メイクが禁止されている中学・高校で、メイクをしたい生徒個人がとれる戦略的振る舞いについて

学校教育は、根本的に軍隊教育であり、軍人や軍人を支援する人間を養成するものという性格が強い。

昔の日本社会では、理想の歯車のように扱える(すぐ言うことを聞く)人間を大量に必要としており、学校ではそうした人間をたくさん育て上げるというようなことを使命としていた。

「優・良・可・不良」といった選別がそれを表していた。エリート(選良・選ばれた人)という言葉もそうであった。

このように、生徒は「いかに使用者側が都合よく使えるか」という基準で選ばれていた。

使用者側が都合よく使えない人間は、不良である。



2023年においても、学校の校則が戦前のときとほとんど変わっていないような中学・高校は、校則も軍人育成要素の性格を帯びているはずである。

「軍人(昭和時代の軍人のこと)となるためにメイクなど必要ない。軍隊内の風紀を乱すからである」というのは、当時の価値観では正しい。

つまり現代でも「メイク禁止」が校則に載っているのは、慣習によるのである。これは今までの生徒たちやその地域住民が校則を変えてこなかったという怠惰でもある。

「自分たちが3年間我慢しさえすればいい」として声をあげてこなかったり、「そういうものだから」だとか「今は関係ないから」だとか「喉元過ぎれば熱さ忘れる」だとかによって、長らく変わっていないだけなのだ。

したがって、そこに「なぜ」を求めても意味がない。「なぜそうなのか」という納得できる理由があったのは校則ができた当時であり、現代では到底納得できるものではない。

なぜという理由はない。

「なぜメイク禁止の校則が、制定当時のみならず、現代においても正当化されるのか」という理由はすべて後付けである。理由の方が規則よりもあとに来ているわけだ。

世界が、社会が、そういうふうになってしまっているだけだ。


なぜそうなってしまっているのか?

教師が校則違反を指導しなければ、その地域住民から批判を浴びせられることが多い。「あそこの中学校・高校は風紀がなっとらん」「あんなけばけばしい格好はけしからん」「最近の若者はダメだ」というような声である。

こういう老人はどの時代にも一定数存在する。

そういう住民は自分たちがそうした価値観で育ったため「中学・高校でメイク禁止は当然である」というふうに考えている(自分たちがメイクをしていたとしても)。

それから、中学・高校は、私立を除いてはその地域の地方自治体の傘下にある。基本的には市や都道府県教育委員会の下に位置づけられる。私立であったとしても、その地域住民の協力なしではやっていけない。

端的に言って、校長よりも、教育委員会の局長や教育委員の方が偉いのである。そして、地域住民の中で「けしからん」という人々の知り合いが、その局長だったりすることがあるのだ。繋がりがなくとも、変なクレームを入れられてはたまらない。「"問題生徒"を放置するような学校の管理をしておるぞ」とみなされるのだ。

そうした局長の部下である校長の部下である学年主任の部下であるふつうの教員や生徒指導の教員は、その圧力に逆らえないものなのである。自分の人事がかかっている。自らの給与査定に関係する。自分の家族にいい生活をさせたいのだ。

彼らは、自分の罪悪感を和らげるために一生懸命理由を探す。やれ「肌が荒れる」だの、「まだ早い」だの、「いいから黙って聞け」だの、あとからくっつけたとしか思えないような稚拙な理由づけがなされる。

これは「知性化・合理化・道徳化」と呼ばれて知られている心理の防衛機制である。

本当におかしい・昇進なんか知るかと思っていて圧力に屈しない教師はあまり上司からいい顔をされない。反抗的だとみなされるためだ。給料も上がりにくくなる。

ほとんどの教師は日和見主義者になる。「自分もまあ納得はできないけど、まあ "そういうものだし" 3年間だけだし我慢してよ。私とあなたのそれぞれの平穏のためにたのむよ」というお願いになる。

そういう状況下で「メイク禁止の校則があるにも関わらず、メイクをしてくる中学生や高校生(しかも教師自身の給料に影響を及ぼしかねないレベルのメイク)」は、大変迷惑な存在なのである。

ここで「キレる」「罵倒する」というように、生徒に対してデメリットを提示する教師もいるかもしれない。教師から見れば、生徒に給料の上下という生殺与奪の権利を握られて、脅迫されていると感じているかもしれないわけだ。

これが実際の大人の事情であると思う。


日本社会は長老社会と言われている。長老(老人)が支配するような世の中だからだ。実際、日本人の平均年齢は約49歳である。とりわけ、各地域においては、その地域のことしか知らないような住民がそこを牛耳っていることも多い。

メイク禁止の学校でメイクをするというのは、このような長老社会が完成している地域や学校組織への挑戦という意味でもある。権力や権威や実績が無ければ潰される。

権力闘争なのだ。

そういうシステムになっていることを、中高生は全然理解していない。単に「メイク禁止の合理的な理由がない」とか「自分が嫌だ」とかそういう理由で、権力に対して何も武器を持たずに個人で闘争を挑んでいる。

当たり前だが、それを大人は全力で潰してくる。

日和見主義者の中高生が味方してくれなければそこで終わりである。「メイクを多少しているけれど怒られない世渡り上手」や「メイクをあまりしない人」などは味方をしてくれない。

敗北するだけだ。


ここでとれる戦略的振る舞いはさまざまあるが、代表的なものを3つ挙げる。

1つは、味方を大勢作り校則を変更する方法だ。これはおそろしくめんどうくさい方法だが、将来にわたってその中学・高校では校則が変更された状態になるため、未来に禍根を残さない。校則を変える過程でリーダーシップを培うことにもなる。もっとも正当なルートだ。

人を集めてデモをやるとか、地域住民に訴えるとか、SNSやマスコミを使うとかがあるが、重要な点は人から信頼されるような人間になることだ。

校則がそんなことになっている地域でメイクをしている中高生は、地域住民からの印象がマイナスからスタートする。そのため「やっぱりそういう格好をしている生徒はダメダメだな」という行動をとらないようにするとか、「メイクをしている子達のほうが愛想がよく知的だ」などのようなアピールが必要になる。

これは恐ろしくめんどくさい。だからこそ、今まで変わってこなかったのだった。

しかし今後はこういうことが可能な人間が求められている。


もう1つは、「社会とはそんなところだ」と受け入れて、めんどうくさい教師の前では校則をある程度守っておくという方針だ。

これは地域社会そのものは何も変わらないが、処世術として重要になり、メリットは大きい。

ほとんどの人が自ずとこの道を選んでいるはずだ。

そして、大学生や社会人になると一気にメイク解禁になる。大人の社会は、その地域だけに限定されていないからだ。価値観は昭和から一気に2023年のものになり、グローバル化も若干進む。

そういうわけで「メイク禁止」を一生懸命守っていた人間がバカを見る世の中になっている。

「一生懸命くだらない校則を守っていた人間」は、戦前の価値観が現代でも通じるという学習をしてしまった人間でもある。そうした人は、出遅れスタートとなる。教育としてきわめて不適切で不誠実な結果に終わっている。「使用者がいいように使える人間」となっただけだ。


もう1つは、メイク禁止でも無視してメイクして学校に行くことだ。反抗の最前線であり、自分の存在価値を賭けてひたすら挑戦を続ける。

教師にこの記事を読ませてみるとか、この記事の概念を叩きつけるのもいいかもしれない。

メイク禁止は、現代において合理的な理由は何もない。そこに勝機がある。

パターナリズム、自己決定権、愚行権、自由、権利、なぜ人権がある自分にそれが強制が可能かの根本的理由の追及、学校組織の構造についての脆弱性、教師の日和見主義、教師が自分の人生に介入するために持つべき責任、具体的な自分へのメリット、などの言葉を使って交渉してもいい。


まあ、社会にはよくわからない意味不明なルールがたくさんある。そして、多くはその意味不明なルールを「意味不明だな」と思いながら守り続けるものだ。

意味不明なルールで得をしている人がいるのだ。変わりたくない人たち、自分の価値観こそが至上だと思っている人たち、既得権益の保持者だ。

誰かが大人になったときにぶち壊してくれていたりもするが、それも逆に言えば誰かがぶち壊さなければ変わらないのである。

実際、自分自身にはもう関係のない「メイク禁止の校則ごとき」で、本気で権力闘争をはじめようとする大人はいない。メリットが何もないからだ。せいぜい「自分の子ども可哀想」ぐらいであろう。

そのへんの大人にとっては、単に「しょーもない社会だな」と愚痴をはくことが限界だ。この記事もその1つだ。可哀想だとは思うが、自分は別に動こうと思わない。無関係であり、無関心だ。

誰もこんなものは読まないとは思うが、誰かに伝われば幸甚である。

いいなと思ったら応援しよう!