弱くなる人、解消する人に届くのが最大の願いです。
あるいは、知っていたことが いずれ不幸を弱く・解消できることに繋がることが願いです。
知らないでいることによる不幸が
弱なり、解消されること、不幸が未然に防げること、それが願い。

と書きましたが、今回は、不幸解消に繋がりにくい内容です。

あと、この長い文章を短くして、どこかで公表してくれるとありがたい。

それと、もう1つ。できればこの記事を読みながら、
日常・人生に通用する内容に脳内変換して読んで欲しいです。
自分が伝えたいのは、文章ではなく、内容だから。
それと名声よりも、ただ、不幸が解消されて欲しい、それが最大の願いです。
それが、今までの自分の生き方の罪悪感と反省と、自分にとって確か価値。

読んで貰うために書きましたが、しつこく読み直して修正をしていません。意味不明文章があると思いますがすみません。
あとPCの別のアプリのテキストエディタで書き終えてから、コピーしています。

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先日、ゴミ捨てに行ったら、シェディングを喰らった。
車のゴミを取りってそのままゴミ捨て場に行こうとしたら、
冬季、除雪をしたいる時、通っただけで、急性疲労(実際は急性倦怠感)が起き、立っているのがつらくなる人が、出てきたので、
大丈夫と思いながらも、直感で、家に戻った。その後、15分後ぐらいに、ゴミ捨てに行ったら、やられた。

1時間後ぐらいから、体の倦怠感が起き、それが、12時間が続いた。
精神的にも参った。

倦怠感は、治ったが、精神的に甘いモノが無性に食べたくなって、コンビニで買って食べてしまった。それが悪かったのか、体の調子が悪くなり、今に至るまで記事が投稿できなかった。

その時のシェディング疲労の記事を作成していたが、途中で、ダウンしてしまった。こうやって、未投稿の記事が溜まっていく。
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本題/なぜ、ワクチンを打ち続けるのか?


私も、初めは、「知らないから」、だと思っていた。
だが、
新型コロナワクチンや、その他のワクチンが危険であること、
新型コロナワクチンや、その他のワクチンで、死や、日常生活すら酷いモノになること
を伝えても、
新型コロナワクチンや、その他のワクチンを打ち続ける。

それは何故なのか、自分なりの考えがある。

理解不能な結論を言えば、
「深層心理として、根付いているから」
ということになる。

深層心理の下書きがある程度終わっているが、最終編集をして投稿できるまでに至っていない。

体調が良いと2日に1回は投稿できそうだが、
なんらかで、体調がやられると、それが不可能になる。
出し惜しみするような感じで申し訳ない。
何もかも、遅すぎる。

「深層心理」の説明は、次回以降に投稿しようと考えている。
ただ、
2酸化塩素の記事や、
アーシング(体の余分な電気を大地へ流す)、
シェディングの記事
も投稿したいと考えている。流れてしまうかもしれない。

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●「誰も考え方を学べ」とは言わない


自分の親は、「自分で考えろ」という親だった。
これ自体は間違いではないが、
親は「テレビ脳・書籍脳」で、良いと思ったことを実行する。
学んだことを「実用化」しない。
言われた通りにする。

「実用化する」ためには、良い結果にならない場合、
分析をして、「通用する考え・方法」にしていく必要ある。

物事には「効果的手法」というのがある。

書籍、インターネットで、
「こうすれば上手くいく」という本名・記事名がたくさんある。

だから、「効果的手法」「効果的方法」という情報はたくさんある。

「こうすれば上手くいく」というのは、「行動」である。

話が少し変わるが、
法則と言うのは
「ある条件下」において
「あることをすると」
「ある結果になる」
というモノである。

これに少し加えられること がある が、ここでは、それは省く。

「こうすれば上手くいく」という部分の
「こうすれば」とは「行動」である
「上手くいく」というのは「結果」である(ちょっと乱暴だけど)

条件が、書かれていない。
「条件」、「状況」、「状態」が書かれていない。

ある条件で、
ある行動では、良い結果になっても、

別の条件の場合、
ある行動では、良い結果にならない場合がある。

だから、
「こうすれば上手くいく」とか
「効果的手法」「効果的方法」というのは、
「条件・状況・状態」について、かなり意識する必要がある。

「騙すこと」の基本に、
「条件・状況・状態」については、「不透明」、「曖昧」にしておくことがある。

教えてGooなどの質問サイトに入り浸っていたことがあったが、
質問する方も、

条件・状況について書かれていないことがよく目についた。

そして、
回答する方も、
勝手に条件・状況を設定して、答えている。

問題解決、現状の問題解決には、
今の条件・状況・状態を、意識・把握する必要がある。

今の条件・状況・状態を、
わかりにくい場合は、「考える=分析する」がある。

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話は戻るが、
「考え方を学ぶ」というのは、

この
ある「条件・状況・状態」の場合に、
ある「行動・策略・仕掛け・方法・手段の実行」」をした場合、
ある「結果」になる、ある「結果」になりやすい

ということを学ぶこと「でも」ある。

「人間の能力を高めていく」という観点から言うと、
個人的に、
初めは「自分で考えるだけ」ということをしていくのは、
ストレスが溜まり過ぎてあまり、継続できず、成長していかない気がする。
個人差があるかもしれない。
自分の場合、親に「自分で考えろ」と言われ、
「親の考え」を教えて貰えずに歳を取ってきた。

初めは、「考え方を学ぶ」ということをした方が良いと思う。
初めは、「多くの考え方を学ぶ」ということをした方が良いと思う。

たくさんの考え方を学ぶ。大抵は、忘れてしまうことが多いけど、
学び続けていると、「同じようなことを再び学ぶ」。
そうなると、幾分かは、「また、あれか」と思い、記憶に定着していく。

人によると思うが、
自分には無い、刺激的・衝撃的な「考え」に出会うと、
けっこう忘れないものだ。
と言いたいが、ブレインフォグを経験していると、
けっこう抜けてしまう経験がある。

余計な文章かもしれないが、
大抵の人は、数学の問題の基本的な解き方を学んだあと、
応用問題を、常に自分で考えて、解き方を見出せる訳ではないと思う。

どう解くのかを学ぶ。それをたくさん覚えていく。
そして、問題を見た時に、これは、このように解けばいいのだな、と思って解けるようになる。

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先に書いた
ある「条件・状況・状態」の場合に、
ある「行動・策略・仕掛け、方法・手段の実行」をした場合、
ある「結果」になる、ある「結果」になりやすい

ということを学んでいくと、

「考える力が高まっていく」と自分は思っている。

それでも、人には「個性と興味」あるから、
ある分野の「考える力」は高まっていくが、
ある分野の「考える力」は高まっていかない。

それは仕方が無いことだと思う。

ある「条件・状況・状態」の場合に、
ある「行動・策略・仕掛け・方法・手段の実行」をした場合、
ある「結果」になる、ある「結果」になりやすい

ということを学んでいくと、

必然的に、

ある「行動・策略・仕掛け・方法・手段の実行」をした時、
想定した「結果」にならない場合

「どうして?」という考えをするようになる。

今回の「条件・状況・状態」が、
今回の「行動・策略・仕掛け・方法・手段の実行」が通用しなかったのか?

と考える。
そして、
今回の「条件・状況・状態」について、「考える=分析」をする。

そして、
ある程度、見えてきた(解ってきたら)ら、
じゃ、こういう「条件・状況・状態」だから、
どうすればいいのだろう?と考える。

自分の場合は、まずはインターネットで検索するかな。

そして、試して見る。

こういう事を繰り返すことで、
「通用する考え」
「通用する効果的手法」
「通用する効果的方法」
「通用する効果的手段」
というのが、身についてくる。

だが、
新しい「条件・状況・状態」では、通用しない場合が多い。
だから、そこで、また、
「通用する考え・手法・方法・手段」を考えて、試して見出だしていく。

色々なケースに対応できる「職人」というのは、
こういうことを多く持っている人、だと思う。

それと、素人目には同じに見えても、
職人には「微妙な違いがハッキリ解る」か
「微妙な違いをハッキリ解る」確認機器を持っている。

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●「考え方を学ぶ」を教育されない小学校・中学校・高校教育


個人的な、思い込みかもしれないが、

小学校・中学校・高校教育

「考える方を学ぶ」というのは、教えられていない。

こう書くと、語弊がある。

「考える方を学ぶ」というのは、
インターネット、書籍、映画、ドラマ、アニメ、漫画、ゲーム、「人」から、
(体験を通しても)学んでいく。

解りやすいのは、
たぶん、書籍(文章系)からだと思う。
だが、文章を読む力、読もうとする気がないと、難しい。

だから、初めは、「漫画」が一番、簡単だと思う。
漫画は、
・自分のペースで読める事、
・絵があること(脳内イメージをする必要が少ない)
・モノによっては解説や、心理描写などが文章で説明されている事

映画・ドラマ・アニメなどは、
時間が流れて行くので、マイペースとはいかない。

自分は「鬼滅の刃」のアニメをしっかり見たことがないが、
レンタルビデオ店で、少し流れていたのを見たら、心情を音声で語っていた。

ああいうので、あれば、「考え方」を学びやすいと思う。

心情解説がなく、
「表情を読み取れ」とか「状況を読み取れ」となると、
そういうのができないと、かなりキツイと思う。
どういう心情があるのか、そういうのを知っていないと、
察することができない。
「考え方」を学ぶ前に、学ばなければいけないことがある。

執念や、ストレスが多大でもやり切れる人間は、
「解らないからこそ」「上手くできないからこそ」成長の機会と思えるかもしれないが、

執念もなく、ストレスがあると、別の娯楽的なことをやりたがるような、
自分のような人間は、

初めから難しいと、放棄する。

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学校でも、「考え方」は学ぶが・・・


でも、学校と言うのは、

「こういう場合は」、
「このように考える」

というのを学ばされる。
言葉を悪く言えば、「植え付けられる」

「こういう場合は」、
「このように考える」

というのだけでは、「思考狭窄」になる。
解りやすくいえば、1つの考え方しかできない。

色々な場面や情報媒体から「多くの考え方を学ぶ」というのは、

「こういう場合」は、
「こういう考え方もあるのか!」

という感じで学んでいく。

それは、
「こういう場合は」、
「このように考えなければならない、他の考え方はダメ」

という風にはならない。

だが、学校教育では、
「こういう場合は」、
「このように考えなければならない、他の考え方はダメ」

という風に、
矯正されて、強制されていく。
あるいは、
強制されて、矯正されていく。

自分のような、人間は、納得ができないことに「矯正と強制」されることに、抵抗する人間だった。いや、抵抗はしない。ただ、受け入れ難かった。

余計な話かもしれないが、
言葉が悪いが、
人は、利用するモノだと思っている。
他人を利用し、自分も他人に利用される。

それは、自分自身に「個性」を感じるからだ。
自分自身の「個性」は、圧倒的に他人と違う。
だから、他人が普通の人様なことを求めれても、応えられないことがある。

他人に対して、他人ができること以上を期待してしまうのが、若さなのか、人なのかは解らないが、
「他人ができないこと」を「できる」と思って期待しても、上手くはいかない。
仕事とかであれば、就労継続のために、
できないことでも、できるようにならなければならないけど。
他人を利用するということおいて、他人を犠牲にすることだけでも無い。
他人を利用するということおいて、お金を得るためだけではない。

簡単に言えば、自分の気分転換にお茶をするというのも、他人を利用することだと言える。
その場合、結果はどうなるかは「未知」だが、
予定を考える上で、良い気分転換になりそうな相手を選ぶ。

相手が負担が多くて利用してばかりだと、人間関係にヒビが入るし、
相手も充実する場合でも、いつまでも、利用し続けるとも限らない。
自分も相手も、変わっていく。変わらない部分もあるが、変わっていく部分もある。
そういう面のことも考慮と言うか、認識する必要もあるかもしれない。

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●「正しい考え方」を構築される(プログラミングされる)


自分は、100%理系的に考えて生きてきた。
だから、国語がとても、苦手だった。
説明文の問題は得意だが、それ以外は、駄目だった。

自分は、物事を考える時に、頭に入っているすべての要素を考慮して考える。
「〇〇とは何ですか?」と聞かれると、
そのすべての要素を、解答欄に書き込まないと気がすまない。小さい字で書き込む。
小学校までは、△で、中学生から×となる。

大人になってからだが、
国語と言うのは、

「こういう質問には、こういう風に考えて、こう答える」

というのがあることに気付く。

数学のように、

「この問題の解き方を利用して解く」

とは違う。

文章で書くと、同じように思えるのだが、
数学は、「普遍的」、個性の余地が無い、言えばいいのだろうか?

一方、国語は、認識や考え方の「個性」が出る。

その個性が、テストでの正解ではない場合は、「×」となる。

少し、書き込みが、止まってしまった。
国語というのは、たぶん、書かれている文章内のことしか、書いてはいけないのだと思う気がしてきた。

自分みたいな人間は、
書かれている文章そのものに対して、
「こう思った」、「こう感じた」、
「そのように断言していいものなのか?断言するには確認不足があるのでは?」
「別の考えや、見落としはないのか?」
「勘違いかも?と思い確認する必要はないのか?」
などを考えてしまう。

産まれる前から、
「このことについては、こう考える」というのが、植え付けられていく。

それ自体は、決して悪いことは無い、と思う。

特に危険なことで
体の一部がなくなったり、
死に至るようなことは、
「体験」を持って確認し、学んでいけるわけではない。

だから、親や、大人、取扱説明書、学校教育、専門家の主張などを聞いて、覚えて注意・警戒を覚えていく。

それが、常識となっていく。
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●「この場合は、このよう考える」以外をできなくさせるを構築(プログラミングされる)


以前の記事で、「常識」というは「強迫観念」ということを書いた。

「強迫観念」というのは「深層心理」の1部なのだが、
「深層心理」について説明すると長くなるので省く。

人間というのは、「感覚」「感情」「気分」がある。

強い「感覚」「感情」「気分」というのは、
行動、生き方に、「かなり強く影響する」

強い「感覚」「感情」「気分」というのは、
行動、生き方・人生を、「左右する・(決定的にする)」

欲望・欲求・価値を見出す・拒否・自己嫌悪などあるが、
今回は、「自己嫌悪」という「感覚」「感情「気分」ということで書いていく。

「自己嫌悪」という「感覚」「感情「気分」は、
嫌な「感覚」「感情「気分」だ。

心地良くない。

「自己嫌悪」は、自分自身への評価に対して「マイナス」となる。
「自己嫌悪」の日常が続く場合、自分自身への評価に対して「マイナス」が積み重なっていく。

ある一定以上、積み重なると、
他人から、「それでも、生きている価値がある」と言われても、
心に響かなくなる。むしろ、「キレイゴトはやめてよね」という風になる。
そして、「自分なんていなくなってもいいんだ。存在価値がないんだ」と思い、
1日の大半が、そういう意識に囚われる。
それがつらいから、現実逃避に走るが、「現実逃避」も「自己嫌悪」になり、
「現実逃避」ができない僅かな隙間時間に「どっと、強い自己嫌悪」がやってくる。

自分の中でしなければならない「常識」をしない、というのは、
「自己嫌悪」が生じると思う。

いや、常識を外して
(強制・強要されている訳ではなくて)
「自分の中でしなければならない」コトを「やらない」というのは、
自己嫌悪の「感覚」「感情「気分」が発生する。

ーー

「こういう場合は」、
「このように考えなければならない」
という程度なら、「うっせーな」ぐらいで終わると思う。

だが、
「こういう場合は」、
「このように考えなければならない、他の考え方はダメ」

「他の考え方をするのは、出来損ない」
「他の考え方をするのは、異常者」
「このように考えるのが、マトモ」
「このように考えるのが、賢い・優秀・(偉い)」

というのも、追加していけば、
「どう考えるか?」について、
「感覚」「感情」「気分」も、ついて回る。

自分の「感覚」「感情」「気分」が
悪くない結果に、関係する場合もあれば、

自分の「感覚」「感情」「気分」が
悪くない結果に、関係しない場合もある、

という「考え方・認識」を持っている人間は、
自分の「感覚」「感情」「気分」だけに沿うのは、「危険」と考える。

人を騙す基本の1つとして、
相手の「感覚」「感情」「気分」を操作して、
警戒心を無くす、判断を鈍らせる、というのがある。

「投稿主/自分」も良い気分になると、馬鹿になるので、
注意するようにしている。
変な感じで良い気分になると「罠」だと思っている。
そういうことで、イタイ目を会い続けてきたから、最近やっと学ぶようになった。
あとは、「嫌な気分」にさせられることで、「自分が悪いじゃないか?」と思って、他人の意向に従うことも、気を付けるようになったが、
自分の個性が、「自分が悪いじゃないか?」と思いがちなので、
良い塩梅の判断が悪い。
個人的な正義を信じ込められない性格が関係している。

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大多数の大衆・庶民・民衆は、
「こういう場合は」、
「このように考えなければならない、他の考え方はダメ」

「他の考え方をするのは、出来損ない」
「他の考え方をするのは、異常者」
「このように考えるのが、マトモ」
「このように考えるのが、賢い・優秀・(偉い)」

というのも、セットにして

大多数の大衆・庶民・民衆は、

「こういう場合は」、
「このように考えなければならない、他の考え方はダメ」
という風に「構築・作られて・プログラミング」されている、
と自分は考える。

たぶん意識すれば気付くのではないだろうか?
インターネットニュースや、
テレビのニュース
映画、アニメ、漫画、雑誌、その他、色々とあると思うが、
いろいろなところで、

「こう考えるべき」とセットになって「感覚・感情・気分」もセットされて浴びて・受け取っていることを。

深層心理の分析の第1ステップは、
自分はどんな「感覚」「感情」「気分」になっているのか
を、認識する。

「感覚」「感情」「気分」があるが、それが、よく解らない場合や、
「なんとなく嫌」というのを
もっと、明確な限定な「感覚」「感情」「気分」の言葉として、明確にしていく。例えば「拒絶」「拒否」「痛み」「恥」とか
それが、
ある状況になった場合や
ある状況になるだろう場合に、
起こる、自分自身の「感覚」「感情」「気分」だと認識する。

自分自身の強い「感覚」「感情」「気分」は、行動を左右する
自分自身の強い「感覚」「感情」「気分」は、行動を決定的にする。

だから、深層心理の問題を解決するために、
自分自身の強い「感覚」「感情」「気分」をどうにか変えていく。
しかし、無理やりであっては、「決して変わらない」
色々と考えて行けば、決して成功する訳ではないが、
色々と考えて行くしかないが、
色々と考えていけば、ふと、強い「感覚」「感情」「気分」が変わっていく。
経験として書くと、

自分自身の中で「納得できる考え」に至った時に、
ある状況になった場合や
ある状況になるだろう場合の
強い「感覚」「感情」「気分」が変わっていく。
弱い「感覚」「感情」「気分」に変わる場合もあるし、
「感覚」「感情」「気分」があまり生じなくなることもあれば、
別の「感覚」「感情」「気分」になっていく場合もある。

が、これは、簡単なことではない。

深層心理の
強い「感覚」「感情」「気分」は、「凄まじく強烈」である。

初めてやったり、
他人からアプローチされたら、

言葉が悪いが
「理屈じゃねえんだよ!」というのが起こる。

つまり、
自分が自分自身に対して「アレコレ、理屈で説いても」
他人から「アレコレ、理屈て説かれても」

自分自身が
「断固拒否」、「断固無視」する。
激怒して、相手を威圧して黙らせるか、
激怒して、場から逃げる。

あるいは、号泣する。

経験的に言うと、
深層心理の強い「感覚」「感情」「気分」を変えるのは、

自分特有の
深層心理の「性格」、つまり 強い「感覚」「感情」「気分」が、
行動を左右、行動を決定的にし、
そのせいで、「苦しむ」「不遇を招く」、「不幸を招く」
と認識し、それではいけないから、「変えなくては」と思って変えていく。

だから、「やりきらなければならない」という執念が必要が必要になる。

自分を不幸にする性格という考え方が当たり前になり、
疲れすぎない、お腹一杯にならない程度に、どんどん変えて行こうと思うようになると、
自分を不幸にする深層心理の性格を変えていく生き方になるが、

初めて、深層心理に向き合うとか、
他人から、「アプローチされて」「正論を言われ」たら、
拒否・無視・激怒・号泣が起こる。
人によっては「報復」する人もいるかもしれない。

大多数の大衆・庶民・民衆は、
「こういう場合は」、
「このように考えなければならない、他の考え方はダメ」

「他の考え方をするのは、出来損ない」
「他の考え方をするのは、異常者」
「このように考えるのが、マトモ」
「このように考えるのが、賢い・優秀・(偉い)」

という「感覚」「感情」「気分」をセット植え付けられ、
それが、自覚ゾーンではなく、無自覚ゾーンに入っている。

「無自覚ゾーン=深層心理」で、
「深層心理=無自覚ゾーン」だと、
「それが当然」、「そうではないが おかしい」というふうに考えるようになる。

「こういう場合は」、
「このように考えなければならない」
というのが、「マトモ・普通・賢い・優秀・(偉い)」という
「感覚」「感情」「気分」が誘起し、
「それ以外の考え」ができなくさせられている。

「こういう場合は」、
「このように考えなければならない以外の考え」は、
「異常者、普通じゃない、おかしい、ヤバイやつ」という
「感覚」「感情」「気分」が誘起し、

「このように考えなければならない以外の考え」は
「感覚」「感情」「気分」的に拒否するように
させられている。

だから、
新型コロナワクチンの危険性を伝えても、

「受け入れられない」。
つまり、
「それが事実だと認められない」。
聞き流す。

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●「考え方を学ばない」から、「考え」について「考えられない」


人と話している時に、以下のケースがある。

自分が、あることについて、
「アレコレ考えを言って、自分がこういう結論になった」と言う。

そうしたら、相手は、
「自分の考えを理解」し、
「自分の考え」の

「条件・状況・状態」や
「行動や考え方」や、
「結論にいきつく論理」などに対して、

「反論」や「別主張」するかと思いきや、

そうではなく

「そのことについては」
「こう考えるだよ」

というふうに、応える場合がある。

こういうふうに、応える人は、
論理的に考えた上での「適切性」とか、
どうでも いいというか、

「誰かの主張の考え」を分析し、
論理的に「適切性」や「妥当性」「事実性」について考えられないのだと思う。

先にも書いたように、
大多数の大衆・庶民・民衆は、

「こういう場合は」、
「このように考えなければならない、他の考え方はダメ」

「そのことについては」
「こう考えるだよ」

というふうに構築・作られている・プログラミングされているから、仕方が無い。

それで、人生が非常に苦しくなったことない場合、
いや、違う。

「こういう場合は」、
「このように考えなければならない、他の考え方はダメ」

「そのことについては」
「こう考えるだよ」

「通用しなくて、人生の窮地から脱することができない」
という苦しい日々を過ごし、
「未来を良くするのは、まずは、未来を良くするための適切な思考・考え」
という風に至らなかった人は、

「こういう場合は」、
「このように考えなければならない、他の考え方はダメ」

「そのことについては」
「こう考えるだよ」

という生き方、性格?思考癖?反応癖?から抜け出せない、と思う。

少し話が変わるが、
病気になった時に、現代主流医学を利用するのか、
別の方法を用いるのか?

そこが、分け目となる気がする。
(なんか文章がおかしいけど)。

癌治療などは、
勉強すれば、現代主流医学を利用すれば、完治することはない。
一時、良くなっても悪くなる。

精神疾患も医薬品に頼れば、完治することは無い。
医薬品がなくても大丈夫というふうにならない。

睡眠薬も同じだろう。

そして、徐々にか、どんどん悪くなっていく。

悪くなって死の間際
「それを、ここまでやった(医薬品に頼ったけど)、仕方が無い」
と思える人は、

「こういう場合は」、
「このように考えなければならない、他の考え方はダメ」

「そのことについては」
「こう考えるだよ」

ということから、抜け出せないのだと思う。

自分で勉強して、
現代主流医学を利用した先の、だいだいそうなる結果は、
「嫌、拒否」となって、別の方法を探す、という、
自己責任的な執念がある人は、

「こういう場合は」、
「このように考えなければならない、他の考え方はダメ」

「そのことについては」
「こう考えるだよ」

から抜け出せると思う。

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「こういう場合は」、「このように考えなければならない、他の考え方はダメ」は仕組みまれている。無自覚の政策



自分は、
大多数の大衆・庶民・民衆は、
一部の人達に
搾取されるために、「管理・制御・操作」されている、と思っている。

理想は、
一部の人達以外の
すべて「大衆・庶民・民衆」は
一部の人達に
搾取されるために、「管理・制御・操作」したいと、思っていると思うが、

「研究・開発」という職業・生き方の人は、どうしても、そうはならないし、
一部、体質的・運命的に、
「管理・制御・操作」が、弱くなる人が居る。
(最後は、日常生活を送るために、お金の力で操作されるけど)

「こういう場合は」、
「このように考えなければならない、他の考え方はダメ」

「そのことについては」
「こう考えるだよ」

ということは、
偶発的に、なったことはではなくて、

計画的に、戦略的に、
大多数の大衆・庶民・民衆が、

「こういう場合は」、
「このように考えなければならない、他の考え方はダメ」

「そのことについては」
「こう考えるだよ」

というふうになるように、仕組まれたことだと思っている。

そして、それを主に行う学校の教師達も、それに気づいていない。

学校の教師達も、

「こういう場合は」、
「このように考えなければならない、他の考え方はダメ」

「そのことについては」
「こう考えるだよ」

ということの危険性に気付いていない。
少しは気付いていも、ある場合においての危険性には気付いていない。

言うまでもなく、
新型コロナワクチン接種をすること、
新型コロナワクチンを接種し続けることや、
「PCR/ポリメラーゼ連鎖反応」検査を受けることの
が、ある場合においての危険性だった。

そして、大多数の親も同じようなものだろう。

今回の新型コロナワクチンも、
「騙された」で終わる。

自分達が、
「多種多様の考え方をして」、
「判断し合えば、回避できた」
「回避できた人は増えた」
という考えにはならない。

周知されるように、浴びせられば
「多種多様の考え方をして」、
「判断し合えば、回避できた」
「回避できた人は増えた」
という考えを持つかもしれないが、
周知されることはない。

「騙された」の方が、大衆を管理する側にとって好都合だ。
なぜなら、
また、「騙す立場」の人に指令を与えればいいから。

「騙された」という感じた人は、すぐには、信用しない。
だが、数年で、それも消えていく。
20年もすれば、過去の事で、再び信じるようになる。

騙す方は、再び騙すまでに、
信用を積み重ねていくから。
機会あることに、マトモに仕事をしているというのを認識・アピールしていく。

騙すことの基本は、まず、「信用を勝ち獲ること」である。
そして、騙す。
長年をかけて、信用を積み重ねていけば、無警戒になる。

今回の件も、過去の薬害を考慮して、接種をしなかった人も居る。
そういう人もいるけど、大多数にならない。
さらに年数が進めば、知らない世代も増えてくる。

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●不信を持ち始めれば変わる


「こういう場合は」、
「このように考えなければならない、他の考え方はダメ」

「そのことについては」
「こう考えるだよ」

というのは、「常識」である、と自分は思っている。

「常識」には、色々な分野の常識がある。

健康(医療・食・環境など)に関して、一般的に「常識」と言われるモノ
健康(医療・食・環境など)に関して、周知されている「常識」と言われるモノ

に関して、
不信を持つことができれば、

「こういう場合は」、
「このように考えなければならない、他の考え方はダメ」

「そのことについては」
「こう考えるだよ」

というのが、時間はかかるかもしれないが、変わっていくような気が
自分にはする。

健康(医療・食・環境など)に関して、一般的に「常識」と言われるモノ
健康(医療・食・環境など)に関して、周知されている「常識」と言われるモノ

に対して、
「不信」がないからこそ、
「信じている」と言ってもいいと思う。

短期間で、即効的で、体調が良くなる、というのがあれば、
変わっていくのかもしれない。

それが、自分が何があるのか、よく解っていない。

解ったとしても、たぶん、お金がかかる。

シェディング被害が強い人は、
自分のシェディング対策でも相当出費や、
シェディングのせいで、給料が減った人も居るから、
そんなことは、まったく考えられないだろう、と思う。

また、
不調の原因が、「複数の理由」「複合的な理由」になっているから、
1つ2つ解決したところで、良くなる訳でもない。

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日常・生死に関わることだから「依存」をやめられない。


「依存」という言葉自体、色々な意味がある。

ここでは、
「誰かかに頼る、誰かに任せて頼る」、
いや、言葉が足りないか。

「盲信して、誰かにすがり、誰かに頼り任せる」
というのを、ここでは「依存」と言う、ことにする。

「依存/盲信して、誰かにすがり、誰かに頼り任せる」
というのは、

それ無しには、生活が維持できない、
それ無しには、生きていくことができない(死ぬ)

という場合に、
「強烈」な「依存/盲信して、誰かにすがり、誰かに頼り任せる」
が構築しやすい。

正確に言えば、

それ無しには、生活が維持できない、
それ無しには、生きていくことができない(死ぬ)

というふうに「強固に認識・強固に思い込ませる」ことができれば、
「強烈」な「依存/盲信して、誰かにすがり、誰かに頼り任せる」
が成功する。

確か、元ホストの人が、このような考え(文章)になるようなことを動画で見た。

言葉が悪いが
ターゲットの人の交友関係を壊し、切っていき、頼れるのはホストだけにする。
そして、「止む終えない」と「思わせられた決断」を強要していく

新型コロナワクチン接種や、
現代主流医療に
強烈に「依存/盲信して、誰かにすがり、誰かに頼り任せる」
人は、
病院から、新型コロナワクチン接種をしましょう、
と言われたら断れないと思う。

なんとなく嫌だな、と思っても、断れない。
それが、「依存/盲信して、誰かにすがり、誰かに頼り任せる」
ことの恐ろしさである。

「依存/盲信して、誰かにすがり、誰かに頼り任せて」
問題ないのない生活が送れれば、問題ない、と思う。

しかし、依存先が、
搾取や、
(意図せずとも)問題のある生活に繋がることを求められた場合、
搾取や問題のある生活になる。

「依存/盲信して、誰かにすがり、誰かに頼り任せる」
というのは、
「自己責任」感を弱くする。場合によっては喪失させる。

喪失させるには、
「やり直せる小さな間違い」をすら、
「間違う・失敗する」ことを「怯えさせること」
そのようになると、
自己判断を放棄して、
依存先の「言われるがまま」になる。

悪くない人生・日常の定義は、
人それぞれだけど、

悪い日常・人生にしていることを、
学び、自ら辞めていかないと、
結局、悪くない人生・日常にならない。

だから、だからこそ、
「依存/盲信して、誰かにすがり、誰かに頼り任せる」
のではなく、
自己責任で失敗を繰り返しても、
自己判断力を養い、
自己計画と
自己トライ&エラー(試すこと と 反省・分析する こと)によって
1つずつ、悪い日常を、
1つずつ、悪くない日常にしていく。
それが、良い人生を思えるような人生になっていく。と自分は考える。

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新型コロナワクチン接種については、「感覚・感情・気分」操作もある。


新型コロナワクチン接種については
認識操作もあった・
認識操作もあるが、

「感覚・感情・気分」操作もあった
「感覚・感情・気分」操作もある。

新型コロナワクチンを打つことで助かる。
新型コロナワクチンを打つで、悲惨を回避できる、

という、
ある状態になるは「絶対に嫌」という「感覚・感情・気分」と
新型コロナワクチンを打つことで、
「救われた」という安心感の「感覚・感情・気分」操作があった。

こういう「考え・気分・精神・思考状態」になってしまうように、
動画の映り方、ナレーション、音声、BGM、「しゃべらない間」などを考えて作られ放送されている。
YouTube動画を見ると、そう自分は感じる。

自分は、
考えながら、「感情・感覚・気分」が変わることは別に構わないが、
考えがまとまる前に こういう「感情・感覚・気分」が、強く感じると、
「警戒」をする。それと、よくやると感心する。
その辺が、自分が小悪党になれなかった理由かもしれない。

とは言え、小悪党でなくても、酷い人間であることは変わりない。

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「感覚・感情・気分」操作に関しては、
あんまり、どうすればいいのか解らない。

「感覚・感情・気分」操作に関しては、
それを「聞き出し」、言葉にさせて、認識した上で、
「それはどうなの?」というふうに持っていくのがいいような気がする、が、実際に効果的か解らない。

先に書いた、
「こういう場合は」、
「このように考えなければならない、他の考え方はダメ」

「他の考え方をするのは、出来損ない」
「他の考え方をするのは、異常者」
「このように考えるのが、マトモ」
「このように考えるのが、賢い・優秀・(偉い)」

というのが、論理を説いても、「ブロック」がかかる。

そう考えると
「絶対に新型コロナワクチンを打たなければ駄目」
「絶対に新型コロナワクチンを打たなないと」

というのが、強固に根を張っているのだと思う。

新型コロナワクチン接種を止めた人でも、
「もう、絶対に打たない」と言う人も居れば、
「とりあえず、もう打たない」と言う人もいる。

「とりあえず、もう打たない」と言う人は、
社会空気感次第で、「再び打つ」と自分は考える。

こちら側が、
「感覚・感情・気分」操作をやっても、

病院から、「新型コロナワクチンを打たななくて いいのですか?」
という電話や攻勢?をかけられたら、

こっち側の
「感覚・感情・気分」操作なんて、簡単に無かったことになると思う。

権威というか、現場感覚の意見というか、そういう のからの
「感覚・感情・気分」操作は、かなり強いから。

自分も警戒していなければ、「信じ込んでしまう」

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●「間違っていた」と言えなく させられている


「聞くのは一時の恥じ、聞かぬのは一生の恥じ」
という言葉がある。

これを実践できている人は どれぐらい いるだろうか?

こんな事例を出すのは、不適切のような気もするが、
例えば、
学校や、あとある集団で、
「お箸の持ち方」が悪い人がいたとする。

その時に、
「笑うのではなく」
「このようにお箸を使う」
と言って、教えてあげらえる人は、どれぐらいいるだろうか?

「聞くのは一時の恥じ、聞かぬのは一生の恥じ」
とは言えど、

他人から、笑われ、侮蔑され、見下され、
「嫌な気持ち」と「対等ではない、いじめ や支配されるような」感じを受けて、
「教えてください」と言えるだろうか?
それで断られたら、相当なショックを受けると思う。

相当なショックを受けない人間や、それに ものおじ しない人間は、
たぶん、その業界で、名が聞くぐらいの人はになると思う。

「聞くのは一時の恥じ、聞かぬのは一生の恥じ」
とは言えど、

社会生活を生きていれば、
「とても聞けない」っていうことは多くはないだろうか?
それは、自分だけかもしれない。

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「惨めさ」が刺激される社会。


勝ち組、負け組、
外見が良い、外見が悪い、

テレビやインターネットで、
「成功者」や「評価が良い」ということを浴びさせられ、
それは、逆に言えば、
「負け組」や「評価が悪い」ということを刺激されることを浴びさせられる
ことでもある、と思う。

自分が幸せ感で生きれないことや、
自分が自分自身を肯定できないこと、

それには、
テレビやインターネットから降り注いでくる
「評価が良い」「評価が悪い」
ということを、刺激されるからだと思う。

テレビやインターネットから降り注いでくる
「評価が良い」が、
自分に該当すると
自分が幸せ感を感じたり、
自分が自分自身を肯定することができる。

それにすぐに飽きる人もいるが、
飽きない人もいる。

人間の感性として、

人のステータスや、
人の地位
人の経歴
人の外見
人の業績

などで、良い評価、憧れる評価、悪い評価、軽蔑的な評価などは、確かにある。

そのような、「洗脳=マインドコントロール=認識操作」がされていなくても、
人なら感じるところは、確かにある。

問題は、「どれだけ刺激されるのか?」ということである。

「テレビの向こう側の世界」と思っているぐらいでいいと思うが、

日常に、強く刺激されていると、
自分は「評価が良い」というのが認識・思い込め られないと、
「惨めさ」「劣等感」などの嫌・不快な「感覚・感情・気分」が生じてくる

これが、
「間違えを認められない」ということに繋がって来ると思う。

立場によっては、「間違えを認める」と「立場・地位」を失う場合がある。
競争が苛烈で、誰かが転げ落ちることで、生き残り、そして出世していく、という世界もある。
そういう世界では、解っていても、「間違えを認める」ことができない場合もあると思う。

そういう環境でなくても、間違いを認められない場合がある。

それは、「惨めさ」と強くリンクしているから、ではないか、と思う。

「承認欲求」、言い変えれば、
「他人からの良い評価を受けたい」。

「承認欲求」や
「他人からの良い評価を受けたい」
だけだと、
良い評価されなければ、どうおってことはないように、文章から感じる。

だが、
「承認欲求」や
「他人からの良い評価を受けたい」
を求めるということは、

「承認欲求」「軸」や
「他人からの良い評価を受けたい」「軸」
のセンサ・感覚が「開く・鋭く」なる。

だから、
「他人から良い評価されない」、
「他人からの悪い評価」
ということにも、拘るようになる。
言い換えれば、囚われるようになる。

「他人から良い評価されない」、
「他人からの悪い評価」
を認識し、受け止め、
「他人からの良い評価になる」コトをやっていけるようになる、
ということもある。

「間違いを認められない」
という観点から言えば、

「他人から良い評価されない」、
「他人からの悪い評価」
というのは避けたい。

自分の間違いを認めて、
自分に対し 良い評価される
なら、進むかもしれないが、

基本的に今の社会は
自分の間違いを認めて、
自分に対し 良い評価される
ことはない。

間違いを認めたら、
批判・罵倒が来やすい。

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私の思う優秀の定義の1つ


「投稿主/自分」は、
優秀とは、最低ライン以上の結果を出せる人だと思っている。
いや、最低ライン以上なら、普通か。

ある状況において、最低ラインの結果を出すのも難しい状況・条件の時に、
最低ライン以上の結果を出せるのが、優秀な人だと思っている。

つまり、
肩書や経歴は、「期待値」が高くなるが、
結果が、駄目だったから、「優秀」という評価はできない。
そして、次回の「期待値」はなくなる。

自分の片方の親が、
テレビや、書籍のことを「う呑み」にして、実行し続け、
結果を見て、反省し、改良せずに、「できないオマエが悪い」とされてきた。

「できないオマエが悪い」という考えは否定しないが、
同じことをやり続けさせて、悪い結果を繰り返すのも、どうか、と思う。
というか、そういう面で、今でも、親を憎んでいる。
こういうふうに憎むのは、別に悪いことはではないと思う。
「間違った」、
正確に言えば「同じ不幸となることを反省せず繰り返した」ということに対し、
憎むというのは、
「同じ不幸となることを反省せず繰り返した」に対して、
「できる限り避けなければいけないこと」と、いう考えから、憎むからだ。

まあ、憎んでいるといっても、そんなに強い憎しみではない。
それは、だいぶ、自分が変われたからだと思う。
「同じ不幸となることを反省せず繰り返され」、苦労した時には、強く憎んでいたが、それは仕方が無いと思う。むしろ、それが良かったのだと思う。
良い感じで強く憎めるからこそ、変われる場合もある。
強く憎んで、自分が良い方向に変わろうとしなければ、
憎しみだけのマイナスが、また、自分の日常・人生を悪く・不幸にしていくとは思うけど。
基本的に、変わろうとしないで、誰かを一方的に憎んでいる人は、
良い方向に変わろうとしている人や、
良い人から見たら、
「また、アレが、うんざり」というふうになるから。
だから、距離を置かれていく。

なんで、「こんなことを書いた」かと言うと、

「間違いを認める」ということ

間違いを認めるのは、
誰でもなく、
まず、「自分が悪い生き方」を
まず、「1つ終わらせよう」とするために、
必要だと思うから、書いた。

悪い結果になっていることを繰り返す、
他人に危害・迷惑もあるが、
良い人間は離れていく。
物理的に離れられる人は離れ、
物理的に離れられない人は、「精神的・こころ的」に離れていく。

悪い結果になっていることを繰り返す人は、
お金で人の時間・接待を買わない限り、
良い人から、良い感じで施されなくなっていく。

それを自覚していたら、いいが、大抵は、自覚してない。
「なんで、自分は、愛されないだ。大切にされないんだ」と嘆く。

自覚している人は、気付いて治すか、
自覚している人は、「治らないし、治す気がない」から、「それでいいや」と開き直れる。大して拘らなくなる。嘆くまでにならない。
嘆くなら、まず、自分が変わろうとするから、
なかなか、変われないことで嘆くかもしれないけど。

ーーーーーーーーーーーーーーーー
結果を認識し、
悪い結果を繰り返す場合、
反省というか、分析をして、同じことをしない。

別の方法を試しても、
悪い結果ではなく、良い結果になるとは限らない。
ただ、繰り返すことで、「良い結果」に繋がっていく。
分析することで、「何よりも」、
自分の思考以外の「情報」から「気付きやすくなる」。
「他人の考え」を参考にいして、キャッチしようとする生き方をするようになる。

結果を認識し、
悪い結果を繰り返す場合、
反省というか、分析をして、同じことをしない。

という人は、「間違い」を認められやすい。
ただ、
深層心理的に、
「間違えを認めなければならない」という状態や、想定が起こると、
「感覚」「感情」「気分」的に嫌な気分になり、避けようとする人は、
「間違え」を認めるというか、「間違っていました」と言えない、と思う。

色々なケースがあると思うが、自分のケースで言えば、
「間違えを認める」と、他人から(自分の場合は家族から)支配される場合。
発言権が無くなり、いいから従え、
とことん、攻め尽くしられる場合、

拒否反応が起こる。

物理的に人間関係を切らない、
こころ的に人間関係を切らない場合は、

「間違いを認め、迷惑・危害・損害を与えたことに謝ること」

「許す」
ことは、セットだと思う。

「許した」としても
「再び、迷惑・危害・損害を与えらえることに、もう耐えられない」となれば、
許したとしても、
「迷惑・危害・損害を与えない」ということが「期待・信用」できないから、
物理的な人間関係を切る、物理的な距離を置くことになるとは思うけど。

新型コロナワクチンを接種し続ける人は、
たぶん、
「間違い」と感覚的に解っているタイプでも、
自分の脳で
「間違いだった」と言葉で言えないのだと思う。
テレビなどの権威が
「間違いだった」ということで、
「騙された」ということで「間違いを認められる」のだと思う。

「何アイツ、許せない!」というニュースなどが、間違いを認めることを難しくしている

いや、書きたかったのは、そういうことではなくて、
「間違い」を認められないというのも、

「間違い」を認められないように
構築・作られる・プログラミングされている、
というのがある、と思う。

「間違っていた」と発言することで、
強烈な罵倒が行われる。
マスコミが率先してする場合もある。

そうでなくても、SNSで、罵倒や強い批判は多い。

少し話が脱線するが、
(すみません、そろそろ、脳が疲れて来て、勢いがなくなってきました、
魂?が載っていない文章になっていくと思います)

テレビや、ニュースなどで、それ以外にもあるけど、
間違っていることに対して、
「何アイツ、許せない!」という感情を誘起するをセットにしていると思う。

「何アイツ、許せない!」ということ自体は悪いことではないけど、
それは、本当に
「何アイツ、許せない!」という対象に対して、生じていることなのだろうか?
よくよく考えると、
自分にとっては「どうでもいい」ことを、
たまたま、テレビのニュースや、SNS系のニュースで流れてきたから、
「何アイツ、許せない!」って気持ちを誘起されただけではないだろうか?

物事を正しく見るというか、「正しい」って言う言葉が、
「この場合、こう考えなければならない」
っていうのが含むから、好きではないけど、
脳が疲れていたので、妥当な言葉が思い浮かばなくて、

「感覚・感情・気分」に訴えるというのは、
小説、映画、ドラマ、アニメ、漫画などは、
「感覚・感情・気分」の変化が起こるから、見入るものである、と思う。
だから、
「感覚・感情・気分」に訴えるということ自体は否定するものじゃなけいけど、

ただの文章的に報道すればいいことを、
「感覚・感情・気分」に訴えって、
「何アイツ、許せない!」を誘起させる、ということがあると思う。

また、「問題行動」であっても、
理想論かもしれないが、
「何アイツ、許せない!」という気持ちを誘起させるのではなくて、
「どのようにして防ぐか」とか、
「どのように解決するのか?」とか、考えたり、

当事者の「止む終えない事情も考慮する」、

新型コロナワクチン接種の推進のように「解っていてやっている」ことは、
「解っていて」
「反論や問題提起を無視し」
「やっている」のであって、
かなり強めに、主張しないとならないと思う。
「何アイツ、許せない!」ってぐらい。
それでも、変わらないし、変わったように、見えても、
計画・戦略として、次の点に移っただけで、
ワクチン接種政策を辞めさせる側の意見が通った訳ではないと思う。
ただ、ワクチン接種政策を辞めさせる側の意見があったからこそ、
多少の少ないかもしれないけど、防げたことはあると思う。
だから、
ワクチン接種政策を辞めさせる側の意見の粘り強い主張と行動・活動は、
自分は尊いをことだと思う。

で、話を戻して、
身近に、「何アイツ、許せない!」っていうのがあって、
それにのっかかって、同調して「何アイツ、許せない!」ってやっていると、
「間違っていました」と認めらなくなる、と自分は思う。

「間違っていました」と認めたら、
「何アイツ、許せない!」というが、自分側に向いて来ることが無自覚でも感覚的に想像できるから。
インフルエンサー級の人は、
「図太い神経」というかたぶん、そういう神経を持ってないと思う。
解っていてやっていれば、裏で「あざ笑っていて」、やっているだろうし。
じゃなければ、「自己嫌悪」との戦いだと思う。

ーーーーーーーーーーーーーーーー
自分は「正しいことやっていた」、
でも、「間違いだった」と気付く、
でも、他人を強く批判・罵倒している人は、

「間違いでした」と多くの人が認められないじゃないか、と思う。

ーーーーーーーーーーーーーーーー
「何アイツ、許せない!」
というのは、日頃、ストレスを蓄積していたり、
肉体・神経が損耗していたら、
火が付きやすい。

自分も体調が不良の時は、憎悪が出やすいから。

だから、
「何アイツ、許せない!」というニュース、SNSは、
飛びつきやすいのだと思う。

そして、繰り返して、
自分が、罵倒・批判される立場になるのを無自覚に恐れるようになる。
そして、「間違っていました」と言えなくなる。

「何アイツ、許せない!」というニュース、SNSは、
ガス抜き、
つまり、本人達が、悪くない暮らしのために向かう気持ちを発散させている、とも言える。

成し得ない 無力な感を突き付けられることに、気持ちを向けていても、
より、やりきれない気持ちが募っていく場合もあるから、
ガス抜きというのは必要なのかもしれない。

ーーーーーーーーーーーーーーーー

責任は、負わせるモノ、(役目を責務を果たさずに悪い結果を出したら)罰するモノ


「解っていて」
「反論や問題提起を無視し」
「やっている」人が、

自己保身・自己責任逃れのために、
「間違い」を認めて
「謝ったのだから」
「不問」
というのもある。

故意に殺人をしておいて、無罪というのは、
ありえるのかもしれないが、
ありえないだろう。
その部分が、「まっとう」に機能していれば。

それのように、
重大な・多量な損害等を
「解っていて」
「反論や問題提起を無視し」
「やっている」人が、

「間違い」を認めて
「謝ったのだから」
「不問」
というのをすれば、
同じようなことを繰り返したり、
繰り返す人が出てくるだろう。

過去記事を読んでくれている人は少ないと思う。
(それでも、読んでくれている人には、感謝。)

責任とういうのは、取らせるモノじゃなくて、
責任というのは、負わせるモノ、罰するモノだと、自分は思っている。

責任という言葉自体、時間の流れてで意味合いが変わってくるが、
果たすべき責任(役割・役目)を果たさずに、
悪い方面で生じたコトは、その責を問われ、
責任を負わせる・罰することをしなけばならない、と思う。

でも、それが、警察・司法によって成されるのだから、
警察・司法が、不問とすれば、どうすることもできない。
私的制裁は禁じられている、というか、それこそ、逮捕され、罰せられるから。

なんか、話があっち、こっち飛んでいるが、

「間違いを認めるコト」と
「許すコト」と
「同じ問題を繰り返さないように考えて努めるコト」
はセットだと思う。


新型コロナワクチン接種者が
「間違っていた」と思っていて、
それを「強く批判・罵倒」するような空気だと、

新型コロナワクチン接種者の中には、
「間違っていた」と言えない人がいるかもしれない。

理想を言えば、
「新型コロナワクチン接種」を強要や強要に近いことをしたことは、
「間違っていた」と認めるべきだと思う。

「間違いを認める」
「間違いを受け入れる」ことができないと、
結局、同じようなことを繰り返す。

それが、一番、懸念・嫌悪・憎悪するところだと思う。

「間違いを認めて」
「間違いを受け入れて」
(同じ悪い結果を繰り返す行為を辞めるか)
(悪くない結果となる行動ができるようになるコトが)
「同じ悪い結果を繰り返さない」コト になる

その大切さを家庭・小学校から、教え諭すことができていれば、いいが、

叱られたことは、やってはいけない

だから。

結局、
「良い結果になるように」「良い結果を目指すように」
考える事自体が、教えられていない。

だから、できない。

良い結果を目指すことも、

大抵は
「褒められること」と
「業績を上げること」で、

倫理観や道徳観を供わない場合もある。

倫理観や道徳観が供わなければ、
それこそ、「謝れない」し、「間違いだと認められない」。

社会的には、問題があっても、
会社・組織的に「褒められる・良い評価をされる」なら、
「間違っていない」か、
「誰だってやっている、自分だけじゃない、と言って正当化する」

倫理観や道徳観を重視していたら、
働いてお金を手に入れる事、お金を稼ぐことが、
非常に難しい社会になっているとは思う。

だが、
倫理観や道徳観が軽薄なり、

仮に、初期が「勘違い」であったとしても、
途中で政策を辞めることが、できる立場の人たちが居た。
でも、辞めなかったし、今も辞めてない。
そして、不幸、悲劇、絶叫、嘆き、哀しみが続く。
一部に、
「不幸、悲劇、絶叫、嘆き、哀しみ」から来る「怒り・憎悪」を募らせる。

政策を辞めない人達には、考えがあって、
なんらかの正義があって、
一般大衆・庶民・民衆とは、違う考えを持っているのかもしれない。
ならば、
一般大衆・庶民・民衆とっては、
脅威と
命をおびやかす敵・
命を奪う敵

ということになるが、
できることは抗議ぐらい。
それも、「やかましい」なあいつら で結局、終わり。
オモテでは、真摯に汗を流して対応しているフリをするけど。
場合によっては、窓口は別の人にやらせれば、多少のお金を払ってご苦労さんで終わる。

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最後まで、お読みいただきありがとうございます。
かなりの長文、お疲れ様でした。

理想論で役に立たない意見だと思うけど、役に立てば。